「国会事故調」が菅直人前首相を聴取―東京電力の「全面撤退」問題を考える

原子力ムラ」という言葉がマスメディアなどに登場して来るのは、3.11以前のこと。関沼博が『「フクシマ論」 原子力ムラはなぜ生まれたのか』で使ったことに端を発する。その後、恐らく関沼の意図を離れて「原子力ムラ」という言葉は使われるようになった。反原発脱原発イデオロギーに加担しないと、「原子力ムラ」という言葉が投げつけられ、猫も杓子も一緒くたにするような雑な使われ方をするようになった。

戦前、軍部が政治の実権を掌握した。東電と電事連を中心とするいわゆる「原子力ムラ」が私には重なって見えた。

これは、そこいらの「あんちゃん」の発言ではない。菅直人前首相の言葉である。昨日開催された「国会事故調」こと「東京電力福島第一原発事故調査委員会」に参考人として出席した際の発言である(以下、断りのない限り5月29日付朝日新聞「国会事故調 菅前首相の主なやりとり」からの引用である)。電力会社が軍部と重なって見えたというのだから、穏やかな話ではない。それも一国の宰相が公な場で、こう言い放ったのだから穏やかではない。それにしても菅直人は気がついているのだろうか。もし「東電と電事連を中心とするいわゆる『原子力ムラ』」が軍部とすれば、菅直人近衛文麿にほかなにないということを!中国大陸での戦争を泥沼化させ、日本をそこから抜け出させなくしてしまった近衛文麿菅直人が私には重なって見えた。しかも、戦後、近衛は自分に戦犯容疑がかけられるとは露とも思わず、新憲法制定に向けて積極的に動いていたというのだから、彼の政治センスの無さは際立っている。この点も菅直人はそっくりではないか!
菅直人東京電力などの電力会社や電事連を軍部に重ね合わせて見ているのは、菅直人市民運動出身の政治家であることと無縁ではあるまい。

私も長く市民運動をしていて、仲間の中には原発について強い疑念を持っていた人も数多くいた。原子力は過渡的なエネルギーという位置づけをし、「ある段階まで来たら脱却」ということも当時私が属した政党では主張していた時期もある。

しかし、菅直人は「転向」する。時流に乗ってコロコロ変わるところもまた近衛文麿である。曰く―。

私自身、民主党の政策を固める中で、安全性をしっかりと確認するという前提の中で原子力を活用することはあってもいいのではないかと、考え方をやや柔軟にし、許容する方に変わった。

しかし、福島第一原発の事故が菅直人を「再転向」させる。

「3・11」を経験して、考え方を緩和したことが結果としては正しくなかったと、現在は思っている。

私がここで問題にしたいのは菅直人がいつ「再転向」したのかである。原発を許容するのではなく、原発を推進して来た勢力を戦前の軍部に重ね合わせる考え方に菅が「再転向」したのは、3月11日に福島第一原発が危機的な情況にあることを知った瞬間であると私は推測している。そうすれば総ての辻褄が合うのである。東京電力保安院が事故対応の能力があったかどうかは別にして、一国のトップの座に就いている人間が事故対応を担わなければならない組織を全く信用しなくなってしまっていたのである。官邸とこうした組織の間に疑心暗鬼が生まれたとすれば、それは菅直人の「再転向」によるものではないのか。やがて菅直人という「権力」は暴走をはじめ、混乱に拍車がかかったと考えられる。それを象徴するのが東電の「全面撤退問題」である。官邸サイドは東電が福島第一原発から全面撤退したいと言って来たと理解し、東電サイドはこれを否定しているという一件である。

15日午前3時ごろだったと思う。11日の発災後、1週間は夜中も官邸に詰めていたので、奥の部屋で仮眠状態にあったところ、経産大臣から相談があると秘書官から起こされた。そこで海江田経産大臣から「東電から撤退したいという話が来ている。どうしようか」という形で撤退の話を聞いた。

国会事故調には参考人として呼ばれていないが、当時の東電社長・清水正孝は「全面撤退」を考えたことはないとしている。清水が官邸サイドに伝えたのは作業に直接関係ない社員の一時退避を検討したいという主旨であったと東京電力はしている。朝日新聞が連載「プロメテウスの罠」で清水が福島第一原子力発電所から全員撤退したいと申し入れたと書いたことについて、東京電力は「朝日新聞朝刊連載『プロメテウスの罠』について」という文章を1月13日付けでホームページで公開しまで、朝日新聞に対して反論している。

