石原慎太郎が新党結成へ

石原「てっぺん野郎」慎太郎が都知事を辞任し、「近いうち」に実施される総選挙を睨んで新党を結成することになった。予想していた通り、10月26日付の産経新聞は「石原新党 新憲法への流れ歓迎する 首相は年内解散を決断せよ」という社説を掲げて大はしゃぎしている。

現在の政治の閉塞(へいそく)状況を転換しようとする石原氏の行動を高く評価したい。氏が投じる一石は、新たな政治状況をダイナミックに創出する意味を持ち、憲法改正を求める保守勢力を結集する重要な核となり得るからだ。

石原の生年月日は昭和7年9月30日だから、先月、80歳を迎えたばかりである。80の大台に乗りながら、都知事では飽き足らずに、新党を立ち上げ、国政に復活しようというのだから、「老人大国」日本を象徴する出来事である。私は小説家としての石原慎太郎は嫌いではない。『完全な遊戯』は精神疾患を抱えた女性を拉致、監禁、輪姦するという内容であったし、『化石の森』にしても母と息子は揃って「性」に溺れ、ともに殺人を犯すのだが、そうした石原の描く「ベルトから下のテロリズム」による伝統破壊に私は共感したというよりも、精神的な「勃起」をもって連帯したものである。石原の政治家としての勇ましい数々の発言は小説家としての資質である男根中心主義が「政治」に転化したものである。言ってみれば「政治的射精」なのだ。昨日の記者会見でも「吉本隆明」の名前を出すところなどは、小説家としての知性を開陳したに過ぎないのだろうが、「今の憲法のどこに合法性があるのか。(メディアも政党も)それぞれ草案を持っている。草案を持ち寄ってブラッシュアップし、それに変えればいい。占領軍の憲法が独立後も通用する事例なんて聞いたことがない」(「産経ニュース」http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121025/stt12102516430018-n1.htm)という発言になると、十八番の「政治的射精」ということになろう。石原慎太郎という政治家は性的な意味で「正しいファシスト」なのである。
橋下徹の「日本維新の会」に石原新党自民党の総裁は安倍晋三で、民主党の代表で現在のところ首相をつとめるのが野田佳彦という顔ぶれを見るならば、来るべき総選挙において、各党とも「気分はもう戦争」とばかりに、どれだけ勇ましいかという「右」の姿勢を競い合うことになるのだろう。実際、日本という島国で「平和ボケ」の暮らしをしているとわからないことだが、世界の目からすると、日本が右傾化しているように見えるようだ。例えば韓国の『朝鮮日報』は次のように書いている。

次期衆議院議員総選挙で第1党となることが有力視されている自民党の総裁に、極右的な性格が強い安倍晋三・元首相が就任した一方、高い人気を誇る石原、橋下両氏が率いる「極右連合」が総選挙で善戦した場合、日本政界の極右化はこれまで以上に進むとの見方も出ている。

韓国の新聞記者は東京在住の特派員であっても、このように日本を見ているのである。また日本の同盟国であるアメリカは野田政権が打ち出した2030年代原発ゼロ戦略に日本核武装の懸念を抱いたはずである。核燃サイクルを中止することなく、減原発をつづけるとどうなるかといえば、日本に大量のプルトニウムが蓄積されることになる。欧米からすれば、日本もイランと変わらない危険な国家として目に映るはずである。10月22日付琉球新報の社説によれば、実は国連で核兵器の非合法化を促す声明案が16カ国が共同して提出されたが、日本は19年連続で核兵器廃絶決議案を提出しているにもかかわらず、署名しなかったというのだ。琉球新報の社説は署名しなかった理由をこう述べる。

日本政府が署名を拒否したのは、「米国の『核の傘』の下にいるという政策と整合性が取れないから」だという。

NATO加盟国の、つまりは日本同様にアメリカの「核の傘」の下にいるノルウェーデンマークは署名しているそうだ。それなのに日本は何故に署名しなかったのか。こう勘ぐられても仕方ないのではないか。日本が減原発政策のもと大量のプルトニウムの蓄積をはかるのは近い将来の核武装を見据えてのことであると。私とてガイジンであったならば、尖閣諸島をめぐって中国と緊張関係にある日本をそう見るかもしれない。石原慎太郎核武装論者だしね!こうした世界の反応にいつもながら敏感なのは、進歩派の知識人である。自分の頭ではさして考えずに外国から借りた視線で右傾化の危機を煽り立てる。いつもながらの狼少年ぶりにもはや民衆は聞く耳を持っていないのにご苦労なことである。マキアヴェッリを踏まえていえば日本維新の会石原新党は総選挙でそれなりの議員数を獲得するだろう。どれだけ「右」かを競い合う選挙で彼らが支持を得ることは、さほど難しくないはずだ。しかし、過去の新自由クラブ日本新党の例をみればわかるように、その支持を保ち続けることは困難きわまりないのではないだろうか。
だいたい「反米」抜きの「右」は思想としても、運動としても、結局は「保守」という穏健さに回収されてお終いというのが、わが国の政治の決まりきったパターンである。橋下徹にしても、石原慎太郎にしても、安倍晋三にしても、「右」としては「攘夷」が決定的に不足しているのだ。日本が憲法を変えたぐらいでアメリカから自由になれると私には到底思えないのである。安倍晋三の掲げる「戦後レジームからの脱却」にしても、アメリカ抜きの、アメリカを温存したままの「戦後レジームからの脱却」に過ぎない。何故、日本が敗戦から半世紀以上も経っていながらもアメリカ(従米であり、属米)を克服できないのかといえば、日本と世界の間にギャップが生じた際に、そのギャップを突出、暴走させないための「装置」としてアメリカが機能しているからである。昭和前期の日本では、このギャップが「統帥権」の名を借りて、突出し、暴走し、遂にはアメリカとの戦争に至ってしまったということができるだろう。