数土文夫のNHK、東電「兼職」問題について

新聞やテレビで報道された内容を鵜呑みにするのではなく、そこで立ち止まって考えてみることが必要だ。そこで報道されたことが事実だとしても、その事実が持つ意味は多様である。しかし、報道は報道された事実に照応する意味をひとつしか用意していない場合が大半だ。報道が掲げる「正論」にとって不都合であったり、無関係であったりする、あるいはその正当性を毀損するような他の意味、他の意味の可能性は例によって隠蔽される。
NHKの経営委員長をつとめていたJFEホールディングス相談役の数土文夫が東京電力社外取締役に内定すると、この兼職が問題にされ、結局、数土はNHKの経営委員長を降り、東京電力社外取締役に専任することになった。この兼職にかんしては多くの新聞が社説で取り上げた。朝日新聞が5月17日に取り上げ、毎日新聞が5月18日に取り上げた。ともに兼職に対して疑問を呈する社説であった。

報道機関にとっての生命線である中立性や取材対象からの独立性は確保できるのか。現場が萎縮することはないのか。視聴者からは公正さを欠いていると思われかねないのではないか。懸念は尽きない。もともとNHKと政治権力との距離のあり方については、問題が指摘され続けてきたところだ。

毎日新聞の社説から引用した。しかし、NHKの経営委員長は番組にまで口を出し、介入できる立場にあるのだろうか。むろん毎日新聞もこうした点は踏まえている。

放送法では、経営委員は個々の番組内容に口をはさめないことになっている。

放送法32条にはこうある。

第三十二条  委員は、この法律又はこの法律に基づく命令に別段の定めがある場合を除き、個別の放送番組の編集その他の協会の業務を執行することができない。
2  委員は、個別の放送番組の編集について、第三条の規定に抵触する行為をしてはならない。

第3条というのはこうだ。

第三条  放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

ここまで法律に書かれていながらだから、数土が東京電力社外取締役に就任したならば東京電力の取材に萎縮してしまうような連中に「自由な言論」や「自由な表現」を守っていくことを期待するにはハナから無理があるというものである。いずれにしても、放送法で経営委員は個々の番組内容に干渉できないことになっているからこそ「川端達夫総務相枝野幸男経済産業相も『問題ない』との認識を示した」のだろう。だが、毎日新聞は「しかし」と主張する。

しかし、報道や言論の自由は、私たちの民主社会の根幹であり、繊細に慎重に扱うべき問題だ。NHKの影響力の大きさや、受信料で成り立っている公共性を考えても、心配はもっともだろう。

朝日新聞の社説も同じような論理で組み立てられていた。この論理、私などは論理として非常に弱いものだと思うのだが、毎日新聞は辞任が決まってからも、この問題を社説で取り上げている。5月25日の紙面だ。

…受信料で成り立つNHKは国民の立場に立って、東電を取材し、評価や批判をする必要がある。その時に視点の偏りや遠慮があってはならない。
だから、取材する側と取材される側、双方の経営陣に名前を連ねるのは道理に合わない。わかりやすくいえば、NHKが「東電の数土氏」を取材するケースもありえるのだ。兼職はジャーナリズム倫理と相いれない事態だった。

利益相反」を指摘したのは東京新聞の5月24日付社説だった。

問題はさらにある。東電の電気料金値上げによって生じる「利益相反」だ。NHKはスタジオの照明や空調などで大量の電力を消費する。値上げで原発事故の賠償費用を稼ぎ出したい東電と、料金を抑えコスト削減を目指すNHKの利害との板挟みが待ち受ける。

