昭和十五年(1940 )正月三が日、神武天皇を祭神とする橿原神宮には百二十五万人もの人々が参拝に訪れた。これは前年の約二十倍にあたる参拝者数である。こうして紀元二千六百年にあたる昭和十五年は明けたのである。しかし、紀元二千六百年とは言うものの、皇紀自体の歴史は、そう古いものではない。皇紀が定められたのは明治五年のこと。第一代天皇たる神武天皇の即位を記紀の記載から、西暦の紀元前660年と決め、その年を皇紀元年と定めたのである。ただし、それ以来、日本では西暦ではなく、皇紀を使用していたかといえば、必ずしも、そうではなかった。二月十一日の紀元節を別にすれば、新聞にしても通常は西暦を使用していたようだし、人々の日常の暮らしの局面からしても、元号や西暦のほうが馴染み深かったはずである。もっとも、この紀元二千六百年を期して、皇紀が大手を振って歩くようになる。NHKラジオからは国民奉祝歌と位置付けられた「紀元二千六百年」の明るいメロディーが繰り返し、繰り返し流されて、嫌がおうにも奉祝ムードを盛り上げる。歌詞は一般公募によって選ばれたという。
金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
あゝ 一億の胸はなる
歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年
あゝ肇國(ちょうこく)の雲青し
荒(すさ)ぶ世界に唯一つ ゆるがぬ御代に生立ちし
感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年
あゝ報國の血は勇む
潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて
世紀の文化また新た 紀元は二千六百年
あゝ燦爛(さんらん)のこの國威
正義凛(りん)たる旗の下 明朗アジヤうち建てん
力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
あゝ彌榮(いやさか)の日はのぼる
紀元二千六百年の記念式典は十一月十日に宮城外苑(皇居前広場)で開催され、十一月十四日まで人々をカーニバルの熱狂の渦に巻き込んでいったが、本来であれば、その日を迎えるまでに札幌で冬季オリンピックが、東京で万国博覧会と夏季オリンピックが開催されるはずであった。戦後、東京オリンピックは昭和三十九年(1964)に、万国博覧会は大阪で昭和四十五年(1970)に、札幌オリンピックは昭和四十七年(1972)に開催されたが、もともとは同じ年に開催されるはずだったのである。オリンピックや万博は国威発揚の場として政治的に利用されるものだが、この一事からしても、当時の政治が紀元二千六百年を重視していたかがうかがわれる。オリンピックや万博が中止になったのは、昭和十二年(1937)に日中戦争の戦端が切って落とされ、軍部も開催に反対したし、開催しても、参加ボイコットが数多く予想されたからである。 昭和十五年に開催予定であって万博の正式名称は「紀元2600年記念 日本万国博覧会」であり、会場は晴海(そう、勝鬨橋は万博のために造られた!)、テーマは「東西文化の融合」、会期は三月十五日〜八月三十一日を予定していたのであったが、実は、この幻の万博の亡霊は今も生きている。「愛・地球博」が名古屋で開催されたのは2005年のことだが、この「愛・地球博」では、昭和十五年に開催予定だった万博の前売り回数入場券が何と使えたのである。厳密に言えば、戦前に十円で百万冊発売された十二枚綴りの前売り回数入場券と「愛・地球博」の入場券を交換できたのである。実は、昭和四十五年の大阪万博でも同じ措置が取られている。万博の歴史に関しては(そして、数多のディテールの歴史からすれば)、昭和二十年(1945)年八月十五日に歴史の切断線を安易に引くことは、相当ナイーブな間違いなのである。
万博やオリンピックは開催中止になったが、十一月十日、午前十一時十分に紀元二千六百年の記念式典は開催された。宮城外苑には左右の長さが51.3メートル、高さが8.5メートル、奥行が13.5メートルという堂々たる規模で「壮重典雅なる」仮宮殿が入母屋造で建てられていた。この仮宮殿の前に五万五千人を収容できる参列席が用意されていた。当日の式次第は次のようなものである。
一、整列(式典中全員起立) 参列者一同
一、天皇皇后両陛下出御
奏楽「君が代」陸軍軍楽隊 海軍軍楽隊
一、勅語を賜ふ
