「見える天皇」と「祈る天皇」の戦後的断絶 ―日本国憲法による国体護持の深層 

゛祈る天皇゛としての明仁天皇

かつて「君は天皇を見たか」と問うたのは児玉隆也であった。遅ればせながら私は答える。私は天皇を見た。むろん、これまで一度として生身の天皇を見たことはない。これまでもそうであったが、これからもテレビや新聞、雑誌といったマスメディアの報道を介してしか天皇を見ることはないだろう。ところで、私(たち)はどんな天皇を見ているのか。
二〇〇四年(平成十六)十一月六日。新潟県中越地震発生から丸二週間が経っていた。この日、明仁天皇美智子皇后は日帰りで被災地を訪問する。報道によれば天皇、皇后が被災地を訪れるのは何でも一九九五年(平成七)の阪神大震災以来のことであったという。二人は全村民が避難し、土砂崩れで天然ダムができてしまった山古志村の惨状をヘリコプターで視察した後、小千谷市や川口町の避難所や山古志村の村民が避難している長岡大手高校を訪ねて、被災者を見舞い、励ましの言葉をかけた。私は、そんな天皇をブラウン管のなかに何度も見た。
それは感動的なシーンであった。テレビから流された映像によれば、明仁天皇は被災者の前にひざまづき、見舞っていた。優しさに満ちた温和な表情で被災者を包み込み、天皇は低い目線から言葉を発する。
「健康の方は大丈夫ですか」「おうちは大丈夫でしたか」「大変ですね」「体に気をつけて」などなど。その言葉のひとつひとつは、どんなレトリックもない、ありふれた言葉に過ぎない。……ありふれた言葉に過ぎないのだが、それまで被災地を訪問した政治家たちの被災者に大声で投げかけられた言葉の数々が、どんなパフォーマンスをともなおうとも、政治家としての評判や選挙の一票を意識しているせいか、どこか虚しく響かざるをえず、圧倒的に軽かったのに比べ、天皇の静かな声は、聞く者の心の奥深い部分にしっかりと着底し、聞く者を癒さずにはおかない、優しい言葉であった。天皇、皇后の訪問を受けた被災者のひとりが「頑張らねばという意欲が湧いてきた」と語っていたが、そうした反応を誘発せずにはおかない、゛美しい力゛を持った言葉である。テレビのブラウン管を通じて、この日の天皇を見ていた人々をも感動に誘う゛美しい力゛である。
明仁天皇の゛言葉゛が孕む不思議な゛美しい力゛。この゛美しい力゛はそれ自体として゛権力゛としてあらかじめ君臨するようなものではないし、゛権力゛に結実してゆくようなものではない。それはもっとも貧しい人々に愛を捧げ続けたマザー・テレサとか、インド独立の父と呼ばれ、非暴力・非服従の行動の詩人に徹したマハトマ・ガンジーの゛言葉゛さえ私には連想させてしまう。いずれにせよ、この不思議な゛美しい力゛の源泉がどこにあるのかと言えば、やはりガンジーマザー・テレサ同様に゛祈り゛にあるのではないだろうか。    
そもそも天皇とは祈る存在に他ならず、歴代の天皇がそうであったように明仁天皇もまた゛祈る天皇゛なのである。しかも゛祈る天皇゛として明仁天皇は傑出しているようなのだ。原武史保阪正康による『対論 昭和天皇』のなかで保阪はこう述べている。
「先日も、宮内庁のある官僚曰く、いまの天皇昭和天皇よりお祭りに熱心だ、というんです」
一方の原は、「宮内祭祀というブラックボックス」(『アリエス』二〇〇四年号)で、神社本庁の機関紙『神社新報』や日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』などを丹念にあたりながら一九九九年から二〇〇三年まで天皇、皇后、皇太子、皇太子妃の宮中祭祀出欠表を作成した。原は、その結果を踏まえて次のように書く。
天皇は、〇二年十二月の前立腺ガン手術に伴う静養のため、031年一月から五月まで休んだのを除き、別表に揚げたすべての宮中祭祀に出席している。皇后も、一部不明なところがあるものの、九九年六月に実父が死去したのに伴い、同年七月の明治天皇例祭に欠席したのを除き、基本的に出席していると見てよい」
