ソーシャル・イッピーの誕生か!?ikedahayato.blog(イケダハヤトブログ)を読んでみた

イケダハヤト。「所得倍増計画」の池田勇人ではない。むしろ、池田勇人イデオロギーの対極に位置する思考の持ち主と言って良いだろう。イケダハヤトという名前を名乗ること自体が彼の批評性を物語っているのかもしれない。イケダハヤトはソーシャル・メディアから生まれた新しい才能のひとりだ。こんなツイートをする。アカウントは「@IHayato」。

言葉による創作は楽しい。ソーシャルメディアの時代に生きていて良かった。しばしば「言論テロ」は生まれるけれど、向き合い方さえ間違えなければ得るものは多い。僕は偽悪的に争いは生まず、淡々と言葉を残していきます。

イケダハヤトのツイートは「しなやかさ」「柔らかさ」と「強靭さ」を併せ持っているところに特徴がある。このツイートで言えば「僕は偽悪的に争いは生まず」という一節を滑り込ませているところが、イケダの「強靭さ」ということになるはずだ。私もまた言葉による創作は楽しいと思っているし、ソーシャルメディアの時代に生きていて良かったと思っている。ただし、私が淡々と言葉を残しているだけかといえば、これまでのブログをお読みいただければわかるかもしれないが、私は「淡々」とは遠い場所にいるに違いない。とはいえ、イケダハヤトがツイートで紹介した次のような大学生に私もまた共感する。ソーシャルヒッピーって良いなと。

大学行くことを見送った19才の手記!生の声は良いですねー。ぜひ。ソーシャルヒッピーっていいなw 大学なんて行く必要ない -http://t.co/IDSKQKsV

私自身のことを記せば、私が就職したのは大学を卒業してからであり、学生時代に就活を一切しなかった。そんな昔を思い出した。この19歳のソーシャルヒッピーは現在イケダハヤトのもとで取材アシスタントやWeb開発の見習いをしているというが、イケダハヤトの度量がこんなところからもうかがえる。イケダハヤトとは何者か?ツイッターのプロフィールにはこうある。

86世代のブロガー。講演・執筆・コンサルティング。「テントセン」co-founderNPOの方向けに無償でソーシャルメディアの活用相談乗ってます。お気軽にご連絡ください。

講談社から『フェイスブック 私たちの生き方とビジネスはこう変わる』という本も上梓している。イケダハヤトの経歴について「パラレル支援サイトもんじゅ」のインタビュー記事をもとにいま少し詳しく述べてみようか。書き手として言うのであればイケダがデビューしたのは何と中学生のとき。イケダの運営するWeBサイトが月間1万ページビューを獲得するほどの人気を博し、これに目をつけた『ネットランナー』で連載を始めるのだ。もっとも、その後しばらくはネットから距離を置くようになる。大学を卒業し、大手半導体メーカーで広報の仕事を担当する。イケダ本人の弁によれば、そこで「語学力とWebの知識を買われてアメリカ支社と合同でソーシャルメディアの部署を立ち上げる」。2010年3月、ソーシャルメディアマーケティングコンサルティングを行うトライバルメディアハウスに転職。2011年4月にフリーエージェントに転身する。
ではイケダハヤトが実際にどのような才能なのか。「ikedahayato.blog」を読むのが手っ取り早い。

僕は上から目線の物言いが嫌いです。どんなに偉い人だろうが、上から目線な時点で95%「見限り」ます。
「上から目線」で人が動くと考えるのはもう時代遅れです。
工場制労働の時代は高圧的な態度でも人が動いたかも知れません。
新しいものを作り出すこと(創造性、クリエイティビティ)が重要になるこれからの時代は、高圧的なマネジメントは機能しないと考えます。
大義を共有し、弱みと強みを見抜き、権限を委譲し、人格を信頼し、遊ぶように働いてもらう、そういう環境を作ることが、これからのマネジメントだと僕は思います。
「上から目線」で動かせる範囲は、今後小さくなっていくでしょう。いずれ、誰も動かなくなります。創造的な仕事も生まれないでしょう。