一、寿詞奏上 内閣総理大臣
一、紀元二千六百年頌歌斉唱
東京音楽学校生徒 陸軍軍楽隊 海軍軍楽隊
一、万歳奉唱「三声」 参列者一同
一、諸員最敬礼
一、天皇皇后両陛下入御
奏楽「君が代」 陸軍軍楽隊 海軍軍楽隊
一、 散会
三十五分程度の式典であったが、一般参列者の大半は、「勅語を賜ふ」という形で、初めて天皇の「肉声」に触れる。それまで天皇は国民に直接、声をかけるということは全くなかったのである。当時、『三国志』が話題となっていた吉川英治は、その圧倒的な感動をこう記している。
「畏れおほいことながら、陛下の玉音は、御力に満給うて、御ゆたかなその御声量は、われわれ列末の布衣に至るまで、ありありと耳朶に拝することができた。感泣とは、かかるせつなの崇高なたましひの内面的な躍動であらうか、わたくしはわが身ともなく熱いものが、眦から流れさうでならなかった」
もちろん、「玉音」を聞いたのは選ばれた人々に過ぎなかった。何しろ、日本の人口は一億人に達していたのである。昭和天皇は翌日の奉祝会でも「勅語を賜ふ」ことになるが、両日あわせて約十万人が天皇の「肉声」に触れたに過ぎないのである。国民の大多数が「玉音」に触れるのは八月十五日の敗戦を迎えてのことである。実は、この記念式典はラジオ放送されたが、「玉音」の部分はカットされた。国民が聞いたのは、万歳「三声」であった。ラジオから近衛文麿首相の万歳が流れると、これに呼応するように全国中に万歳の嵐が巻き起こり、これがカーニバルの熱狂の合図となった。神輿太鼓が繰り出す。旗行列に、音楽行列。電飾でおおわれた花電車が市中を走る。夜の提灯行列には六万人の届出があったという。警視庁の発表によれば街頭で奉祝活動を行った東京市民は三十万人、見物のため東京に入った国民は二百五十万人に及んだという。翌十一月十一日には午後二時五分より、宮城外苑では奉祝会が五万人を集めて行われたが、午後三時に終わると、前日同様の大騒ぎとなった。しかも、この日は午後六時から宮城外苑が一般に開放され、提灯行列は宮城外苑に押しかけることとなった。こうした「一億一心」の乱痴気騒ぎは十一月十四日まで続く。
こうした爆発的な熱狂の撃鉄になったのは、時代の重苦しい空気に他ならなかった。しかも重苦しい空気の濃度は増すばかりであった。経済統制が強まったし、娯楽や遊び、そして「笑い」には欠かせない「不真面目さ」や「洒落」も徐々に排除されていった。人々は不安を抱えていた。国家の掲げる「正義」が鋭角的に進行することに対する不安であったと思う。その不安の反動としての度を越した熱狂。そうしたなか紀元二千六百年の一大イベントが開催されたのである。人々は不安を解消するためにこの国家によって準備された熱狂の磁場に積極的に身を投じて、連日の乱痴気騒ぎの果てに我(=「不安」)を忘れていったのである。昭和十二年の盧溝橋事件に端を発する日中戦争は南京を陥落させたものの泥沼化するばかりであった。日本は中国での戦争に勝利し続けていたが、「英霊」の数は増える一方であったし、「聖戦」と位置付けていたにもかかわらず、「終戦」への展望を見出せないでいた。アメリカとイギリスに支援された蒋介石の国民党政権は拠点を重慶に移して、抵抗を続けていた。当然のことながらアメリカ、イギリスとの摩擦は激化する一方であった。前年の七月二十六日にはアメリカから日米通商航海条約の破棄通告がなされたが、実際に失効したのは紀元二千六百年の昭和十五年一月十六日のことである。何よりも石油をアメリカに依存していた日本に対し、ルーズベルト大統領が日本への石油や屑鉄の輸出を政府の許可制にしてしまったし、八月からは航空機用ガソリンの禁輸に踏み切ったことは衝撃的であった。この措置は当時の支配層からすれば国家としての「自存」を脅かすような一大事であったはずだし、民衆からすれば日々の生活の「自存」を脅かしかねない一大事であったのである。ところで、アメリカは日本にとって輸出相手国でもあった。例えばアメリカのストッキング市場を独占していたのは日本の絹製品であったというように。しかし、アメリカでは、五月十六日にナイロン製のストッキングが発売され、あっという間に絹製はナイロン製に王座を明け渡すことになる。そもそもアメリカは日本なしに「自存」できるが、日本はアメリカなしには「自存」できなかったのである。そうした経済的な真実を忘れてアメリカを「敵」としてしまったのである。