ところが、私たちにとって被災地を訪問する天皇を見ることはできても、゛祈る天皇゛を見ることはできない。冒頭に゛私は天皇を見た゛とはっきり書き記したが、決してそのようには言い切れないのである。゛祈る天皇゛とはまたテレビのブラウン管には決して映し出されることのない゛見えない天皇゛であり、あらゆる外部の視線を拒絶する゛隠された天皇゛に他ならない。戦後、ジャーナリズムによって、これでもかといわんばかりに開かれていった皇室ではあるが、゛祈る天皇゛は開かれないままなのである。そして、天皇は、この見えない部分において天皇であり続けているようなのだ。

見えない祭祀

順徳天皇の『禁秘御抄』によれば「およそ禁中の作法、神事を先にして他事を後にす」なのである。伊勢神宮を本宗とし、全国八万社の神社を包括する神社本庁のホームページには「日本の国が始まって以来、天皇陛下の最も大切なお努めは、御親ら世の平らぎをお祈りになるお祭りを行われること」とある。こうした゛お祭り゛は宮中祭祀と呼ばれている。神社本庁宮中祭祀を「決して私的な信仰、皇室内のお祭りではなく、常に国の発展、国民の幸福、世界の平和をお祈りになられる」ものと規定したうえで、「私たち国民一人ひとりにとっても、きわめて大切なお祭り」であると断言する。そんな゛大切なお祭り゛を私たちはなぜか見ることができないでいる。
宮中祭祀は皇居内の、しかし宮内庁のホームページでは、その場所すら一般に公開していない宮中三殿を舞台にして行われる。宮中三殿とは、皇祖たる天照大御神を祀る賢所、歴代の天皇、皇族の霊を祀る皇霊殿天神地祇八百万の神を祀っている神殿からなる。入母屋、銅葺き、柾目のひのきをぜいたくに使った建築物であるといわれ、この三殿に付随して新嘗祭の行われる新嘉殿、その前日に鎮魂祭を行う綾綺殿などの建物もある。賢所の神体は、いわゆる三種の神器のひとつである鏡。゛本物゛は伊勢神宮に祀られていて、賢所に祀られている鏡はその゛分身゛という関係にあると言って良いのかもしれない。しかも、二座あるというのは、一方が南朝のもので、一方は北朝ののものであったことによるらしい。何しろ、この鏡を実際に見たことのある者は、現在、誰一人としていないのである。゛祈る天皇゛たる明仁天皇すら見たことがないのである。
宮中祭祀には掌典職がかかわる。掌典職とは国家の行政機関のひとつである宮内庁の組織とは別の組織――天皇がプライベートに擁する組織ということなのだろう――であり、掌典長の統括のもとに掌典次長掌典内掌典などが置かれている。宮内庁ではよく゛オモテ゛と゛オク゛ということが言われる。゛オク゛とは、言ってみれば天皇一家の身の回りの世話をする侍従職を指すわけだが、侍従職といえども国家公務員には違いない。しかし、侍従職から掌典職に転ずるケースもあるとはいえ掌典職とは、もはや国家公務員であることもない、゛天皇の私的使用人なのである。゛オクのオク゛というべきというべきであろう。゛オクのオク゛についてはわからないことだらけである。例えば内掌典内掌典賢所皇霊殿に仕えるわけだが、二十一世紀の今日に至るも神秘のベールに包まれたままである。高橋紘の『象徴天皇』によれば「一年中時代劇の大奥の女性のような髪形にしているのは、日本中で内掌典だけだろう」。何しろ夜は箱枕で寝るというのだ。それにしても「出来上がりはおすべらかしに似ており、後ろから見るとシイタケのような形をしている」とはどういう髪型なのだろうか!そして、着る物から食べる物まで動物性は御法度であるという。徹底的に´清´にこだわるというわけである。内掌典はテレビの映像にその姿を曝したことはおろか、新聞、雑誌に登場することもなく、そもそもが内掌典の世界は口伝であり、社会的にはまったくといって良いほど閉ざされた世界なのである。
 宮中祭祀天皇自身が祭典を行い、御告分(まあ、祝詞のようなものだろう)を奉上する大祭、掌典長が祭典を行い、天皇は礼拝のみを行う小祭からなる。現在でも一九〇八年(明治四十一)の皇室祭祀令に基づいた形で大祭も小祭も営まれていると言う。
´祈る天皇´の一年を追ってみよう。
