朝日新聞の世論調査 もし私が回答者に選ばれたならば・・・
朝日新聞が電話による全国定例世論調査を3月10、11日の両日に実施し、その結果を13日付の朝刊で発表した。一面に踊った見出しは「原発再開『反対』57% 安全対策『信頼せず』80%」。この手の世論調査はどの新聞、テレビ、通信社でも実施しているが、私の場合、くじ運の極端にない人生を生きてきたためか、この手の調査のサンプルに一度も選ばれたことはない。そこで、七面に質問と回答の結果が掲載されているので、もし私であればどう答えたかを原発がらみの質問に限って考えてみようと思った。
「原子力発電を段階的に減らし、将来はやめることに賛成ですか。反対ですか。」
調査の結果は賛成が70%、反対が17%。私も「賛成」と答える。恐らく原発推進派の大半も賛成と答えるのではないか。そもそも原発推進派にしても原子力を未来永劫のエネルギーだとは考えていない。原発推進派にしても原子力は過渡期のエネルギーと位置づけているわけだから、段階的に減らし、将来はやめることに賛成なのである。ただ、原発推進派は現状において原発を更に増やさざるを得ず、段階的に原発を減らすことができるのは、まだ先のことであり、原発をやめる将来はもっと先のことであるという認識だろう。私にしても日本にある54機の原発を明日にでも止められるかのように煽動する「反原発」には加担したくない。この手の「反原発」イデオロギーにどうしても違和感を抱かざるを得ないのは、科学を全く無視しているからだ。科学として語らなければならない問題までも、自らが理想とする政治を実現するための材料としてしか扱おうとしない極端な視野狭窄には反吐が出るくらいである。いずれにしても「段階的に減らし、将来はやめる」にしても、その具体的な工程を代替エネルギーの問題も含めて、どのように考えるかである。ただ核燃料サイクルに関しては即刻中止すべきだと思っている。何故かと言えば私は日本の核武装に反対するからである。プルトニウムを抽出する核燃料サイクルは科学として、その「余地」を残しているのだから。平和ボケ(憲法9条ボケ)した連中にはわからないだろうが、日本は世界からは潜在的核保有国(核保有可能国)として見られているはずだ。軍事の観点からすれば日本は充分に危ない国なのである。だからアメリカは日本の核(=原子力)をコントロールしているということだ。もし核燃料サイクルを継続し、対米自立を図ったらどうなるか。イランを見よ!
「定期検査で停止中の原子力発電所の運転を再開することに賛成ですか。反対ですか。」
これは答え辛い質問である。調査の結果は賛成が27%、反対が57%であり、この結果を朝日新聞は一面にデカデカと掲げたわけだが、私も今の時点で言えば「反対」ということにはなる。しぶしぶではあっても「賛成」に転化し得る「反対」である。そのような「反対」も含めて「57%」なのだ。つまり、この「57%」は条件次第では30%にも、20%にもなり得るはずだ。新聞やテレビなどで盛んに報じられているのは大飯原発3、4号機の再稼動問題。今日の段階で言うならば、原子力安全・保安院がストレステストの一次評価について妥当とした審査書を原子力安全委員会が大筋で了承したことにより、野田首相をはじめとした関係閣僚が政治判断で再稼動が決められることになった。その一方で4月1日に予定されていた原子力規制庁の発足が遅れる見通しにもなった。大飯原発にせよ、どこの原発にせよ、定期検査に入っている原発の再稼動は原子力規制庁が発足し、現在、原子力安全・保安院が検討中とされている30項目からなる、新たな安全基準の導入を待ってからでも遅くはないのではないか。そのくらい政府や電力会社に対する信用は福島第一原発の過酷事故によって地に堕ちているはずだ。しかし、政府には原発54基の総てが稼動を停止する事態を何としても避けたいという焦りがあって、事を急いでいるようにしか思えないのである。今日の東京新聞に長谷川幸洋が指摘するように現状は「先に結論ありき。一見、慎重に検討するふりを装いながら、実は結論はとっくに決まっている。そんな日本政治の悪弊が、またもや原発再稼動問題で繰り返されようとしている」と書いていたが、全くその通りである。拙速や安易を戒めることが原発再稼動への近道であると考えることが「保守政治家」としての王道なのではないだろうか。野田首相は再稼動という実績を作り「57%」の反対を切り崩そうというハラなのかもしれないが、政府が拙速や安易に走ったと判断されれば「反対」から「賛成」に回る可能性を持った人々を「反対」に留め置くことにもなりかねないはずだし、「反対」という感情の温度を激しく高めることにもなりかねないはずである。