マネジメントにおいて垂直軸ではなく水平軸を重視しようというイケダの考え方は理解できる。私も「上から目線」の物言いを嫌悪している。私は「人間関係は五分と五分」を基本にこれまでの人生を歩んで来た。「上から目線」で人が動くと考えるのは時代遅れになって欲しいとも思っている。しかし、社会は小さな権力に充ちており、そうは簡単に非権力の領域を拡大していくことはできないだろう。あらゆる関係に権力は胚胎し得る。断るまでもないが反権力もまた権力なのだ。しかも「上から目線」の狡猾さは水平軸を偽装することも厭うまい。「大義を共有し、弱みと強みを見抜き、権限を委譲し、人格を信頼し、遊ぶように働いてもらう、そういう環境を作る」マネジメントの裏側に「上から目線」が貼りついているという事態もあり得るはずだ。だから私は「上から目線」を「見限る」生き方に同意できても、「『上から目線』で動かせる範囲は、今後小さくなっていくでしょう」とまでは言えない。ただ、こうしたイケダの物言いに多くの賛同者がソーシャルメディアという新大陸に生まれるだろうし、それは良いことだと思う。

ライターという仕事をしていると、色々なフィードバックをいただきます。
時には、明らかにナンセンスな批判を貰うこともしばしばあります。
そういう場合、つい言い返したくなるのですが、「コロシアムには出ない」というポリシーを貫いているので、ぐっと飲み込みます(たまに飲み込めてないですが…)。
僕が誰かとソーシャルメディア上で口論を始めれば、それは一対一の戦いではなく、フォロワーや読者を巻き込んだコロシアム式の口論になってしまいます。
これは本質的ではありません。リアルタイムにヤジを飛ばされるため、感情的になりがちですし、「挑発者」の炎上マーケティングに加担する結果となり、こちらが得られるものは「失敗の記憶」がいいとこです(僕の経験上)。

要するに品位もなければ、知性もないといっただけの「悪意」には原則として応じるつもりはないと言っているわけだ。私などもダイアローグが成立しないケースに出会ったならば、躊躇わずブロック機能を使うことであろう。それを「コロシアムには出ない」という表現を選択するところがイケダハヤトの持ち味と言って良いだろう。「コロシアムには出ない」という思考を更に深めていくのであれば、それこそ「私は殺さない」という鶴見俊輔あたりのラジカルな非戦思想にさえ行き当たるのではあるまいか。

労働の全てをお金に変えるのはもったいない
最近、そんなことを思うようになっています。
お金だけを目的にすると、「お金にならない仕事」はそもそも手を出すことができません。
僕がやっているNPOソーシャルメディア活用支援は、なかなかお金にならないので、無償で働くことが前提です。でも、そうした活動を通して「恩」や「信頼」(と「楽しさ」)を得ることができます(ソーシャルキャピタルとも言うらしいです)。