天皇の一月は一月一日早朝に行う四方拝によって始まる。天皇は神嘉殿南庭で伊勢神宮および四方の神々を遥拝する。これに引き続き宮中三.殿では歳旦祭(小祭)と呼ぶ年始の祭典が行われる。一月三日には年始にあたって皇族の大本と由来を祝し、国家、国民の繁栄を三殿で祈る元始祭(大祭)が行われる。一月七日には昭和天皇祭(大祭)がある。昭和天皇の´崩御当日´(命日のことである)に皇霊殿で行われる祭典だ。つまり、何々天皇(例)祭と呼ばれる祭祀は、すべてのその天皇の´崩御相当日´に行われているのである。一月一七日の祈年祭(小祭)は年穀豊穣祈願の祭典。春分の日には、皇霊殿は先祖祭の春季皇霊祭(大祭)、神殿では神恩感謝の春季神殿祭(大祭)がそれぞれ行われる。四月三日は神武天皇祭(大祭)、その夜には皇霊殿御神楽で神霊をなごめるという。六月三十日の節折は天皇のために行われるお祓い。同じ日に行われる大祓いは天皇が神喜殿の前で皇族をはじめ国民のために行われる´お祓い´だ。七月三十日は明治天皇祭(大祭)、秋分の日には秋季皇霊祭(大祭)、秋季神殿祭(大祭)が行われる。十月十七日の神掌祭(大祭)は賢所に新穀を供え神恩感謝の祭典。この朝、天皇は神嘉殿において伊勢神宮に遥拝する。十一月二十三日の新掌祭(大祭)は宮中祭祀のなかで最も重要な祭典。天皇は神嘉殿において新穀を皇祖をはじめ神々に供えて、神恩を感謝した後、天皇自らも食するというもので、天皇自らが栽培になった新穀も供える。十二月中旬には賢所において夕方から御神楽を奉して神霊をなごめる賢所御神楽祭が行われる。十二月二十三日には天皇誕生日を祝し、三殿で天長節祭(小祭)が行われる。十二月二十五日は大正天皇例祭(大祭)。十二月三十一日には節折と大祓が行われる。
これに加えて大祭には先后の式年祭崩御日に相当する日)、皇妣たる皇后の式年祭崩御日に相当する日)がある。式年とは崩御より三年、五年、十年、二十年、三十年、四十年、五十年、百年、それ以降は毎百年ごととなる。また小祭には先后の毎年崩御日に相当する日に行われる例祭、皇妣たる皇后の例祭、綏靖天皇以下先帝以前に至る歴代天皇式年祭(五十年まで十年ごと、百年以降百年ごと)がある。
さらに毎月一日、十一日、二十一日、には旬祭が行われる。この祭典は掌典長が行うが、原則として一日には天皇の礼拝がある。さらに外国訪問に際しても出発と帰国にときに必ず宮中三殿で´お祭り´が営なまれているという。高橋紘は『平成の天皇と王室』のなかでこう書く。「天皇は二〇〇二年(平成一四)暮から半年間、前立腺がんの手術と静養で休みはしたが、それを除けば毎月の『旬祭』は、即位以来外国訪問で五回、国賓の来日と地方視察でそれぞれ一回休んだだけである」
´祈る天皇´の面目躍如である。高橋の評価も「平成の天皇皇后は、近代の天皇皇后の中で最も宮中祭祀を厳格に務めているのではないか」ということになる。
こうした宮中祭祀は国家の発展、国民の幸福(国民、国家の順ではない)、世界の平和を祈る´お祭り´ではあっても、国家が主催する国家祭祀としては行われていない。敗戦後にGHQが信教の自由と政教分離を指令したことによるものだ。日本国憲法二十条の´信教の自由´の範囲で天皇があくまで私的に営んでいるわけだ。そして、同じく日本国憲法二十条の´政教分離の原則´によって´祈る天皇´は、隠されてしまっている。実は皇室祭祀令において大祭のひとつに教えられていた紀元節(祭)は、GHQの圧力によって廃止されてしまった。よく知られているように二月二一日の紀元節(祭)は、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁が復活に反対するなど、紆余曲折を経て一九六七年(昭和四十二)に´建国記念の日´の呼称で国民の休日として復活することになる。では宮中祭祀としては復活しているのだろうか。紀元節(祭)は´臨時御拝´として今でも引き継がれているという。一九八八年(昭和六十三)から一九九四年(平成六)まで掌典職ににあった鎌田純一は『日本の息吹』(一九九六年二月号)のなかで、こう述べている。
「思し召しによる宮中三殿への臨時御拝があります。戦後、GHQの圧力で紀元祭は廃止されてしまい、紀元節祭という名称は使っていませんが、先帝(昭和天皇)は戦前の紀元節祭を受け継がれ、二月十一日には臨時御拝のお祭りを欠かさずなさいました。そして今の陛下もそれを受け継がれ、そのまま行っておられます。またその日は橿原神宮の勅使を遣わしておられます」
