都知事でもある「文士」石原慎太郎がアメリカで尖閣諸島購入を宣言!

東京都知事というよりも、やはり文士なのだろう。石原慎太郎は遠くアメリカの地で「してやったり」とばかりに野田佳彦が首相をつとめる政府にアッカンベーと舌を出しているに違いない。
保守系シンクタンクとして知られるヘリテージ財団から講演を依頼された石原慎太郎がワシントンの地で東京都が尖閣諸島を買うと発言したところ、例えば朝日新聞は「『尖閣購入』に波紋」一面の題字横の一番良いスペースで取り上げるばかりか、二面でも「ひと」欄以外は、この話題で埋め尽くし、社説でも「尖閣買い上げ 石原発言は無責任だ」と論陣を張り、更には社会面でも「尖閣 なぜ都が」と書くというように石原慎太郎に紙面を占拠させてしまっている。
今年前期の芥川賞を受賞した田中慎弥石原慎太郎をダシにしてマスコミの話題をさらったとが、石原からすれば田中など、まだまだ小僧っ子に過ぎないとばかりに自らの文学で鍛え上げた言葉の力を見せつけたのである。新聞各紙の発言要旨からすれば、石原は概ね次のようなことを述べたようである。

尖閣諸島はこのまま置いておくと、どうなるかわからない。中国は尖閣諸島を日本が実効支配しているのに、ぶっ壊すためにあそこでもっと過激な運動に走り出した。ゆゆしき問題だ。尖閣諸島は日本の固有の領土で、沖縄返還の時に帰ってきた。(中国が)俺たちのものだと言い出した。とんでもない話だ。東京都はあの尖閣諸島、買います。買うことにしました。私が留守の間に実務者が決めてるでしょう。東京が尖閣諸島を守ります。
ほんとは国が買い上げたらいいと思う。国が買い上げると支那が怒るからね。なんか外務省がビクビクしてやらない。あそこは豊穣な漁場であり、海底資源があり、日本の領海にある。沖ノ鳥島だって中国や台湾の人が乱獲しているが、領海を守らせるために国や地方が頑張っている。
日本人が日本の国土を守るために島を取得するのに何か文句ありますか。ないでしょう。どこの国が嫌がろうと、やることを着実にやらないと政治は信頼を失う。まさか、東京が尖閣諸島を買うってことでアメリカが反対するってことはないでしょう。

琉球が日本固有の領土であれば石原発言に何ら瑕疵があるものではない。ただし、琉球が日本にとっての最初の植民地であり、琉球に国家として独立する権利があるとすると、尖閣諸島琉球固有の領土という考え方も成立しよう(ただし、それも日清戦争後に尖閣諸島が日本の領土になることによってだから、この辺りを歴史的に考えると相当ややこしくなる・追加註)。まあ、沖縄タイムスにしてからが、4月18日付の社説で「尖閣諸島が歴史的にも国際法上も、わが国固有の領土であることは言うまでもない」と書いている。いずれにしても、「ヤマト+琉球=日本」の国会に議席を有する政治勢力からすれば、琉球が日本固有の領土であるという共通認識がある以上、都が尖閣諸島という不動産を買うことは予算が許す限り可能である。
もっとも、これまで政治家は誰も尖閣諸島を買うとは言わなかったし、言えなかった。自らの「言論の自由」に「自己検閲」をもって縛りをかけていたわけである。そういう意味で国会に議席を置く政治家は右から左に至るまで民主主義を生かしきっていないのだ。中国人(石原流に言うと支那人か)や韓国人が日本の不動産や日本の企業を買っても後ろ指をさされることはない。しかし、日本人が日本の不動産を買うとなると大騒ぎになるということは、わが国の言論空間が相も変わらず閉ざされている証拠である(私は原子力=核の問題でも言論空間の歪みを感じている)。しかも、この国のリベラル(=進歩派)や左派は宿命的にこの手のことに洞ヶ峠を決め込んでしまっている。
石原慎太郎は閉ざされた言論空間に言葉をもって亀裂を走らせた。これは政治家の仕事ではなく、間違いなく文学者の仕事である。都知事でもある文士にしかできなかったということである。恐らく、ワシントンの地でこのように発言することが文学の仕事にほかならないことを石原は承知していたはずである。そういう意味で石原慎太郎は確信犯である。経産相枝野幸男が発した「原発が一瞬ゼロになる」などという貧相な政治の言葉ではなく、それは文学の言葉であったからこそ、「失言」として発言をなかったことにしてしまうような「撤回」もなく、「自由な言論」として自立できたのである。だからこそ新聞やテレビが飛びつき、政治も無視できなくなってしまったのだ。
石原慎太郎の言葉がわが国を覆いつくす「貧困の政治」に波紋を広げたことは間違いない。原発が一瞬ゼロになるという枝野発言や仙谷由人の総ての原発を止めることは日本の集団自殺だという発言を「失言」として片付けてきた官房長官藤村修をして、都知事の言葉として相応しくないとはコメントできず、必要なら尖閣諸島を国有地化することも十分にあると政府が買い上げる可能性を示唆してしまった。この国家権力の中枢からなされた藤村発言は中国政府も無視できまい。藤村発言こそ「失言」というべきだが、石原慎太郎からすれば「シメタ!」というものであろう。朝日新聞の社説にしても、石原はほくそ笑みながら読んだに違いない。朝日は石原の発言を「政府の外交に悪影響を与えることを承知で大風呂敷を広げるのは、無責任としかいいようがない」としながらも、次のように結んでいる。

