放射性物質の新基準値による出荷停止も「レバ刺し禁止令」同様の愚行である!

「レバ刺し」禁止令も愚かだし、この4月から導入された食品衛生法における放射性物質に関する新基準値も愚かだと思う。4月1日から導入された食品中の放射性セシウムの新基準値は、一般食品が1キロ当たり100ベクレル、牛乳、乳児用食品が同50ベクレル、飲料水が同10ベクレルと厳格化された。これを超えると出荷停止になる。そして早くも新基準値を上回る農作物が相次いで出荷停止となった。
4月7日付朝日新聞が社会面で書いているところによると宮城県田村市では原木シイタケから350ベクレルのセシウムが検出され出荷停止、千葉県木更津市市原市など県内4市町ではタケノコから100ベクレル余が検出され出荷停止、福島県福島市田村市など県内5市町ではフキノトウが、いわき市ではタケノコがやはり基準値を超えた。また放射性物質を「無主物」として撒き散らした東京電力福島第一原発から200キロも離れた神奈川県真鶴町でも生シイタケから141ベクレルが検出されたという。朝日新聞デジタルで次のような記事も見つけた。基準値変更の最大の犠牲者になりそうなのが被災地の第一次産業に携る人びとであるである。

仙台湾のスズキから比較的高い数値の放射性セシウムが検出されたのを受け、県や県漁協は30日から水揚げを自粛する。4月から食品中の放射性物質の基準値が厳しくなることにあわせた措置だ。漁を目前にした漁師には不満も残るが、ほかの海産物に悪影響を広げないねらいもある。
「早く収まってほしい」。七ケ浜沖で操業する県漁協塩釜市浦戸東部支所の組合員は不安を口にする。
県全体のスズキの水揚げ量は年間150〜250トン。これから夏までが水揚げの多い時期で、仙台湾の漁業者は4月初頭から定置網を入れる準備を進めているところだった。
だからこそ、漁業者の落胆は大きい。
「決まったことには従うが、100ベクレルというのは世界的にはきびしすぎるのでは。今まさに立ち上がろうというときに足かせになる」。石巻魚市場買受人協同組合の布施三郎理事長は言う。県漁協は「網を入れるのをやめる漁業者も出てくる」とみる。
不安はスズキ漁以外の漁師にも広がる。

しかし、これらの出荷停止食品は4月1日以前の旧基準値であれば、どの食品も出荷停止には至らなかった数値である。昨年、東京電力放射性物質を撒き散らした後の2011年に3月17日に暫定規制値として定められた旧来の基準値は1キロ当たり500ベクレルであった。つまり、お国の差配によって4月1日以前は食べられたものが食べられなくなってしまったのである。しかも、いきなり従来の5分の1という厳しい設定になったのである。被災地にとって復旧、復興の足枷になりかねないという危惧を抱くのも当然だろう。
こんなにも簡単に(たった1年で!)、こんなにも厳しく(飲料水に至っては一気に20分の1に!)なった基準値の設定なんぞ、何の科学的根拠もない「まやかし」であると私は思う。私たちの責任において何を食べるのかまかせてもらいたいと思う。線引きばかりに労力を費やす「政治」は私たちを混乱させるだけである。もっといえば私たちと被災地を分断することにもなりかねまい。消費者と生産者の社会的な分断でもある。生活者としては同じであっても線引きによって様々な二項対立が生まれるのだ。
私のように100ベクレル超の食品であっても食べようという消費者は自己責任において食べられるようにすれば良いのだ。逆に100ベクレルであっても健康に被害があると判断する消費者には食べないで済むようにすれば良いのだ。この二つの消費者としての決断を両立させる仕組を導入すべきなのである。すなわち、セシウム値の表示である。
確かに食品のセイウム値の全品表示は大手スーパーなどの資本力のある小売にとっては苦もないことなのだろうが、中小の小売にとっては、そんな体力などないのかもしれない。そうであれば100ベクレルを超える基準値の食品のみ何ベクレルなのか具体的な表示を義務づけて出荷させるということぐらいはできるのではないだろうか。
そのうえであらかじめ「政治」に言っておきたいことがある。1キロ当たり100ベクレルとした基準では出荷停止が相次ぐので、そうした状況を踏まえて基準値を緩和し、例えば4月1日までの500ベクレルという数値と今回の100ベクレルという数値の中間をとって250ベクレルまでは許容するといった愚行を犯して欲しくないということだ。
私が求めたいのは自分たちのことは自分たちで判断し、決断するという自己責任による自己決定の自由だ。それは「市民」として当然の権利ではないのか。選択肢が多様であることが民主主義が実現する「開かれた社会」の鉄則であるはずだ。
私の知人などセシウム値が100ベクレルと500ベクレルの2種類のタケノコがあるとすれば、彼の確信する放射線ホルミシス健康法からして、多少なりとも値段が高くとも500ベクレルのタケノコを買って食することであろう。
あるいは、これまた私の知人の女性だが、「チェルノブイリの教訓を食卓で生かす」と主張する彼女は50ベクレル程度のたけのこを値が張っても購入することであろう。彼女からの受け売りなのだが、アメリカの基準値は1㌔あたり17ベクレルであるという。
私は両者ともに批判したくないのである。両者それぞれの常識を尊重したいのだ。その結果はそれぞれが負えば良かろう。私は箸の上げ下げにまでお国にちょっかいを出されたくないだけである。個人(一応は主権者ということになっている)の生活領域に対する過度な公権力の介入は戒めるべきなのだ。それは近代国民国家にとっての常識ではなかったろうか。
何でも一律にという発想は国家社会主義スターリニズムの入口となりかねまい。私は放射性物質よりも「一律」を強制する「政治」の方が遥かに怖いのではなかろうか。私に言わせれば、規制の状況を評価しているという消費者団体の本質は実は民衆の敵である。
昨年の3月11日以後、「政治」が信じられなくなってしまった原因のひとつが机上の線引きばかりを繰り返していたことにあるのは言うまでもなかろう。私は現場を想像することなく、机上で線引きばかりを繰り返す官僚主義に毒された「政治」に嫌気がさしている。戦場を知らずに作戦計画を立てていた陸軍参謀本部大東亜戦争における悲劇的な過ちがバカバカしいほどの「戯画」として蘇ってしまっているのだ。政権交代によって「官」から「民」への「政治」が実現するのではなかったのか。3.11を分水嶺にして「官」の「官」による「官」のための政治が一層強化されてしまったようである。