この鎌田も明仁天皇の´祈る天皇´としての傑出ぶりをこう強調する。
「私自身が実際にお仕えさせて頂いて、陛下は日本のどの神主よりも御所作が厳格ですし、そのお祭りの意義或いは沿革について詳しく研究された上でお臨みであると拝見させていただきました」
「国民全体が緩んだ中でも、陛下は決してお祭りを揺るがせにされることはないということを私はよくよく拝見させていただきました」

明治時代に´創建´された橿原神宮 

しかし、天皇は´臨時御拝´という形であっても、本当には紀元節(祭)を行っているのだろうか。鎌田によれば橿原神宮に勅使まで遣わしているという。橿原神宮の祭祀は紀記では初代の天皇とされる神武天皇。もともと神武天皇は九州の日向に朝廷を構えていたが、東国は土着の神々である国津神が乱立し、住民を苦しめていた。そこで神武は東征の決意を固め、三種の神器を捧げ持って日向を後にする。大和では国津神長髄彦が権勢を振るっていたが、これを滅ぼし、他の国津神たちも次々に降伏させ、畝傍山の東南のふもとにあたる橿原の地に宮殿を建て、三種の神器を祀り、神武は初代天皇の位に就き、日本の国を建国する。このようにして建国の始祖となった神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛皇后を橿原神宮は祀っている。橿原神宮は言ってみれば日本の国家としての神話的起源を視覚化した´建国神社´なのである。
しかし、だからといって橿原神宮がぶ厚い歴史を背負っているわけではない。皇紀に従うのであれば役二千五百年に渡って、その歴史を無視されてきたのである。橿原神宮の歴が始まったのは、今からわずか百五十年前の一八九〇年(明治二十三)のこと。初代天皇にもかかわらず神武天皇を祀った神宮がないというのはおかしいという国民からの請願が巻き起こり、これに応える形で明治天皇京都御所賢所と神嘉殿を本殿と拝殿として下賜、一八九〇年(明治二十三)四月二日に´官幣大社´として発足する。しかし、なぜに明治も半ばを過ぎてから急に´建国神社´が必要になったのだろうか。
明治維新によって日本は近代国家への道を歩み始めたわけだが、近代国家としての明確な体制を整えるのは、自由民権運動を経て、大日本帝国憲法を制定してからのことである。この憲法は一八八九年(明治二十二年)に発布され、一八九〇年(明治二三)に総選挙を実施し、第一回帝国議会を開会して、発効することになる。すなわち、一八九〇年(明治二三)とは四月に橿原神宮が´創建´され、十月に教育勅語が発布され、十一月に大日本帝国憲法が発効するという一年であったのである。橿原神宮教育勅語大日本帝国憲法大日本帝国の起源を担う歴史、道徳、法の、しかも、それぞれが共振しあうイデオロギーの三点セットであったのである。紀元節(祭)が二月十一に行われるようになったのは一八七三年(明治六)からのことであるが、橿原神宮ができた以上、紀元節(祭)においてはこの神宮が特別な位置を占めるのは当然のこととなろう。だから二月十一日においてはこの神宮が特別な位置を占めるのは当然のこととなろう。
小雪がバラついていた。二〇〇五年(平成十七年)の橿原神宮。やはりというべきか建国記念日という言葉は使われていなかった。ここでは紀元祭である。橿原神宮にとっての紀元祭とは、
「当橿原神宮年一度の例祭(大祭)であって、日本書記・神武天皇紀の「辛酉の年一月一日神武天皇が、橿原神宮にて即位された。これを元年とする」に由来し、明治六年太陽暦採用により、二月十一にに制定され、紀元節として祝ってきた。
勅使参向のもとに行われるこの祭典は、特に明治天皇の思し召しにより紀元節として制定され、国家のもっとも重要な祝日であったが、戦後は占領政策により、一時紀元節の廃止の時期を経て、やがて戦後の独立以降、国民の要望によって、昭和四十一年建国記念の日制定以来は、全国的な広がりをもって全国津々浦々にて奉祝行事が実施されている。
橿原神宮は、戦前戦後を通じて変わらず紀元祭を大祭として執り行い、現在は建国の聖地として日本の伝統をよみがえらせ、その発展を祈る、およそ五千人の参列と、五十数団体を含む十五万人にもおよぶ全国各地からの参拝者で終日賑わう」
