「産経抄」とオスプレイについて

朝日新聞の「天声人語」を読まない日はあるが、産経新聞の「産経抄」を読まない日はない。私はその歯切りの良さが好きである。例えば7月21日の次のような件には思わずニンマリとしたものである。

菜食主義を一度は試し、電気自動車のコマーシャルに出る。還暦を過ぎれば流行の「反原発デモ」の先頭に立って、アジ演説をぶって拍手喝采される。目立ちたいのは文化人の業だが、もう少し本業に専念しては、と望むのは古くからのファンのないものねだりだ。

コマーシャルには登場していないが、「もう少し本業に専念しては」とはノーベル文学賞作家の大江健三郎先生にも言い得ることである。反原発やら脱原発のデモ、集会に「原発への恐怖心を利用して騒ぎを大きくしようと画策する左翼団体や金持ち文化人、それに選挙目当ての政治屋ども」が暗躍しているのも事実だろう。その手の連中に踊らされてはならないことは言うまでもあるまい。私の熱くなりかけた頭を冷やすには「産経抄」はもってこいのコラムなのである。7月19日の「産経抄」も印象に残っている。原発容認派として東京新聞に登場したこともある岡井隆が詠んだ「原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた」「原子力は魔女ではないが彼女とは疲れる(運命とたたかふみたいに)」という二首を紹介し、一方「さようなら原発10万人集会」で落合恵子が「今日ここに来ているのが、国民であり市民」と発見したことを紹介し、こう書く。

「小さな声」でも、原発擁護を口にすれば国民とは認められない。そんな日が来るとしたら、放射能より恐ろしい。

異議なし!である。原発推進原発擁護を認めない言論空間が開かれた民主主義社会にとって健全であるはずないのである。オスプレイの配備についても7月16日付「産経抄」で「そもそも日々乗務するのは、海兵隊員である。危険性が高いと判断されれば、すぐに米軍が運用を中止するはずだ」としたうえで、次のように書いているのが私には印象に残った。

事故はあってはならないが、ゼロにするのは難しい。平成11年11月に埼玉県狭山市で起きた、航空自衛隊のジェット練習機墜落事故は、送電線の切断により80万世帯に停電をもたらした。当時の新聞を見ると、被害の大きさばかりが取りざたされ、住民への直接の被害を防ぐためにぎりぎりまで操縦して殉職した、2人のパイロットをたたえる言葉があまりにも少ない。

オスプレイならずとも、実際に事故は起きているのである。その証拠に昨日も在日米軍三沢基地に所属するF16戦闘機が千島列島沖に墜落している。朝日新聞はこの墜落事故を報じることなく、一面ではオスプレイが今日陸揚げされる予定であることを報じている。ちなみに東京新聞によれば三沢基地に属するF16は2000年以降、合計三回、四機が訓練中に墜落しているという。軍隊にあって事故はあってはならないが、ゼロにするのは難しいのである。仮に日米安保を廃棄し、アメリカ軍に日本から引き取ってもらっても、今度は狭山市で平成11年に起きたような自衛隊の事故が増えるだけであろう。
マスメディアによるオスプレイ報道は確かに「産経抄」が指摘するように「非常時には頼りたいが、平時にはいかなる迷惑も許さない」という気分に満ちている。もっとはっきり言ってしまうと、オスプレイ配備に関する大半の記事は「感情論」だけで書かれている。東日本大震災の際して大量に書かれた「希望」に偏重し、「絶望」を切り捨てて言った「お涙頂戴」記事と全く同じ手法なのである。そこに「俗情との結託」を見てしまうのは私だけであろうか。新聞やテレビといったマスメディアはオスプレイ配備の反対運動があることは報じても、オスプレイそのものについて実はあまり報道されていないのである。少なくともオスプレイの配備に反対するのであれば、日本に駐留し、実際にオスプレイを操縦するアメリカ軍兵士たちの共感を得られないような言説や行動では何ら説得力を持つまい。事故が起きて死ぬ確率が最も高いのは、彼らにほかならない。
岩国といえば、ベトナム戦争に際して、「ほびっと」なる反戦茶店が活動していた街だが、私が「ほびっと」の活動を評価している最大の理由はアメリカ兵との直のコミュニケーションを忘れなかったことである。アメリカ軍は兵士たちの「ほびっと」への立ち入りを禁じるほど、逆に言えば「ほびっと」はアメリカ軍にも、日本の権力にも恐れられていたのである。確か店のマスターは日本赤軍に銃器を渡したという理由で不当逮捕までされているのである。