光市母子殺人事件の死刑確定判決で思考停止に陥った新聞の社説

山口県光市で1991年に起きた母子殺害事件で2月20日最高裁において「元少年」の死刑が確定した。朝日新聞讀賣新聞日本経済新聞産経新聞が実名で報じ、毎日新聞東京新聞は匿名とした。新聞社によって「見解」が明確にわかれたわけだが、朝日と産経は「社説」でこの事件を取り上げなかった。一審、二審が無期懲役となり、最高裁で差し戻しとなり、差し戻し後の二審で死刑、そして、今回の最高裁で上告棄却となり、死刑が確定する。その間、妻子を奪われた遺族の本村洋氏が犯罪被害者の権利や地位向上を訴え立ち上がり、全国犯罪被害者の会を結成し、世論を大きく動かし、刑事訴訟法などの改正や犯罪被害者基本法を成立させる。そうした経緯を考えれば「元少年」の実名を明らかにしたうえで報道する以上、朝日新聞産経新聞は「社説」で取り上げるべきではなかったのか。両紙のとも、この問題から逃げたとしか私には思えなかった。確かに朝日は「天声人語」、産経は「産経抄」で取り上げてはいたが、新聞における言論の背骨は「社説」ではないのか。
もちろん、「社説」を掲載すれば良いというものではない。上告を棄却した最高裁の判決について、新聞がどう考えるかを私などは知りたかったのだが、どの「社説」も歯切れが悪い。うがった見方をするのであれば、「社説」で取り上げるとなると歯切れが悪くなるから、朝日と産経は「社説」を回避したのやもしれない。
最初に目を通したのは毎日新聞の「社説」。タイトルは「光事件元少年死刑 判決が投げかけた意味」。曰く「結果的に死刑の結論を支持した最高裁判決は、少年事件における厳罰化の流れを決定づけるだろう」。そう予測するのは結構なのだが、少年事件における厳罰化の流れが何を意味するかは述べられない。少年事件における厳罰化の流れが決定的なのであれば、民法第4条の「年齢二十歳をもって、成年とする。」という規定を18歳まで下げるべきだろうし、また公職選挙法を改正して18歳選挙権も実現すべきでなのではないだろうか。その辺りの毎日新聞の見解はどうなっているのだろうか。讀賣新聞の社説「光市母子殺害 残虐性を重く見た最高裁判決」は辛うじて「選挙権年齢の18歳への引き下げが検討課題となるなど、年長少年を「大人」と見る風潮は強まっている。社会状況の変化も、最高裁の判断の背景にはあるだろう」と書いてはいるが、どこか他人事のような書き方である。そう感じたのは私だけではないはずだ。
次に目を通した日本経済新聞の社説「冷静に議論を続けたい『少年と死刑』」は「 少年への刑罰はどうあるべきなのか。裁判員時代における、私たち一人ひとりの問題として考え続けていかなければならない」としているが、要するに総ては読者に丸投げ、これでは何も言っていないに等しい。別に日経だけが洞ヶ峠を決め込んでいるのではない。先に読んだ毎日にしても、日経に続いて読んだ讀賣、東京にしても同じようなものである。そこに「言論」があるとは言い難かった。最高裁判決を妥当と考えるかどうか。どの新聞の「社説」も明確に述べてはいない。政治にかかわるテーマでは「社説」があたかも「世論」であるかのように旗幟鮮明にすることが多いけれど、今回は揃いも揃って口ごもっている。
ただし、新聞によって若干の違いもなくはない。実名報道に踏み切った讀賣と日経が死刑制度を前提とした書き方であるのに対し、匿名報道の毎日と東京のニュアンスは違った。毎日は社説を結ぶにあたって、取り敢えず「死刑制度」という四文字を次のように滑り込ませている。