十五万人で参拝というのは、いささかオーバーにしても、私たちが橿原神宮に到着した頃、巨大な鳥居の周辺は右翼団体街宣車でごったがえしていた。戦闘服を身にまとった右翼団体の人たちhが、街宣車から降りると隊列を組んで外拝殿を目指すことになる。良い意味で辺りに緊張感はなく、おめでたい日であるからなのか、とても長閑な雰囲気である。私たちもホッとして外拝殿を目指すことになる。右翼団体は外拝殿に辿り着いた順番に礼拝を行い、君が代を斉唱し、「天皇陛下バンザイ」を叫んでゆく。時おり、戦闘服姿ではない集団も礼拝してゆくのだが、この多くは生長の家の一団であった。
私たちは外拝殿と内拝殿の間に設置されたテントの参列席のスチール椅子に座る。紀元祭が始まっても外拝殿前での君が代天皇陛下万歳の声は止むことはない。内拝殿の右側にはモーニング姿の参列者が並んでいる。神社本庁の田中恆清副総長や安曽田豊橿原市長をはじめとしたVIPがどこには並んでいた。モーニング姿のVIP参列者は別にして、テント席は儀礼的空間に相応しいピンと張りつめた厳粛な空気が支配しているとは言い難かった。午前十一時に奏楽とともに宮司以下の祭員が所定の座についてからも、平気で席を立つ参列者は後を絶たないし、後方の焚火が焚かれているところでは、´お祭り´の最中であっても喫煙が許されていた。橿原神宮によれば約五千人ということになる参列者をおおう空気は長閑というよりも、明らかに緩んでいた。
午前十一時ころ、宮司祝詞が奉されてから、やや間を置いてついに天皇の勅使がやって来た。随行員二人は天皇気であることを示す菊の紋章の入った緑色の布におおわれた唐櫃を担いでいた。この中に´御幣物´が収められているのだ。最大のヤマ場は、この´御幣物´を神前に供えることである。勅使は外拝殿から内拝殿へと進んでいく。勅使が所定の座に着き、随行員が´御幣物´を宮司に進め、宮司が´御幣物´を奉る。その後に勅使が祭文を奉し、宮司が祭文を神殿に納め勅使に反命すると、勅使は本座に戻る。それから神楽の舞があり、君が代が演奏され、「紀元奉領の歌」が合唱され、勅使は玉串を奉った後に退出となる。
このように勅使を橿原神宮に遣わせていつからには、この日、明仁天皇宮中三殿で´臨時御拝´を例年通り行っていたことは間違いあるまい。私は勅使を介して間接的ではあるが、´祈る天皇´の一端を垣間見たと言うべきかもしれない。

戦後民主主義明仁天皇

私たちがこれまで見てきた明仁天皇即位の礼では日本国憲法を国民とともに遵守することを宣言して天皇となった。沖縄訪問にあたっては自らが薩摩藩の血筋を引いていることに遺憾の意を表明したこともある。天皇の発言を引用するとーー。
「私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと務めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」
二〇〇二年(平成一四)のワールドカップ日韓共催に際しては百済王と桓武天皇の親戚関係を認め、しかも日韓併合という過去を踏まえたうえで次のような発言を残している。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。しかし、残念なことに、韓国との交流はこのような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います」
昨年十月の赤坂御苑で開かれた園遊会では、こんなこともあった。この園遊会に招かれた東京都教育委員会委員をつとめる棋士米長邦雄氏と明仁天皇の会話による´やりとり´がテレビで放映されたのである。

天皇「教育委員として本当にご苦労さまです」
米長「一生懸命、頑張っております」
天皇「どうですか」
米長「日本中の学校で国旗を掲げて、国歌を斉唱させるのが私の仕事でございます。今、頑張っております」
天皇「やはり強制になるということでないことが望ましいと思います」
米長「もうもちろんそうです、本当に素晴らしいお言葉をいただき、ありがとうございました」