イケダハヤトが関わっていると思しきデジタル経済は清水計宏が指摘していたように「『富者の経済』ではなく『貧者の経済』であり、富める者を生み出す力より、貧者を救い出す力にすぐれている。全体の視点ではなく、個の視点、上から目線ではなく、下から目線でないと、かえって自滅の道をたどることになる」のだ。それは「メディアになっているのは一人ひとりの個人であり、上から目線で利権を守ろうとする組織ではない」ソーシャルメディアが従来の資本主義の枠に収まらない(=資本の論理を貫徹できない)「共有」や「贈与」を基盤にしているからである。それを「労働の全てをお金に変えるのはもったいない」と言って見せるところがイケダハヤトの「芸」なのだ。イケダハヤトのポジティブ思考の根っこの部分である。ただし、というか、だからこそイケダハヤトがブログで書くように「ソーシャルウェブが浸透し、創作活動はローリスク、ハイリターンになった」とは思えない。むしろ大半の創作活動はローリスク、ノーリターンになっていくのではないだろうか。一握りのローリスク、ハイリターンの創作活動は別にして。
イケダハヤトに対する批判もソーシャルメディアに散見することができる。「mediologic」(http://mediologic.com/weblog/?p=2282#comments)など、その典型かもしれない。「mediologic」とイケダの関係は古いらしい。「mediologic」とイケダはイケダがトライバルメディアハウスに入る以前に出会っており、「mediologic」の記述に従えば、「mediologic」が関わっていたワークショップにイケダが参加していたこともあるらしく、「mediologic」はイケダのことを勉強家であると感心もしていたようだ。しかもイケダが半導体メーカーを辞めて就職したトライバルメディアハウスの社長・池田紀行とも昵懇であるようだ。そんな「mediologic」からすれば、イケダがブログで「入社数時間ですが、トライバルメディアハウスは間違いなく「日本のソーシャルメディアの企業利用」の最先端だと感じます。様々な学びを得ることができそうです」と書き、同社の社長もイケダに「ソーシャルメディアや、ソーシャルメディアマーケティングだけでなく、より広義のマーケティングコミュニケーションや、クライアント様における理想と現実などを鑑みながら、最適なソリューションを提供していけるような大人のマーケターになっていってもらいたいと願っています」とまで言われたにもかかわらず、1年で辞めてしまったことが許せないようなのだ。

正直に思うところを言うと、イケダハヤトという若者自身は逸材ではあると思います。しかしながら、やはり磨かれるべき部分はまだまだあると思っていて、それがないままに無責任なオトナたちによって神輿に担がれた結果、間違ったプライドがより助長されてしまったのではないでしょうか。

こうした「mediologic」の物言いこそイケダハヤトが言う「上から目線」であることに博報堂電通を経てグーグルに入社した「mediologic」こと高広伯彦は全く無自覚なのである。同時に彼はイケダハヤトほど自らの言説に責任を持っているかというと、私からすれば疑問符をつけざるを得ない。

彼は(一部の)大学生に人気のようですし、プレゼンも非常によいものをすると聞いています。
しかしながら、彼自身の発言には許されないもの、論理矛盾を起こし理解に苦しむものもあるのもまた事実で、それがとりわけTwitter上で「晒される」結果になるわけです。

私などからすると、いきなり「彼自身の発言には許されないもの、論理矛盾を起こし理解に苦しむものもあるのもまた事実」と言われても全く理解不能だ。どう許されないのか、イケダハヤトの言説のどこが論理矛盾を起こしているのかを説明して然るべきだろう。「mediologic」の文章は論理を欠いているのだ。言うまでもなかろうが、ブログは「私信」ではない。「mediologic」は誰でも読める形でブログの文章を発表している。レッキとしたメディアだ。メディアとして開かれている以上、公共性が問われていよう。イケダハヤトがどう許されないのか、イケダハヤトの言説のどこが論理矛盾を起こしているのかを説明しない限り、「彼自身の発言には許されないもの、論理矛盾を起こし理解に苦しむものもあるのもまた事実」とは書けないはずである。イケダハヤト的に言えば、こうした物言いこそ「言論テロ」(私の言葉で言えば「言論ゴロ」だが)というものだろう。これに対してイケダハヤトは「コロシアムには出ない」と言っているのだ。「mediologic」はイケダハヤトをハーメルンの笛吹き男になぞらえ「純粋な大学生含む若者たちを扇動するのはやめておいて欲しい」と忠告しているが、私からすれば次のようにブログで書くイケダハヤトには純粋な若者たちを大いに煽動してもらいたいところだ。

先日、「大きな仕事」って何だろうね、という雑談をする機会がありました。
僕が考える「大きな仕事」は、予算や会社規模の大小ではなく、「世の中をどれだけ変えたか」が基準になります。