「原子力発電所の運転停止による経済への影響をどの程度心配していますか」
「大いに心配している」が20%、「ある程度心配している」が55%、「あまり心配していない」が19%、「まったく心配していない」が4%か。私も問われれば「ある程度心配している」と答えるだろう。「まったく心配していない」と答えた4%が54基の原発の即時廃棄を求める人々と重なり合うに違いない。逆に言えば反原発イデオロギーが浸透しているのは4%程度の水準だということである。「あまり心配していない」の19%を含めた24%が「脱原発」世論の中核をなす部分である。原発推進派にとっては「75%」もの人々が原発の運転停止が経済に与える影響を心配しているという現実は心強いに違いない。そうした心配を更に煽るような情報発信をすれば、原発の必要性を認識し、再稼動も容認するはずだと中央の「原子力ムラ」の住人は考えるに違いない。原発を段階的に減らし、将来はやめることに賛成と回答した70%の人々にとって、原発を段階的に減らすペースとは、原発を減らすことが経済に悪影響を与えない程度にということにもなるだろう。ちなみに核燃料サイクルの即時中止は経済には全く悪影響を与えまい。
「いま、原子力発電に対する政府の安全対策をどの程度信頼してますか。」
「大いに信頼している」が2%、「ある程度信頼している」が17%、「あまり信頼していない」が52%、「まったく信頼していない」が28%であり、私の場合は迷わず「まったく信頼していない」と回答する。「あまり信頼していない」と「まったく信頼していない」を合わせれば80%にも及ぶことになる。何故、政府の原子力発電に対する安全対策を信頼できないかといえば、その理由はいたって簡単である。「民主・自主・公開」という原子力三原則をいとも簡単に踏みにじり、事故にかかわる情報を隠蔽しつづけたからである。何しろ官邸は議事録すら残していなかった。これは政府が予め責任を放棄していたことと殆ど同義のはずである。大東亜戦争の敗戦に際しても、自ら戦争責任(敗戦責任を含めて)を問おうとせず、「1億総懺悔」を言い出し、やがては東京裁判という形で戦勝国に丸投げして済ましてしまった政治文化は一向に改善されることなく今日に至ってしまったのである。丸山真男が指摘した「無責任の体系」は日本軍国主義の宿痾にとどまらず、戦後民主主義によっても遂に克服されなかったということである。わが国の政治体制が民主主義であると否にかかわらず、「無責任の体系」は命脈を保ってきたのである。特に福島第一原発の過酷事故で許しがたいのは「政」「官」「学」「報」が一体となって構成されていると思しき原子力ムラが中心となって「無責任の体系」を政治のみならず、科学や経済、マスメディアの領域にまで持ち込んだことである。政治も無責任、科学も無責任、経済も無責任、報道も無責任という「低国」ぶりを福島第一原発が露呈させてしまったのである。この世論調査に「東日本大震災以後、新聞やテレビの報道をどの程度信頼していますか」という質問を入れたならば、どういう結果になっていただろうか。それにしても国民がこれだけ政府を信頼していなくて、よくもまあ無政府状態を回避しているものよ!
「東京電力は、原子力発電所の運転停止による燃料費の増加を理由にして、家庭用の電気料金の値上げを検討しています。この値上げに納得できますか」
「納得できる」が17%、「納得できない」が79%という結果であり、私も「納得できない」に一票を投じる。私は「原子力発電所の運転停止」や福島第一原発過酷事故の損害賠償で、いずれ電気料金の値上げがあっても仕方ないとは思っている。しかし、過酷事故の責任に対する検証に誠意のカケラもみられず、勝俣会長に至っては経営責任を取ることもなく、事故後も最高実力者として東京電力に君臨しつづけているのである。また、同社のリストラ計画にしても一般企業の常識からすれば甘過ぎるのではないだろうか。これで家庭用の電気料金の値上げを飲めとは、ちょっと虫が良すぎはしないだろうか。電気料金を値上げする以前に経営トップを変えるのはもちろんのことだが、東京電力を何らかの形に「再編」すべきなのではないだろうか。消費税問題にしても順番を違えているから、抜本的に変えることができないのである。