こうした明仁天皇島田雅彦は「現在の天皇陛下大江健三郎とともに純粋培養の戦後民主主義の申し子といえるのではないか」と浅田彰との対談で述べている。また、吉田司は「非戦天皇、最後の聖戦<中流>意識の変容に抗って」(『ダカーポ』二〇〇五年三月十六日号)の中で、こう断言している。
「´お言葉´がどんどん過激化しているように思うんだけど、どうかな? 言葉を替えれば、中国や韓国、アジア諸国がいま日本に求めている『歴史認識』(戦争責任)を天皇御夫妻ほど強く、つきつめて考えておられる方は、日本にはいない」
もし戦前に明仁天皇のような発言を庶民がしてしまったら、間違いなく不敬罪で捕らわれてしまうことになるのではないだろうか。そういう意味で、明仁天皇は島田がいうように´純粋培養の戦後民主主義の申し子´であることに間違いはないし、吉田が指摘しているように明仁天皇の言葉は´どんどん過激化している´ことも間違いあるまい。ではこうした´見える天皇´と´見えない天皇´すなわち´隠された´ところの´祈る天皇´との関係をどう考えるべきなのだろうか。
そこに´断絶´を見るとなると、どちらかの天皇像を否定しなければならなくなるだろう。´見える天皇´を否定し、´祈る天皇´を肯定するとなると、戦後民主主義の拘束のなかで明仁天皇は嫌々ながら、ああした´見える天皇´を演じているのであって、明仁天皇の本来の実像はそこにはなく、´祈る天皇´のなかにのみあると考えることになるだろう。´祈る天皇´は´見えない´がゆえに´見える天皇´とはかかわりなく、こうした人々は自らの思想なり、イデオロギーに応じて、´本当の天皇´像をそこに仮託していくことになる。
一方、´見える天皇´を肯定し、´祈る天皇´を否定するとなると、まず、´見えない´部分を徹底的に開いていくことから始め、やがて宮中祭祀を何としてでも天皇から取り上げるようとすることになるだろう。つまり宗教的に無色透明の存在にしてしまうということだ。しかし、それは最終的には天皇の存在を否認することになる。

日本国憲法による国体護持の意味

´見える天皇´と´祈る天皇´の間に´断絶´を措定すると、戦後六十年の今日に至るまで何度も繰り返されてきた対立の構造がここでも生じてきてしまうことになるというわけである。´見える天皇´と´祈る天皇´を地続きで捉える思考は、戦後、殆ど言論の世界を賑わせてこなかったのである。唯一の例外を除いては……。
その例外こそが何あろう日本国憲法ではあるまいか。一九四五年(昭和二十)八月十五日、昭和天皇玉音放送をもって、日本の´大東亜戦争´での敗戦が確定する。玉音放送を正確に言うならば、´終戦詔勅´だが、そこで昭和天皇ポツダム宣言を受諾することと´国体護持´をはっきりと宣言している。昭和天皇からすれば´国体護持´を条件として、ポツダム宣言を受諾してのである。
その後、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が占領統治の全権を掌握し、GHQによる日本の全面的な民主化を推し進めていくことになる。その民主化の´象徴´としての日本国憲法が君臨する。
日本国憲法マッカーサーによる押しつけ憲法であるという評価がある。確かに、それは全くその通りであろう。マッカーサーは日本政府に憲法草案の提出を求めたが、これを一蹴し、GHQの民政局に置かれた憲法制定会議によって、たった一週間でマッカーサー草案を作り上げてしまうのである。このマッカーサー草案を土台にして日本国憲法は出来上がる。実はマッカーサーがこれほどまでに日本国憲法の制定を急いだのは、昭和天皇東京裁判から守るためだったとしか考えられない。日本の民主化と同時に東京裁判の準備が進められていくことになるが、連合国の一部には昭和天皇の戦争責任を問うべきだという主張が根強く存在していた。
しかし昭和天皇との会見により、国体護持、分かりやすく言えば天皇制の継続を決意したマッカーサーにとって、昭和天皇東京裁判から守る切り札が、民主的のみならず徹底的な非軍事化を盛り込んだ憲法の制定だったのである。そうしたマッカーサー昭和天皇も予め応えている。一九四六年(昭和二十一)一月一日、一般的には「人間宣言」と呼ばれている詔書を発表するが、この冒頭に置かれたのは明治天皇の「五箇条の御誓文」にほかならなかった。こうすることで昭和天皇は、天皇制=国体が民主主義と決して対立するものではないことをマッカーサーに伝えたのである。
