断片の昭和史(15)荒川放水路・バラバラ殺人事件

1952年(昭和27)5月1日の「血のメーデー事件」。毎日新聞は「メーデーの流れ暴動化す」と一面で見出しを打った。前年に締結したサンフランシスコ講和条約が全面講和ではなく単独講和だったことへの不満もあった。国会で審議されている破防法への反発もあった。神宮外苑でのメーデー大会終了後にデモ隊は使用禁止の皇居前広場に突入した。警察はピストルで実弾を発砲し、催涙ガスを撃ち込んで反撃。デモ隊の2人が死亡する大乱闘に発展した。負傷者1500人余、逮捕者1232人。その余韻がまだ冷めやらぬ5月10日午後12時半ころ、足立区本木町4−4−433、荒川放水路の入江、通称「日の丸プール」に新聞紙と油紙に包まれた首と両腕のない胴体だけの死体が浮かんでいるのを子どもが発見、西新井署に届け出た。
頭部が瓦職人によって発見されるのは5月15日午前9時50分ごろ。「日の丸プール」の対岸、約300メートルほど下流にあたる西新井橋の上流約一キロの南岸に「首」もまた新聞紙に包まれて漂着していたのである。ただし、頭部は長時間にわたって水中にあったため原形をとどめていなかった。ひょっとこのような顔が印象的であったが、被害者の身許はモンタージュ写真の作成を待たねばなるまいと捜査陣は踏んでいた。
ところが、原形はとどめていないものの、ひょっとこのような顔つきに「身内」の板橋志村署が反応した。被害者は志村署の警邏係に勤務する伊藤忠夫巡査(当時27歳)にほぼ間違いないことが判明したのである。
翌16日早朝には両腕が発見され、指紋照合の結果、伊藤巡査であることが確定。直ちに身辺捜査を開始。同日夕刻5時45分、伊藤巡査の内妻宇野冨美子(当時26歳)、職業志村第三小学校教諭を殺害容疑で緊急逮捕。家宅捜査を行ったところ自宅二階の四畳間の押入れのカーテンに血痕を発見。
5月17日正午。宇野冨美子は夫を絞め殺し、母と死体をバラバラにして川に投げたと犯行を自供。同日午後3時半、母しず(51歳)を自宅で緊急逮捕。教師も多く参加した「血のメーデー事件」の直後であっただけに殺されたのが警官、殺したのがその妻で女教師であるという構図は充分にスキャンダラスなものであった。時代の気分として加害者に同情が集まる。
宇野冨美子の自供によれば、忠夫を殺したのは5月8日深夜午前1時ごろ。忠夫が泥酔状態で帰宅したのは午後9時頃のことだが、忠夫は本来であれば午後10時には出勤しなければならなかった。しかし、制服に着替えようともしない。
「どこで飲んできたの?」
「どこで飲んでこようが生意気言うな!」
忠夫は怒りにまかせて、冨美子を突き飛ばす。打つ。蹴る。いつものように下手に出ることで、何とか暴力から逃げ、その場を収める。忠夫は警官という、庶民感覚からすれば「聖職」にありながら、酒癖が悪く、勤務も怠りがちであり、短気でケンカ早かった。土地のヤクザらしき「不良」どもとも交友があった。しかも借金は膨らむばかり。友人に借金しては他の借金の返済にまわすといった有り様であった。
冨美子からすればこんなはずではなかった。大阪で教師をしていた冨美子が東京に出て自分の母親の姉の継子にあたり、幼なじみでもあった忠夫と結婚する決意を固めたのは、警官という職業に安定した収入を期待していたからだ。冨美子は母親と弟(当時14歳)の生活の面倒をみなければならなかったのである。
1951年(昭和26)4月に忠夫と結婚すべく上京。冨美子の期待は最初から裏切られる。何しろ忠夫は冨美子の借りた部屋に転がり込んできたのだ。しかも、同居を始めても入籍さえしようとしなかった。忠夫こそ冨美子の「教師」という職業に安定した収入を期待していたようであった。それでも冨美子は母と弟を東京に呼んだ。
冨美子は志村署に電話をかけた。忠夫の休暇を告げた。四畳間に蒲団を敷き忠夫を寝かせた。冨美子は勝手場で洗い物に取りかかる。今晩のこと、これまでのこと、これからのこと、どの時点においても悪夢しか思い描けなかった。途方に暮れているとき忠夫の寝言が冨美子に襲いかかる。
「捨てるのは惜しい。売れば金になる」
とても警官の言葉とは思えなかった。夫は私を売春婦として売り飛ばすつもりなのだ。ヤクザもどきの連中と付き合う忠夫の言葉だけに寝言といえどもリアリティをもって冨美子の心に突き刺さった。
「いっそ、ひと思いに殺してやろう」
5月8日午前1時ごろ。警防の端に細紐を結んだ。窓際で熟睡している忠夫のそばによる。雨戸に警棒をはさんだ。細紐を忠夫の首にひと巻き。思いっ切り引いた。忠夫は声もたてない。ただグッタリしていた。凶行を終えハッと我にかえった冨美子は合掌した。母が気配を察して目を覚ました。母は忠夫の死体を眼前に泣き崩れる。しかし、死体をバラバラにして遺棄してしまうことを提案したのは母であった。
「死体は細かくしたほうが捨てやすいし、人目にもつかないだろう」
そうすることにする。必要な道具は母が用意した。出刃包丁、鉈、油紙、麻紐。
切断に取りかかったのは8日の午後7時ごろから。弟は親類に預けた。押し入れに隠していた死体を引っ張り出す。滴り落ちる血を金盥で受けるように細心の注意を払いながら切断にとりかかった。
首、手、足と部位ごとに切断し、それぞれの部位を油紙でくるんだうえ新聞紙にくるみ、麻紐で縛る。その完成品を再び押し入れに戻していった。
5月9日午後7時過ぎ、冨美子は小学校から借りた自転車に胴体を乗せる。母は首と両腕を持ちバスに乗る。二人が待ち合わせた場所は新荒川大橋。そこから川に投げ捨てた。その時のドボンという音が、冨美子の耳にこびりついて離れようとしなかったという。
1952(昭和27)年12月、東京地裁は冨美子に殺人・死体遺棄及び損壊で懲役12年。母親には死体遺棄及び損壊で懲役4年を言い渡した。親子とも栃木刑務所に服役したが、母親は翌年病気で獄死している。