歴史観について―壺井繁治と張志淵

日本の古典的な左翼というか、この場合、日本共産党と言っても良いのだが、二度の転向を許してしまう。例えば壺井繁治。プロレタリア詩人として作品を発表し続けながら、大東亜戦争が始まると戦争協力詩を書き出す。ここで一度目の転向を遂げるわけだが、戦争が敗戦で終ると再び日本共産党系の詩人として、戦争協力詩を書いていた過去など忘れて再び活動を始める。今年亡くなった吉本隆明は『芸術的抵抗と挫折』をもって壺井繁治をはじめとしたプロレタリア詩人の二重転向を厳しく批判したが、『憲法改悪に反対する』『戦争はしない』『憲法9条とともに』といった「詩のパンフレット」も刊行している詩人会議が主催する壺井繁治賞は今に至るも続いている。こうしたパンフレットには戦中の日本を厳しく糾弾する「詩」が掲載されている。こんな具合に、だ。

国家権力は英霊と崇めて誤魔かす/無謀な戦争で死なせた数多くの兵士達が/外地では殺した奪った強姦した南京大虐殺等/過ちはブーメランとなり還って来る

「過ちはブーメランとなり還って来る」のであれば壺井繁治も批判にさらされても良いはずなのだが、そんなことは綺麗さっぱりに忘れられてしまう。ちなみに壺井繁治の妻は何度か映画化もされている『二十四の瞳』の壺井栄である。
日本の左翼の牧歌的な歴史観と全く逆なのが韓国の「国定史観」であると言えるかもしれない。わが国ではそれほど大きく報道されなかったが、韓国では昨年、4月5日に「独立有功者」とされていた韋庵こと張志淵の叙勲の取り消しを国務会議で決めた。4月7日付中央日報の「独立有功者・張志淵の親日をめぐる論争」は次のように書いている。

5日の国務会議で、韋庵を含む19人の独立有功者に対して叙勲取り消しを決めた。昨日まで独立有功者だったが、一日で親日派に転落した。親日派を批判してきた市民団体の決定ではない。李明博(イ・ミョンバク)政府から出た公式議決という点で波紋が大きい。

歴史は1905年11月に遡る。日露戦争に勝利した当時の日本は欧米列強から朝鮮半島支配のお墨付きを得て、第二次日韓協約を締結する。この協約により、大韓帝国は事実上、日本の保護国となる。その際、張志淵は「是日也放声大哭(今日大声で慟哭する)」という論説を皇城新聞に掲載する。張志淵は同紙の主筆であった。「是日也放声大哭」には、こうある。

それにしても 悲しい.。あの犬豚さえもできなかった、いわゆる我が 政府の代表と言う者等は自分の保身と利益を望んで、脅威に恐れて 、ぶるぶる震え、国を売り渡す盗賊となることを甘受したのだ。

張志淵のこの論説を掲載したため、皇城新聞は休刊に追い込まれ、張志淵も投獄されてしまう。韓国では張志淵は抗日言論人と位置づけられ、1962年には建国勲章国民章がおくられた。2008年の11月14日付東洋経済日報で『放浪の天才詩人 金笠』や『韓国歴史紀行』の著者でもある崔碩義は次のように張志淵を評価している。

彼はその論説の中で、日本の朝鮮侵略が如何に不法で、日本軍の銃剣が林立している状況のもとで調印を強制されたことを暴露し、これを全国民に告げたのである。同時に売国条約に賛成した李完用、李根沢、李址鎔、朴斉純、権重顕らの五大臣を「犬豚に劣る連中だ」と痛烈に批判した。以来、彼らは朝鮮で最も不名誉とされる「親日派」の元祖になったのは周知の通りだ。
張志淵の論説は、幾分激昂した文調ではあるが、憂国の情に満ち、民族の精気が溢れた格調高いものであった。この乙巳条約が結ばれたことによって、朝鮮は日本の植民地に転落し、以後、国民は塗炭の苦しみに喘いだのは歴史が証明する。また、一部の同胞はやむなく海外に流失して流浪の民となったのだから、「在日」もこれに決して無関係とは言えない。

こうした評価を李明博政府は覆してしまったわけだが、その根拠は何かと言えば、「しかし韋庵のもう一つの容貌もある」と「独立有功者・張志淵の親日をめぐる論争」は次のように書いている。

1914年に朝鮮総督府の機関紙格だった毎日新報に寄稿したのだ。その年12月23日から1918年7月11日まで発表した詩と散文の中に親日傾向の内容があったという研究結果が伝えられ、批判を受けた。2009年に民族問題研究所が編纂した『親日人名辞典』に収録され、論争を呼んだ。

韓国の李明博政権は張志淵を「抗日言論人」としてではなく、「もう一つの容貌」たる「親日」派として「正史」に位置づけることを決めたというわけである。韓国国内には、こうした評価に対して異論があることも中央日報は伝えている。慶南道民日報という進歩派の新聞が報じたように張志淵が日韓併合後の1910年代に書いた文章のなかに親日傾向の内容があったとしても、張志淵は1920年代の対日武装独立運動にも加わっている。それでも「親日」に重心を置いて評価しようというのが、李明博政権によって公認された「国定史観」ということになるのだろうか。それは同時代的ではなく事後的であるがゆえに厳しく、激しい「歴史観」である。馬山市は市内にあった「張志淵路」という通り名をなくしてしまったという。