1月3日より開始された朝日新聞朝刊連載「プロメテウスの罠」において、当社社長(当時)の清水が、福島第一原子力発電所から全員撤退したいと申し入れた、また、菅総理(当時)から「撤退などあり得ない」と告げられ、清水が「はい、分かりました」と頭を下げたという記事が出ておりますが、事実関係は以下のとおりです。
清水が官邸に申し上げた趣旨は、「プラントが厳しい状況であるため、作業に直接関係のない社員を一時的に退避させることについて、いずれ必要となるため検討したい」というものであり、全員撤退については、考えたことも、申し上げたこともありません。
また、3月15日午前4時30分頃に清水が官邸に呼ばれ、菅総理から撤退するつもりかと問われましたが、全員撤退を考えていない旨回答しております。

こうは考えられないだろうか。福島第一原発が暴走を始めた時点で菅が東京電力を戦前の軍部と同じように見ていたとしたら、恐らく清水が発した「撤退」という言葉に、それが又聞きにしか過ぎないものであっても、菅は咄嗟に満州において日本の居留民を置き去りにして撤退を開始した関東軍を連想してしまったのではないか。菅直人はここで「撤退」の内実を東電の清水正孝に電話一本で確認できるにもかかわらず、そうはしなかった。東電(=原子力)に対する不信感(多くの反原発派が抱いているイデオロギーと同種のものである)のゆえに、東電の「全面撤退」をさして事実はどうかを検証することもなく確信してしまったのだ。「原子力=東電=軍部=悪」という図式でしか物事を判断できなくなっていたということである。総てを自分で仕切らないことには気が済まなくなっていたということである。市民運動家時代がそうであったように、だ。かくして菅直人は官邸に清水を呼び出す。想像するに菅は清水にケンカ腰で臨んだのではなかったろうか。逆に清水は冷静であったに違いない。そう考えたほうが菅が説明する次のようなやりとりに合点がいくというものである。

私から私から清水(正孝)社長に「撤退はあのませんよ」と申し上げました。清水社長は「はい、わかりました」とお答えになった。

もし清水が「全面撤退」の方針を抱いていたのであれば、こうも簡単に「はい、わかりました」と答えはしまい。清水がそう簡単に政府の言いなりになる人物でないことは、東電の国有化問題などで証明されていよう。こうもあっさりと菅直人に清水が「はい、わかりました」と答えたということは東電には最初から「全面撤退」の意志はなかったと考えるのが妥当ではないのだろうか。菅が「脱原発」であり、清水が「原発推進」だからといって、「全面撤退」の件に関して菅が正しく、清水が間違っていると短絡してはならないはずだ。総理大臣であった菅直人が短絡していたという可能性も否定できないはずである。しかし、菅直人は東電の当時会長であった勝俣恒久が「国会事故調」で東電は全面撤退を考えていなかったと証言したことについて次のように反論している。

この回答について勝俣(恒久)会長などが「清水社長が撤退しないと言った」とおっしゃっているが、少なくとも私の前で言われたことはない。私が「撤退はあり得ませんよ」と言ったときに「はい、わかりました」と言われただけ。「そんなことは言ってない」とか「そんなこと申し上げたつもりはありません」とか反論は一切なかった。

しかし、菅直人のこの発言は総理時代における国会答弁と矛盾しているのではないだろうか。昨年、4月25日の参議院予算委員会で次のように述べている。

「つまり、15日の段階で少なくとも私のところに大臣から報告があったのは、東電がいろいろな線量の関係で引き揚げたいという話があったので、それで社長にまず来ていただいて、どうなんですと、とても引き揚げられてもらっては困るんじゃないですかと言ったら、いやいやそういうことではありませんと言って」

昨日は「そんなこと申し上げたつもりはありません」というような清水からの反論はなかったと証言している菅直人だが、「いやいやそういうことではありません」と清水が言ったとも過去には発言しているのだ、しかも総理時代に、しかも国会で。この菅の国会発言は清水が「全面撤退」を言っていない根拠として東京電力の発表した前出の「朝日新聞朝刊連載『プロメテウスの罠』について」においても利用されている。つまり、東京電力の「全面撤退」問題に関しては菅直人よりも東京電力のほうが一貫しているのである。この一貫性の無さも近衛文麿そっくりではないか。近衛も、菅もオポチュニストであるところが政治家として共通している。
福島第一原発の過酷事故における東京電力の責任は言うまでもなく重かろう。しかし、過酷事故への政府の対応が混乱したのは、原発の事故に直面して政府のトップたる菅直人首相が「脱原発」「反原発」のイデオロギストに先祖がえりしてしまったためなのではないだろうか。