新聞とソーシャルメディア 春日太一のツイートから考える

NHK大河ドラマ平清盛』。エルマンノ・オルミの映画をこよなく愛する私としては、好きなテレビ番組のひとつであり、毎週欠かさず見ている。もっとも視聴率は悪いらしい。本来、視聴率は広告ビジネスのための基準のひとつであり、広告とは無縁のNHKにとって本来、関係のない数字であるはずなのだが、外野は何かとかまびしい。私などは中井貴一松山ケンイチの演技力はむろんりこと、意識的に埃っぽい映像を選択し、光と影の陰翳をもって平安時代のリアルを何とか再現しようと試みていることも、『平清盛』を好ましいと思っている理由のひとつだが、次のような朝日新聞の4月21日付夕刊の河村能宏による記事「『清盛』視聴率 最低レベル」は、その凝った映像が視聴率低迷の原因だと指摘している。

低迷の理由の一つとして指摘されているのが、見慣れない画面だ。
NHKは今作でリアルな平安時代の再現にこだわった。例えば衣装。絹などの生地は豊富になかったことを踏まえ、登場人物の衣装を意図的に汚し、使い古した感じを出した。平安時代のほこりっぽさを表現しようと穀物の粉を空間にまいた。
それが視聴者に違和感を与えたようだ。兵庫県知事が「画面が汚い」と発言して話題になったが、NHKにも視聴者から同様の意見が寄せられているという。

こうした見方を正当化するために朝日新聞は『時代劇は死なず!―京都太秦の「職人」たち』の丁寧の仕事で知られる春日太一に次のように発言させている。

時代劇研究家の春日太一さんは「ハイビジョン化で映像が鮮明になりすぎ、時代劇の衣装やセットがウソっぽく見えるようになってきた。NHKが映画のようなリアルさを求めたのは評価できるが、違和感を感じた視聴者が離れてしまったのだろう」と指摘する。

私は『時代劇は死なず!―京都太秦の「職人」たち』では春日に共感したが、『平清盛』をめぐっては評価が違うものだなと思っていたのだが、春日が4月21日午後3時59分にささやいた次のようなツイートを発見して愕然とする。春日は「ハイビジョン化で映像が鮮明になりすぎ、時代劇の衣装やセットがウソっぽく見えるようになってきた。NHKが映画のようなリアルさを求めたのは評価できるが、違和感を感じた視聴者が離れてしまったのだろう」などと指摘も、発言もしていなかったのだ。

拡散希望】今朝の朝日新聞に掲載されている『平清盛』記事での私のコメントですが、後半の「映画のようなリアルさ」「視聴者の違和感」は記者の解釈で書いたもので私の発言ではありません。実際には視聴率低迷の原因は「実際のところは統計調査しないと分からない」とし、脚本の問題を指摘しました。

春日が朝日新聞の取材に応えて実際はどのように発言したのかといえば、春日のツイートによればこうなる。

朝日の記事のコメント、読み直したら前半の「ハイビジョン化で映像が鮮明になりすぎ、時代劇の衣装やセットがウソっぽく見えるようになってきた」も後に続く「だから『清盛』はウソっぽくならないよう、あえて汚して鮮明さを押さえた」がカットされてるんだ。これじゃ「清盛」が「ウソっぽい」みたい…

春日からすれば言ってもいないことを書かれたわけである。「言ってもいないこと」を書くことを世間では「捏造」というのではないだろうか。しかも、こうした新聞のコメント「捏造」は珍しいことではないらしい。『αシノドス』『シノドスジャーナル』編集長の荻上チキは春日のツイートに次のように返信した。

秋葉原事件について取材を受けた時、僕が言ってもいない(絶対に言うわけがない)、「被告は現実とバーチャル(仮想)がごっちゃになった」とかいうセリフを、僕のコメントとして記事化されそうになったことが。事前チェックをしたために、一切の掲載を断ったけど。

「<取>りにいくのは、あらかじめ欲しがっている<材>料だけ」という感じの<取材>をする記者につかまると、困りますね。そういうケースばかりではもちろんないですが、何度かある。あとは、取材もしてないデスク判断で勝手に改変されそうになったり。気をつけましょ!