アメリカとの関係の悪化は、あらゆる局面に及んだ。米が配給制に移行し、続いてマッチや砂糖も配給制となる。三月二十八日には内務省が芸能人やスポーツ選手に対して、外国人を真似したり、不真面目で奇を衒った芸名に対して「粛名」が申し渡された。かくしてディック・ミネは三根耕一に、藤原釜足は藤原鶏太に、スタルヒンは須田博に改名した。改名を迫られたのは芸能人ばかりではない。十月になると煙草も改名されることになり、「ゴールデンバット」は「金鵄」に、「チェリー」は「桜」に改められることになったし、外来語の多くは敵性言語のレッテルが貼られ、改名が迫られることになる。七月一日には奢侈品製造販売制限規則が施行され、八月一日には東京の食堂、料理店で米食使用が禁止され、販売時間も制限されるようになる。同日、「ぜいたくは敵だ!」の立て看板千五百枚が東京市内に設置される。新劇を担っていた新協劇団、新築地劇団が強制解散させられたのも、八月のことである。九月に入ると食糧や生活必需品の配給を行う隣組が組織されたが、隣組は国民による国民の監視機関でもあった。国民服が奨励され、「パーマネントはやめませう」運動が盛り上がり、十月末にはダンスホールが閉鎖された。アメリカやイギリスが文化面においてはっきりと「敵」=「頽廃」として認識され、「敵」に対抗するための国粋主義が鼓舞されていったのである。
明治維新において「攘夷派」が紛れもなく「革新派」であったように、この当時、「反米英派」であることが「革新派」の立場を保証した。まさに歴史は繰り返そうとしていたのである。厳密には「米英派」とは言い切れないにしても、「現状維持派」であることによって「反三国同盟派」の米内政光内閣は二進も三進もいかなくなり、「東亜新秩序」を掲げる近衛文麿の出番となった。近衛は六月に枢密院議長を辞任して新体制運動に乗り出すと声明していたこともあって、大衆的な人気を国民から獲得していた。近衛内閣は七月二十二日に発足する。菊池寛も『文藝春秋』の連載「話の屑籠」で近衛文麿に対して、次のように期待を寄せている。
「近衛さん中心の新党あるいは新体制組織がまさに実現しかけている。事変以来、事変中にもかかわらず、政治ことに外交方面における内訌対立の噂が、しばしば我々の耳にも伝わって来ている。この新体制の成立によって国家の諸方針が確然として統一され、あらゆる抗争対立が無くなることは、国民として欣ばしいことである。この新体制が、単に各政党の合併というのではなく、国民の各層、もしくはあらゆる職能の代表者を集めることによって成立するのならば、われわれ文壇人も進んで参加したいと思っている」
昭和十四年にナチスドイツがポーランドに侵攻すると、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告することで第二次世界大戦が始まったが、暫らく膠着状態が続いた後、ドイツは昭和十五年五月から快進撃を続け、あっという間にフランスを占領してしまう。「バスに乗り遅れるな」とは、当時の流行語だが、日本軍はフランス領インドシナ(ベトナム)に進駐を開始し、九月二十七日に三国同盟を締結し、十月十二日、大政翼賛会が結成され、既成政党は解散して吸収される。近衛にしてみれば、日本、ドイツ、イタリアの三国にソ連を加えた四国同盟が米英に対抗することで米英との戦争を回避できるのではないかと考えていたのかも知れないが、近衛が実現した「新体制」は戦争が政治を管理する基盤を整えることになったのである。若き日にマルクス主義者の河上肇に学ぶために東京帝国大学から京都大学に転学したという過去を持つ近衛の発表した「大東亜共栄圏」構想は、近衛の個人的な意思を踏み潰して、紀元二六〇〇年の熱狂へと至る過程で「戦争」の論理に飲み込まれてゆくことになる。「政治」の延長に「戦争」があるのではなく、「戦争」の部分としてしか機能しない「政治」へと邁進してしまうのだ。
十一月十五日、街中に貼られたポスターには、こうあった。
「祝ひは終った さあ働かう!」
何のために働くのか。米英との「総力戦」に勝利するためだ。ここに神がかり的な熱狂を共有できる「一億一心」の「総力戦」体制が確立する。
こうしたなか三角寛はサンカ小説から撤退することになる。最後のサンカ小説は『オール讀物』の昭和十五年十一月号に掲載された「箕つくり兵士」である。紀元二千六百年の熱狂を隠れ蓑のようにして三角寛はサンカ小説とともに文壇を静かに去ることで昭和十六年(1941)の開戦を迎えたのである。『オール讀物』はサンカ小説家の誕生とサンカ小説の終焉をともに見届けたことになる。