凶悪事件を起こした少年に対して社会がどう臨むのか。死刑制度の議論と併せ、国民一人一人が難しい問題に向き合う時代がきている。

毎日新聞が「死刑制度」をどう考えるかは忌避したうえで「死刑制度」が「議論」の対象としては「ある」ということを示唆するだけはしておこうということなのだろう。だいいち「国民一人一人」はいつだって難しい問題に向き合っているのだ。毎日新聞は「国民」を「愚民」としてしか見ていないのだろうか。
東京新聞最高裁の判決に際して「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、私の妻と娘、そして被告人も犬死にです」「この事件で三人の命が奪われる結果になった。明らかに社会にとって不利益なことです」という遺族の本村洋氏の重く、本質的な言葉を引用したうえで、こう書いている。

極めて深遠、かつ根源的な問い掛けである。二人の殺害で被告を処刑すればいいという、単純な報復感情とは明らかに一線を画する。死刑制度はどうあるべきか。社会の安全をどうつくるかを国民全員に問うているのである。

本村氏の「極めて深遠、かつ根源的な問い掛け」は「死刑制度はどうあるべきか」という問いを果たして孕んでいるのだろうか。私は違うと思う。本村氏がここで言っている「死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会」とは、死刑に相当するような残虐で残酷な犯罪のない社会である、そうした犯罪の芽を未然に摘み取れる社会である。光市母子殺害事件の公判を通じて、残虐で残酷な犯罪を起こしてしまった少年の過去が明らかになる。幼少時から母親に暴力を振るう父親を目の当たりにし、自身も父親に暴力を振るわれ、母親は中学1年のときに首吊り自殺。父親は若い外国人女性と再婚し、異母弟が生まれるというように「元少年」は家庭から疎外されて生きてきた。もし、「元少年」をそうした環境から救い出すことが社会にできていたならば、本村氏は妻や子供を殺害されなかったろうし、元少年も死刑という形で犬死をするようなこともなかったはずだと、そう私は理解している。だから、犯罪が起こった時点でみな敗者なのである。それに本村氏は今回の死刑確定の判決に関して社会正義が示されたものとしているし、「反省した状態で、堂々と刑を受け入れて欲しい」とも語っているのだから。そうだとすれば、本村氏の発言を受けて「社会の安全をどうつくるかを国民全員に問うている」とは書けても、「死刑制度はどうあるべきか」とまでは書けないはずである。仮に「死刑制度はどうあるべきか」と、どうしても書きたいのであれば、本村氏の発言を踏まえて、そう書くのではなく、自らの立場を、つまり今回の判決が妥当かどうか、死刑制度は是か非かを鮮明にしたうえで「死刑制度はどうあるべきか」と「国民」に問うべきだろう。
ちなみに私は死刑制度に反対である。正義の名の下に執行されるとはいえ、死刑が「殺人」であることには変わるまい。死刑廃止は近代国家の常識となりつつある。ただし、もしも私の妻子が本村さんの妻子のように残虐で、残酷な犯罪に遭遇してしまったならば、私は加害者に対して、たとえ法を逸脱してでも報復する覚悟を決して捨てるつもりはない。

2月22日追記 光市母子殺人事件の「元少年」が最高裁で死刑が確定した件について、朝日新聞は2月22日付朝刊で一日遅れの「社説」を掲載した。最高裁の判決が出たのが2月20日、2月21日には毎日、讀賣、日経の各紙が「社説」で取り上げるなか、朝日新聞が競合紙に一日遅れて「社説」を掲載した意図はどの辺にありや?少なくとも朝日新聞は「後出しジャンケン」によって、他紙の「社説」を俯瞰しながら、視点からバランスの取れた「社説」を書くことができたはずである。
「大人と子どもの線をどこに引き、どんな権利や責任を分かち合い、成長の過程にある年代をどうサポートするか。
それは、教育や福祉をはじめ様々な分野で、考えていかなければならない課題だ。視野を広げて議論を深めたい」
こう朝日新聞は「社説」を結ぶが、「考えていかなければならない課題」だと逃げるのではなく、
この点について朝日新聞がどう考えているかをこそ私は知りたい。