マッカーサーからすれば、日本国憲法は押しつけたものではなく、昭和天皇への最高のプレゼントであった可能性が高いのである。その証拠に日本国憲法の第一条から第八条までの第一章は、天皇についての条項なのである。´主権在民´の憲法でありながら、大日本帝国憲法と同様に第一章は天皇にかかわる記述がなされているというわけだ。しかも、日本国憲法第一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と第二条の「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」という条項は大日本帝国憲法の第一条「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」、第二条「皇位皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」、第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」という三つの条項で規定された天皇像をそう大きく逸脱するものではなかろう。確かに日本国憲法では皇室典範憲法のもとに置いているし、大日本帝国憲法の第四条における´統治権の総攬´は否定され、主権は国民に置かれているが、大日本帝国憲法第一条における´統治ス´という記述の抽象性=根源性は、日本国憲法第一条における´象徴´のそれと、そう大きな変更はなされていないように読める。いや、むしろ´象徴´という言葉は、大日本帝国憲法第三条の内容も包みこんでしまうほどに抽象的であると言ってよいかもしれない。
ここまで踏み込まないとしても、坂本多加雄が『象徴天皇制度と日本の来歴』のなかで次のように言う程度には、大日本帝国憲法日本国憲法は連続性を持っていると言ってもいいように私には思われる。
「さて帝国憲法第一条に『統治』すなわち『しらす』の主体が天皇であり、しかもそれが、第四条の『統治権』の『総攬』の主体としての天皇よりも根源的な意味を持つとすれば、帝国憲法の改正としての日本国憲法の誕生は、この第四条の天皇の地位が変化したに留まるのであり、第一条の天皇の地位には、根源的な変化はないが故に、そうした改正は『合意』であると解することが可能ではなかろうか」
日本国憲法第三条から第八条までの条項は、国家機関としての天皇の役割を最大限に非権力的な領域に限定することで、天皇を政治過程から、ある意味で解放していると言えるだろう。だからこそ天皇は´見える天皇´として日本国憲法の理念を徹底的に実践できるし、一方、第二十条の信教の自由と政教分離の原則を盾にすれば、政治権力から遮断された場所で´祈る天皇´であることが完全に保障されている。
そして、こうした´象徴天皇制´の条件として、世界に向けて戦争放棄を高らかに宣言する第九条の非戦条項が第一章の天皇に引き続き、第二章に控えることになる。
まさに日本国憲法によって国体は護持されたのである。しかし、そのことに´戦後´という時代とその時代に生きた人々はあまりに鈍感であった。いわゆる戦後民主主義に絶対的な価値を見い出そうとする´護憲派´と呼ばれる勢力は、第一章をことさら消極的な理解にとどめ―――というよりも、第一章を飛ばして、特に第九条を異様なまでに評価する。
象徴天皇制度と日本の来歴』によれば「日本国憲法は、特定の政治目的のための一種の手段とさえ見放され、その全体について、真に擁護する護憲派を持たない孤独で不幸な憲法に留まり続けているのである」ということになる。
無論、そうした鈍感さから´改憲派´も自由ではあるまい。´改憲派´の鈍さが、実は明仁天皇の数々の発言を際立たせてしまっているのだ。
私には、日本国憲法と同じように明仁天皇も、その全体像を真に擁護する象徴天皇派を持たない孤独で不幸な天皇であるように思えてならないのである。´見える天皇´においても、´祈る天皇´においてでもある。´戦後´とは、そのような空間だったのである。     2005年3月記