断片の昭和史(8) 12世片岡仁左衛門一家惨殺事件

1882年(明治15)9月9日生まれ。8世の娘の子であり、10世の養子であった。1936年(昭和11)年12世を襲名。美貌と品位の持ち主であったという。女方に定評があり,「朝顔日記」の深雪を当たり役としていた。12世片岡仁左衛門。敗戦から約半年後の1946年(昭和21)3月16日死去。享年65歳。東京出身。屋号は松島屋。『新版 歌舞伎事典』にはこう記されている。

冷たい美貌が不思議な魅力を発揮したが、昭和二一年、戦後の世相を反映した不慮の死を遂げた。

「不慮の死」とは…要するに東京・渋谷区千駄ヶ谷の自宅で殺されたのである。1月に京都の南座で弁天小僧を演じたのが最後の舞台となった。
6時半ごろであった。眠れないまま便所に向かった。廊下に置かれていた薪割りの斧につまずく。その斧を見ているうちにムラムラと殺意が湧いた。斧を手にした。奥の八畳間に侵入。主人に一撃を加える。主人はウーンと唸って立ち上がり怒鳴りつけてきた。無視してメチャクチャに打ちのめす。次に夫人を襲った。同じようにめった打ちにした。記憶にあるのは、そこまでだった。それからは肉体だけが勝手に躍動した。「そのころから夢中になってあのような惨劇を犯しました」と飯田利明(当時22歳)は供述書のなかで述べている。飯田はヘモグロビンの強い臭いのなか直立していたのだろう。
主人は12世片岡仁左衛門。夫人は元日活女優の登志子(当時26歳)。三男(同2歳)、お手伝い(同69歳)、子守(同12歳)の5人が薪割り用の斧で殺害された。特筆すべきは子守の少女は飯田の実妹であったことである。飯田は12世片岡仁左衛門の門人(座付作者)であり、兄妹そろって片岡邸に起居していた。
3月16日午前11時頃、登志子の母親が片岡邸を訪ねるが、何の応答もない。不審に思った母親は近所の住人の立会いのもと、室内に入り、遺体を発見。通報を受け現場に到着した警察はただちに捜査を開始。外部から侵入したという形跡はなく、金銭や貴重品も盗まれていなかった。飯田の部屋から血痕の付着した靴下が発見される。同人の指名手配に及ぶ。4日後に飯田は身を潜めていた宮城県玉造温泉の旅館で逮捕される。そして、犯行を自供。
親父は1年前に死んでしまっていた。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲。深夜の午前零時8分から2時間半にわたって、アメリカ軍は344機のB29による絨毯爆撃を敢行。各機に平均6㌧以上の焼夷弾を搭載し、房総半島沖合から単機または数機に分散し、低高度で東京下町に侵入。約40平方㎞に及ぶ市街地を火の海にするとともに逃げ惑う人々にも容赦なく機銃掃射を浴びせた。その犠牲者は10万8千人に達した。非戦闘員に対するこの大虐殺によって、浅草の飯田の実家で生き残ったのは子守として片岡邸に一緒に住み込むことになった12歳の実妹だけであった。
浅草の実家は岸本姓であった。姓が違うのは芝商業を卒業後、大阪の飯田家の養子となっていたからである。しかし、飯田が徴用先の北海道・空知炭坑から敗戦で引き揚げると、大阪の養家は戦災で全滅していた。飯田は東京大空襲で犠牲となった実父が松島屋の座付作者だった縁から、妹とともに片岡家に転がり込んだ。飯田は座付作者として松竹で働くことになる。その仕事は12世片岡仁左衛門のための台本整理や台詞書きであった。このようにして敗戦後の混乱のなか職を得た飯田であったが、その空腹感を満たすことはできなかった。飯田をして惨殺の凶行に向かわせた動機は「食物の恨み」からともみられると3月18日付の朝日新聞は書いた。
日本全体が飢えていた。敗戦により「外地」などから祖国に戻った復員兵や引揚者が巷に溢れていた。その数660万人。食糧管理法も機能しなくなり、米が2割しか入っていなかった成人ひとりあたり287㌘の配給も遅配、欠配するようになってしまった。
飯田はこう供述している。
「主人夫妻は1日3食。おかずつきの食事をとっているのに、使用人は2食。そのうち1食はお粥でした。そんな冷たい扱いが我慢できなかったところに私が懸命に書いた台本を頭ごなしに貶すのです。先日も、徹夜で書いた原稿を『これでも作家か』と怒鳴って投げつけられました」
裁判に出廷した大多数の承認は飯田のことを悪くは言わなかった。仕事に間違いはないし、同僚と争うようなこともなく、怒りもせず、平凡で目立たない青年、そんなイメージで飯田は周囲から見られていた。それだけに飯田にとって、12世片岡仁左衛門の叱責の数々は理不尽なものとしてしか理解できなかったろうし、飯田のプライドを傷つけるに充分な「威力」を秘めていたはずである。
飯田が犯行にいたる前日、仁左衛門との葛藤は頂点に達する。飯田は仁左衛門にこう言い放たれる。
「お前のような者は家におけない。明日は出て行け!今夜中に4月興行の原稿を書き上げろ!そのカネを持って出て行け!!」
飯田は必死で原稿を書き上げ、仁左衛門に渡す。仁左衛門は原稿を飯田に投げつけた。
「これでも作家か!」
その場は収まった。しかし、飯田は寝つけなかった。朝を迎える。これまで真面目に尽くしてきたのにこの仕打ちはいったい何なのだ。食事で差別を受けたことに激しい怒りがせり上がって来た。飯田は便所に行くために起き上がる。廊下で何かに躓く。早朝の柔らかい光が薪割りに使う斧を包み込んでいた。その斧に平凡で真面目な男だった飯田が感応する。
頭の中は真っ白になっていた。飯田は12世の眠る部屋へと一気に向かう。その家に眠る人間に対し片っ端から斧を振り下ろした。
「妹を殺してしまったのに気づいたのも、我に返った後でした」
と飯田は供述している。妹を殺害したその瞬間、飯田の無意識には何が宿っていたのだろうか。実の妹にまで斧を振り下ろしたのは、もしかしたら、飯田同様の境遇にあった妹を飢えから「解放」するためではなかったのかあらゆる犯罪は革命的なのである。
1946年(昭和21)5月19日、宮城前に25万人を集め食糧メーデーが開催される。
読売新聞の鈴木東民が吠える。
「今こそ街頭から革命は始まった!」
赤ちやんを背に世田谷区民の永野アヤメが訴える。
おかゆをすすり、野草の団子を食べても乳は出ない。これ以上の苦しみを誰に聞かせたら良いのか」
四谷第六国民学校の橋本実君も社会党浅沼稲次郎に抱えられるようにして壇上に立った。
「僕たちは疎開したので遅れた勉強を取り戻したいが、米がないので学校に弁当を持ってゆけない。僕たちに給食をください」
大会後のデモ行進に際して田中精機工業の社員だった松島松太郎が掲げた次のような文言のプラカードを掲げた。
詔書  国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ 」
6月22日不敬罪にあたるとして松島は1ヶ月後に起訴される。いわゆる「プラカード事件」である。
殺意を秘めた「飢え」がそこいらじゅうに転がっていた。