毎日新聞の『私たちは原発のない日本をめざします』という意見広告に反対する

昨日、朝刊に掲出された「私たちは原発のない日本をめざします」という広告にとても違和感を覚えた。そこには「私たちは原発のない日本をめざします」という文字がデカデカと刷り込まれ、その巨大活字の合間を縫って賛同者の名前がズラリと記されているだけのものだった。赤坂憲雄に始まり、渡辺直己に終わる。こうした人びとで「意見広告を出す市民の会」は構成されているのだろう。
そういう意味で「私たち」が誰なのかはわかった。しかし、そこには「原発のない日本」をどのようにして目指すのかという意見は一行も書かれていない。その「綱領」を提示することなく、ただ「目指す」というのが、この「意見広告」の「意見」なのであろうか。これだけの名前を揃えながら「私たちは原発のない日本をめざします」というだけが意見だとすれば、「意見広告」としては羊頭狗肉というものだろう。そのために決して安くはない広告料金を払っている。この「意見広告」は、どのような役割を果たすのだろうか。
この広告の「表現」は「空気」や「雰囲気」を煽るだけのものでしかない。文化人としてそこそこ有名な名前を揃えることで、「原発のない日本」を是とする「空気」や「雰囲気」を煽り、「脱原発」なり、「反原発」の熱狂を生み出そうとしているのかもしれない。この手のプロパガンダを得意としたのは、例えばナチスゲッペルスがそうであった。わが国でも、かつて「鬼畜米英」などというコピーをもって民衆を熱狂させた過去が昭和という時代にはあった。
いや、それほど過去に遡ることもあるまい。政府(=国家権力)、東京電力、マスメディアが三位一体となったトライアングルを組み、巧みなプロパガンダをもって原発安全神話を流布して来たことはもはや周知の事実である。「私たちは原発のない日本をめざします」という意見広告もその手の情報発信と同じ構造を持っているように私には思える。
そこでは言葉が死んでいると思った。民衆の沈黙が無視されていると思った。しかし、そこに名前を連ねている賛同者の名前を見ると、言葉を稼業とするような連中ばかりではないか。こんな広告に加担していたのでは本業の言葉が痩せ細ったり、堕落したり、頽廃するとは微塵にも考えもしなかったのだろうか。言葉を稼業にしていながら、言葉ではなく有名に頼るとは、単なる売名とどこが違うのだろうか。
昨日の代々木公園の大江健三郎にしてもそうだが、この「意見広告」の賛同者も自分の「有名」をもって世界を変えられると信じている「壇上」主義者であるに違いない。私には民主主義(「間接」であれ、「直接」であれ)の一兵卒たることを予め拒否しているとしか思えないのだ。そもそも「壇上」に立つという発想自体が「民主主義的」であるというよりも「権力的」である。「マスメディア的」と言っても良いだろう。
毎日新聞というマスメディアに広告を出稿したから「マスメディア的」であると言っているのではない。「言いっぱなし」を是としているマスメディアの「交通」に忠実な広告だから「マスメディア的」だと言っている。
この「意見広告」が本当に顔を向けているのは誰なのか。彼らが顔を向けているのは「政府」でしかない。民主主義の一兵卒たる名もなき読者という名の「民衆」には顔を向けていない、読者は煽動するための対象でしかないのだ。この「意見広告」には自らの「政治」に「民衆」を道連れにしようという魂胆が透けて見える。
これはスターリニズムの亡霊が蘇った、記念すべき「意見広告」であるのかもしれない。それにしても残念でならないのは、ここに名前を連ねた賛同者の中には、私が常々尊敬している人の名前も見受けられることだ。3.11以後の日本において「言論」が退廃していることの証しであるのかもしれない。