仙谷由人の「全原発停止は日本の集団自殺」発言について

毎日新聞が主催し、名古屋で4月16日に開催されたかれた「ミッドランド毎日フォーラム」に民主党仙谷由人(政調会長代行)が登壇し、次のように述べたという。

(すべての原発を)直ちに止めた場合に日本の経済と生活がどうなるのかを考えておかなければ、日本がある意味では集団自殺するようなものになってしまうのではないか。http://mainichi.jp/select/news/20120417k0000m010073000c.html

この仙谷発言に朝日新聞東京新聞官房長官藤村修の記者会見における「その言葉だけをとれば、あまり良い言葉ではない」という発言を対置させて、言わば「失言」として扱った。ここは「仙谷氏が放言」と見出しを打った東京新聞を引用しておこうか。

政府の「再稼動路線」を後押ししてきた立場から、再稼動の必要性を強調する狙いとみられるが、経済や生活への影響を「自殺」に例えたことは波紋を呼びそうだ。

二紙とも毎日新聞の講演会での発言であったことには一言も触れず(私は新聞のこういうところが嫌いだ。だって隠蔽だろ?しかも、競合紙を利するのが嫌だからという商売根性による最低の隠蔽だ!)、全原発停止は日本の集団自殺だとする仙谷発言を官房長官のように「失言」扱いにしてしまって良いのだろうか。
福島第一原発の過酷事故が起きて以降、脱原発路線を鮮明にしはじめた東京新聞朝日新聞からすれば仙谷という政治家は原発再稼動五人衆のひとりというよりも、大飯原発の再稼動にかかわる関係閣僚会議に関係閣僚でないにもかかわらず出席しているほどの実力者であるだけに揚げ足をとったのだとしか私には思えない。新聞の報道による「政治」とは、このようなものなのである。藤村修なる官房長官は記者会見で記者から質問があったから、それは良い言葉ではないと答えたのだろうが、この官房長官発言こそ「失言」というものではないのだろうか。
仙谷は断じて「失言」をしたのではない。決して雑な言葉遣いではなかったということだ。仙谷は政治家として確信をもって発言したはずだ。毎日新聞は「再稼働に慎重な世論が強い中、『集団自殺』という表現には批判が出そうだ」と書くが、原発の再稼動に慎重な世論が強くなければ、仙谷は逆に「集団自殺」という言葉を使わなかったはずである。それほど大飯原発の再稼動がなかなか進展を見せないことに危機感を募らさせているのだろう。
政治家の「失言」が問題になる度に思うことがある。「失言」が政治不信に拍車をかけているという見方は間違っているということだ。「失言」扱いにされた発言によって政治不信が生まれるのではないのである。新聞やテレビといったマスメディアの世論を騙っての「政治」によって、政治家はすぐに頭を下げたり、発言を修正したり、撤回してしまうなどして、その発言をなかったことにしてしまうから、民衆は政治を信じられなくなってしまうのである。言葉をその程度にしか扱わない政治に絶望しているのだ。政治は言葉であるということに政治家ほど鈍感な人間いないという悲劇なのだ、政治不信の本質は。
私などが知りたいのは仙谷が全原発停止は日本の集団自殺と考えているのであれば、その具体的なイメージである。仙谷は、ただ感情にまかせてこのように言ったわけではあるまい。仙谷には読売新聞が言うように「国民生活の安定のために再稼働は不可欠との認識」があるのだろうが、だからこそ知りたいのである。再稼動五人衆のリーダーである仙石はどういう事態を具体的にイメージして日本の集団自殺だと言っているのかを。講演の場にいた新聞記者は知りたくないのだろうか。仙谷からすれば、原発を止めたならば経済と生活がどうなるか、自分なりのシミュレーションを踏まえてのことであったはずだ。
ところが、新聞は仙谷発言を掘り下げようとはしない。官房長官の記者会見の場で仙谷発言を当てて「その言葉だけをとれば、あまり良い言葉ではない」と官房長官に言わせてハイ、それまでよと終わりにしてしまう。深さを伴わないのは新聞の政治報道における「生理」だ。紙面を言葉で埋め尽くすのが商売の新聞もまた実は言葉に鈍感なのである。
また当の仙谷にしても官房長官の発言に対して、それは間違っているとも反論しないし、集団自殺と表現した必然性を民衆に積極的に語ろうとしない。仙谷自身が全原発は国の集団自殺だと語った言葉を更に鍛えるのではなく、要するに放り投げてしまったのである。
それにしても、この国は3.11以後、混乱を極めている。この国の言葉が3.11以後混乱を極めているのだ。饒舌が溢れていても、その言葉は貧相である。言葉の貧困は政治や新聞だけの問題ではあるまい。