藤村官房長官はきのうの記者会見で、国が購入する可能性を否定しなかった。東京都よりも外交を担当する政府が所有する方が、まだ理にかなっている。

「まだ」という留保がつくものの政府が尖閣諸島を所有するのは理がかなっていると石原は朝日新聞に書かせることに成功した。国が所有しないのだから、都が買うというのが石原慎太郎の理屈なのだから、国が尖閣諸島を所有してくれるのであれば、何も都が割り込む必要はあるまい。とはいえ、文士たる石原慎太郎のことだから、さっさと都で買ってしまった後に政府と交渉するのかもしれない。ちなみに都で買うといっても、その代金の総てを税金で賄うつもりはないらしい。広く国民にカンパを募るのだそうだ。「文士」都知事は「政治」に長けている側近もお持ちのようである。副知事の猪瀬直樹がこうツイートしている。

石原慎太郎知事の尖閣諸島購入は「国家とは何か」という問いがつねにあるからだ。僕の世代以下は「国家とは何か」を避けた。僕は25歳のとき橋川文三を訪ねた、「国家」抜きに日本の近代は解明できないと考えたからだ。そのころ僕の世代は国家が存在しない幻想、村上春樹の表現する世界へ流れていく。

『日本浪漫派批判序説』の橋川文三である。そうか、猪瀬は橋川に会いに行ったのか。先だって亡くなった吉本隆明もまた「国家とは何か」を問い続けてきた思想家である。

僕の世代、つまり鳩山由紀夫菅直人以下、みな思想がない。国家観がないからだ。さらに下の世代はその葛藤すらない。SNS革命とは表面の通信手段の話であって国境は厳として実在し、「暴力装置」としての軍隊は存在しており、国家間の厳しい生存競争の歴史が終焉したわけではない。

しかしというか、だからこそ菅内閣の参与を松本健一がつとめていたはずなのだが、松本は失言によって参与を降りることになる。

欧州がEU統合へ強い意思があるのは第一次世界大戦の永遠に続く殺し合いで2000万人の若者が戦死したからだ。1928年パリ不戦条約を結んだもののヒトラーが出現し再び二次大戦となった。その反省がある。アジアは日本を除き若いナショナリズムを燃やし切っていない。諭してやる義務がある。

そうか、中国は「若いナショナリズムを燃やし切っていない」のである。だから、諭したのか。さすがに石原慎太郎は文学の人である。誤解を恐れずに言うのであれば、石原慎太郎支那派でもあるのだ。