確かに新聞の主張は「正論」としてわかりやすい。それでなくても民衆は原発事故による放射性物質の拡散や電気料金の値上げでナイーブになっている。世論からすれば東京電力社外取締役に就任するのであれば、当然、NHKの経営委員長は辞任せよというマスメディアの主張を支持するであろう。しかし、私がこの時点で不思議でならなかったのは数土は東京電力社外取締役就任を断念し、NHKの経営委員長にとどまるべきだという主張が掻き消されていったように思えてならない。数土氏に東京電力社外取締役が内定した段階での社説はNHKか、東京電力かどちらかを選べという主張の社説であったが、次第に世論は数土はNHKの委員長を辞任せよという方向に誘導されていったように私には思えるのだ。5月25日の毎日新聞の社説に典型的だが、数土はNHKの委員長を辞任したのは当然という論調であった。私が気になっていたのは毎日新聞の5月18日付社説に書かれていた次のような箇所である。

事実、NHK内部から疑問を訴える声が聞こえてくる。NHK労組も今回の人事に反対する声明を出した。数土氏はNHKか東電か、どちらかを選ぶべきだとする要望書をNHKに提出した市民団体もある。

数土の兼職に疑問をとなえた「NHK内部」とは具体的にどういう連中なのか。「NHK労組」の労組にしても、「NHKの内部」にしても同様だと思うのだが、数土が東電の社外取締役に就任することに反対するというよりも、数土にNHKの経営委員長を辞めてもらいたかったのではないだろうか。何故かといえば数土が進めてきたNHK改革に反対であり、これ以上の改革、例えば1万人以上いる職員のリストラを進められては困るからだ。いずれにせよ、リベラル系の新聞はこうした背景を一切無視した社説を掲げた。他の意味の可能性は例によって隠蔽されたのだ。その点、事後的ではあるが読売新聞の5月25日の社説「東電兼職問題 不可解なNHK委員長の辞任」には次のように指摘している箇所がある。

昨年10月に決定した2012年度からの経営計画には、内部の反対を押し切り、数土氏主導で受信料の引き下げが盛り込まれた。NHK経営を巡るこうした執行部との軋轢を指摘する声もある。

日本経済新聞も5月26日付の社説でようやく重い腰をあげる。

東電との兼職は数土氏自身も当初、逡巡(しゅんじゅん)したようだが、東電の再建も重視して引き受けた。ただNHKの報道姿勢がゆがむのではないかといった視聴者の批判が強く、NHKの幹部や労働組合からも兼職に反対する声が強まったと伝えられている。
NHKの経営委員は国会の同意が必要な重い役職だ。後任人事は難航するに違いない。野田政権は兼職問題について閣僚が問題ないと述べるだけで、数土氏を本気で支える姿勢に乏しかった。政権のふがいなさを目の当たりにし、改革を引き継ごうという人は簡単には出てこないだろう。
NHKは今年度から新3カ年計画に入ったが、「受信料10%還元」の約束については、災害報道の強化などを理由に下げ幅を抑えようとしている。しかし被災した東北3県を含め、放送のデジタル移行を終えた今、負担はこれから減る見込みだ。1万人を超す職員はほとんど減っておらず、抜本的な支出削減策が要る。

紙名に「経済」の二文字を入れている新聞のことだけはある内容の社説だが、事が決着する以前に社説で指摘しておくべきではなかったのか。「報道や言論の自由」なる言葉に酔っ払い、その二日酔から覚めるのに時間を要したということなのだろうか。そういう意味では読売にしても、日経にしても、他の新聞が繰り広げた「隠蔽」に加担していたことになるのではないだろうか。
それにしても不可解なのは政府。数土の兼職が妥当だと考えていたのだったならば、もっと本気で支えられたはずだが、そうはしなかった。恐らく自民党との摩擦を避けたかったのだろう。読売の5月25日付の社説が指摘していたことだが、「政府の原子力政策に関連し、数土氏の兼職問題を国会で追及しようとする動きが出ていた」から政府は本気で数土を支えなかったのだ。野田佳彦は何が何でも自民党の協力を得て消費増税を実現したいというか、この政治家にはそれしか頭にないのである。これもまた報道が隠蔽する「他の意味」である。