朝日新聞の編集委員・竹内敬二は相変わらず原発パニックに陥っている!

福島第一原発の事故について「福島原発事故独立検証委員会」なる集団が「民間」の立場から検証した報告書が発表され、これについて多くの新聞が社説にも取り上げた。社説なんぞで取り上げるよりも、その報告書の全文を読みたいものだと思ったが、どの新聞も自分たちで報告書の内容を独占した。相変わらず、マスメディアは「ムラ」の形成に忙しいらしい。マスメディアが原発から遠く離れて存在する「原子力ムラ」の重要なプレイヤーであったことなど、とうに忘れてしまっているようだが、朝日新聞編集委員の肩書を持つ竹内敬二によれば、その報告書に次のように書かれていたらしい。

3月15日は運命の日だった。放射能を閉じ込める堤防はここで決壊した。

朝日新聞は「東日本大震災1年」という特集記事をこのところ毎日掲載している。3月4日付の紙面では福島第一原発を取り上げ、政府や東京電力の関係者が最も恐ろしかった瞬間は3月14日夜から3月15日朝にかけてだとしていることを踏まえて、その間、何があったかを検証し、編集委員の竹内敬二を登場させ、3月15日を「日本の歴史が変わった日」と言わしめている。私などからすると時代が変わると言われなかった時代はないし、時代を変えなければならないと言われなかった時代もないと思うのだが、どうやら竹内という御仁は違うらしい。竹内は相変わらずパニック状態から抜け出せないでいるといった方が正確か。まずは竹内に次のような渡辺京二の『未踏の野を過ぎて』から次のような一節を進呈しておこうか。

相変わらず車を乗り廻し、デパートの駅弁大会といえば真先に駆けつけるのに、放射能がこわいからといって、何の根拠もなく米のトギ汁を服用させて、子どもに下痢させるなど、現代人はどうしてこんなに危機に弱くなったのか。いや、東北三県の人びとはよく苦難に耐えて、パニックを起こしていない。パニックを起こしているのはメディアである。災害を受けなかった人びとである。

竹内はパニックを起こしたメディアの住人であり、災害を受けなかった人びとのひとりに他なるまい。渡辺はこうも書いている。

日本人、いや人類の生きかた在りかたを変えねばならぬのは、昨日今日始まった話ではないのだ。

「ある日」に過度に重心を置く思考は得てして「ある日」以前をなかったことにしてしまうかのような言説を大量生産していることは例えば「8月15日」が証明しているではないか。竹内!もう少し落ち着けよ、である。
私が竹内敬二と出会ったのは昨年3月13日付の紙面においてであった。一面左下に掲載された「最悪の事態回避へ懸命」という署名記事を竹内は発表した。これについて私はこのブログで次のように書き、その後『報道と隠蔽』にも収めた。少し長くなるが引用しておこう。

3月13日付朝日新聞の一面トップは福島第一原発の第1号機の爆発事故によって占められた。「福島原発で爆発」「周辺で90人被曝か」という見出しが大きく掲げられた。
この匿名記事の主語は「経済産業省原子力安全・保安院」であり、 「枝野幸男官房長官」であり、 「政府」であった。かつて「大東亜戦争」において新聞は大本営発表を鵜呑みにして記事を書き続けて来た過去があるが、歴史は何度でも繰り返すようである。朝日新聞からすれば「そんなことはない」と言うのかもしれない。例えば「最悪の事態回避へ懸命」という編集委員の竹内敬二による署名原稿を一面の左下に掲載しているからだ。政府が福島第一原発の避難指示対象を半径10㌔から半径20㌔に拡大したことについて竹内は書いている。
「広域避難はチェルノブイリを思い起こさせる。しかし、この事故と直接比較することはできない。それでも、これほどの避難が必要なのか。政府は『念のためという意味もある広域避難』と説明したが、それは指示を出した後だった。
今後は炉心の状況、 放射能データなどをもっと丁寧に説明すべきだろう。不十分な説明のまま、夜に避難指示をだすようなやり方では不信感が増すだけだ」
政府や原子力安全・保安院東京電力なりが説明不足であることを批判するのは当然のことであるにしても、そこで足踏みしてしまっては結局、大本営発表をそのまま報じてしまう、かつての新聞と同じではないのか。果たして「念のためという意味もある広域避難」であれば夜間に強行するだろうか。 「念のためという意味」以上の事態が進行しているのではないかという問いを竹内は自らに投げかけるべきではないのか。オレは記事のこの部分を何度も読み返してみたが、オレには半径20㌔に及ぶ避難は、それが「念のため」であれば必要ではなかったと竹内が考えているとしか理解できなかった。竹内は次のように記事を結んでいるが、これもまたオレには理解できなかった。
東京電力は、格納容器内を海水で満たす措置を始めた。前例のない極めて異例の作業でリスクも大きいが、最悪事態を防ぐために採用した。これが奏功するかどうかわからないが、失敗も許されない」
竹内の言う「最悪事態」とはいったいどういう事態を指すのだろうか。ここを具体的に書くのがジャーナリストの役割ではないのか。ただ「最悪事態」と読者に放り投げるだけで済ませてしまうのは、読者を混乱させるだけだろう。 「最悪に備えて国民を守れ」と題された社説にしても同じだ。これまた「最悪」の説明がどこにも見あたらない文章なのである。これでは読者は「最悪」の内容を勝手に想像をふくらませて考えるしかあるまい。要するに朝日新聞は読者の不安を煽るだけの役割しか果たしていなかったということである。 それを世間の常識では無責任と言う。
東日本大震災を報じた3月12日付の紙面から一週間、朝日新聞の一面で最も多く報じられたのは福島第一原発に関連する記事であった。朝日新聞自身が妄想した恐怖の反映である。

自らの恐怖のあまりフクシマから遠く離れて「最悪事態」を妄想しながらパニックを起こし、遂に「最悪事態」について具体的に書くことのできなかった竹内が1年経って再びしゃしゃり出て来て、3月15日をもって日本の歴史が変わったなどとよくもまあ書けるものである。変えるべきを変えていなかった新聞ジャーナリズムの腐った根っこを満天下に曝してしまっただけだろうに!「問われているのは『事故の可能性も考えて、日本には原発を持つ能力があるのか』だ」だって?そんな誰にでも言えるようなことを書いてお茶を濁すなよ。そもそも竹内自身はいったいどう考えているのだろうか。よし、仮に日本には原発を持つ能力がないと竹内が考えていたとしよう。その文章の流れからしても、そう受け取るのが自然であろう。しかし、現実に日本は世界第3位の原発大国であり、日本には原発が五十基以上も存在しているではないか。原発を持つ能力がない国に五十基以上もの原発から自由になる能力があるはずないではないか。日本には原発を持つ能力がないと考えることは、原発をそのまま放置しておくしかなす術が日本にはないということと同じ意味である。要するに竹内は情況に対して何の意味も持たない問いを発しているだけなのだ。相も変わらず思考停止に陥っているということである。