毎日新聞の社内ではソーシャルメディアの「伝道師」の役割を果たしている小川一もこの件に敏感に反応しているが、元社会部記者の経験もあるだけに一連のツイートには考えさせられた。

談話取材は難しい。記者は紙面イメージを念頭に話を聞く。でも、取材される側はそれが見えない。記者は短時間で趣旨を相手に伝え、聞き出した話を短い字数で正確にまとめる能力が求められる。新聞の談話識者が常連になるのは、皆さん取材慣れしていて、記者がほしい言葉を瞬時に言ってもらえるからだ。コメントの「捏造」と根は同じなのではないか。だからこそ新聞は疑って読むべきなのだ。

いつも同じような文化人や知識人のコメントが新聞を賑わすのは、何てことはない、「記者がほしい言葉を瞬時に言ってもらえるから」なのである。「記者がほしい言葉」が記者の「思い込み」に忠実な発言であることもあり得るのである。実際、そのような類のコメントの何と多いことか。

検閲と戦ってきた新聞社は原則としてゲラ刷りを事前には見せない。だから事前チェックが難しい時代が長く続いた。ファクスとワープロが普及した80年代末から記者の元原稿を私信の形で見てもらう取材スタイルが可能になった。今はメールでチェック。だから今回の朝日のようなトラブルは少なくなった。

今回のようなトラブルは少なくなったとはいえ、記者の「思い込み」によって記事が書かれる限り、根絶することはできないのであろう。この「思い込み」が記者としての情熱として評価されることもあるし、なかには「思い込み」を「正義」であると勘違いしている記者もいなくはあるまい。そういう意味では次のような小川の自己批判を踏まえたツイートは相当勇気のあるものであると私は思った。

深夜に電話でたたき起こされ、訳のわからないことを聞かれ、必死で話したコメントが曲解されている…。こんな経験をされた方々には業界人として心からお詫びしたい。ただ、春日太一さんがブログやTwitterで自分の真意を瞬時に発信できるようになったことは、時代の進歩だと思う。

春日が「自分の真意を瞬時に発信」がきたのも、小川がこのようにツイートすることができたのも、誰もが「個人」の資格でメディアを操れるようになったソーシャルメディアの時代ならではのことである。ソーシャルメディアによって誰もがメディアを操れるようになったということはソーシャルメディアが「われわれのメディア」であるということにほかならず、直接民主主義と親和性の高いメディアとして定着する可能性を孕んでいるということである。もし、マスメディアたる新聞がソーシャルメディアの時代に耐えられるとするならば、「われわれ」の場所にまで降りてくることなしにはあり得まい。しかし、『平清盛』の記事の件で言えば、春日が朝日新聞に訂正を求めていないということもあってか、そのまま訂正されることなく「朝日新聞デジタル」にアップされたままである。たとえ春日が訂正を求めなくとも、自ら進んで訂正するのが、ソーシャルメディア時代の流儀ではないのだろうか。
朝日新聞にあって元ジャーナリスト学校主任研究員、月刊Journalism編集部記者であり、現在、横浜総局記者の伊丹和弘が「『ミドルメディア』で日本の言論界が変わる(1)/茂木健一郎脳科学者)、上杉 隆(自由報道協会代表)」
PHP Biz Online 衆知(Voice)という対談記事について次のようにツイートした。

上杉隆さま @uesugitakashi 茂木健一郎さま @kenichiromogi 「ミドルメディア」で日本の言論界が変わる(1) http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120418-00000001-voice-pol には事実誤認の記述があります。ご確認の上、訂正などの対処をしていただけると幸いです。

茂木はそこで「記者はツイッターをしてはいけないという言論封殺を、天下の『朝日新聞』ですらしていたのです」と語っているのだが、伊丹によれば、そのような事実は全くなく、朝日新聞が記者にツイッターを禁じたことは一度もないというわけである。実際、某紙は別にして朝日新聞が記者にツイッターを禁じたことは確かにない。このツイートに対する茂木の反応は早かった。こうツイートで返信した。

伊丹さま ここの私の発言は、事実誤認に基づくものです。お詫びして訂正します。

茂木は伊丹の訂正要求に関しても事実を確認した上で即座に応じているばかりか、その過程をツイッターで自らさらした。

伊丹さん、私の発言に関しては、次のように訂正します。 @itami_k 茂木 (前略)ツイッターに関しても、『朝日新聞』が積極的に活用する方針に転換したね。

訂正続き @itami_k  茂木 仮に、ある会社の方針としてツイッターが禁止なるようなことがあったとしたら、それに黙って従うなんて、ジャーナリストとはいえないよ。

このようにメディアとしてどこまでも開かれている「しなやかさ」に私はソーシャルメディアの可能性を感じている。伊丹のツイートも「肩書き」を振り回すものではなく、「個人」の資格によってなされていたことに私は好感を持った。なればこそ新聞というマスメディアもまた自らを開き、自らを積極的にさらす覚悟を持たない限り、ソーシャルメディアの時代に耐えられないのではないだろうか。春日からの訂正要求がなくとも朝日新聞は記事を訂正すべきである。いくら記者が「ツイッターの自由」を手にしたところで、新聞そのものが変わらなければ意味がないということだ。