光星学院の甲子園敗北と猫ひろしのオリンピック出場

選抜高校野球大阪桐蔭が青森の光星学院を破り優勝した。春の大会でもそうだが、高校野球ほど地域ナショナリズムを煽るスポーツは他に存在しないのではないだろうか。かくいう私も千葉の代表が出ていれば応援するし、負ければ口惜しい思いにかられる。しかし、そんな高校野球にも様々な「裏」がある。日本学生野球憲章には「学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする」などといった様々なキレイな文言が並ぶが、そんな文言と相容れない様々な「裏」がある。誰もが薄々気がついていることだ。
4月3日付の東京新聞こちら特報部」で知ったことだが、準々決勝の愛工大名電選で殊勲打を放った光星学院の選手が「最後の打席は『必死のパッチ』でいきました」と試合後、コメントしたというのだ。「必死のパッチ」は関西で特有の言い回し。青森はもちろん関東でも殆ど使われない一所懸命の最上級を意味する言葉である。語源に関しては諸説あるが、数字の「7」(しち)を「必死」と読み、その上をいくから「パッチ」=「はち」ということらしい。当然、「必死のパッチ」ともらした選手は大阪の出身。しかし、両親が青森に転勤したから光星学院に入学したわけではなく、光星学院野球留学をしている生徒である。別にこの選手だけが特別ではなく、光星学院が甲子園の常連校になったのは、大阪出身者を中心に野球留学生を募った結果である。
こうした野球留学生中心のチーム編成は何も光星学院に限ったことではなく、甲子園の常連校にとっては勝つための常識となりつつある。多くの高校野球ファンは私にしてもそうだが、高校野球に様々な「裏」があることは知りながら、それでも地元のチームを応援する。そういう意味では高校野球プロ野球やJリーグと同じである。ソフトバンクは九州のチームだが、別に九州出身者ばかりで成立していないし、Jリーグは地域に根ざしたスポーツ文化を醸成しつつあるが、選手の出身地は多様である。そういう文脈で高校野球を考えるならば、ファンが選手の出身地に「純粋さ」を求めないという意味ではプロ化しているということなのかもしれない。高校野球を百倍楽しむためには変な情緒を持ち込まないことが一番なのである。
にもかかわらず新聞やテレビの高校野球にかかわる報道は相も変わらずだ情緒に偏向しているし、事大主義的な地域ナショナリズムをこれでもかとばかりに煽っている。その一方で新聞の社会面などは高校野球の「裏」を認めていないのである。記者は「裏」があることを知りつつ、高校野球をある種のピューリタニズムの鋳型に嵌め込んで報道する。「裏」を平気で隠蔽してしまうのだ。4月5日付朝日新聞の社会面の見出しなどもその典型であろう。決勝戦で敗れた光星学院を取り上げて、曰く「被災地に優勝旗 夏こそ」だもんな。言うまでもなく夏の甲子園朝日新聞の主催。被災地を利用して夏を早くもアピールしているというわれだ。こんな見出しを平然とつけられる新聞に読売巨人軍の巨額契約金問題を批判する権利があるのだろうか。私はないと思う。
さすがに記事では「チームも他県の出身者が多い」と断ってはいるが、続けて「だが、地元・八戸市の人たちは地元出身者ばかりではなくとも、勝ち進むたびに喜んでくれた」と書いてしまう神経が私には信じられない。「地元出身者ばかりではなくとも」ではなく、「選手の大半が他県出身者であっても」と書くのがここは正しいのではないのだろうか。だからこそ決勝戦で五回あまりを二失点に抑えた投手が八戸市出身であることに価値があるというものだろう。朝日新聞の価値観は逆立しているのだ。
それにしても朝日新聞はこの地元出身の投手を紹介するに際して、わざわざ「津波で家を流された友人もいる」と書いているが、こういう表現こそ被災者をバカにしたものだということに気がつかないのだろうか。これもまた「朝日流」と言うべきなのであろう。
光星学院は被災地の星として称揚され、ロンドンオリンピックのマラソンカンボジア代表となった猫ひろしに対してはカンボジア国籍を取得しての出場に対して異論をはさみ、更には猫ひろしがお笑い芸人であることをもって「選手による自身の競技パフォーマンスの宣伝目的使用」を明確に禁止する「五輪憲章」違反ではないかと批判する。猫ひろしカンボジア国籍を取得してのオリンピック挑戦と大阪をはじめ他県から野球留学で甲子園出場を目指した光星学院の生徒たちのどこに変わりがあるのだろうか。
確かに猫ひろしはオリンピックに出場するために国籍を「便宜的に変更」したのかもしれない。しかし、光星学院の他県出身の選手にしても甲子園に出場するために便宜的に青森県を選んだのではなかったのか。しかも、人生の選択として考えるのであれば「県境」を越えるよりも「国境」を超えることのほうが遥かに重い決断であるはずだが、猫ひろしという芸人は「国家」という枠組を楽々と超えてしまったのである。言わばオリンピックにつきまとうナショナリズムの影を断ち切ってしまったのである。猫ひろしの挑戦は本人が意識していると否にかかわらず、日本の金メダル数がいくつで、それは世界何位になるのかというマスメディアの定番でもあるオリンピック報道に対する「抵抗」でもあるのだ。もちろん、猫ひろしカンボジア国籍を取得してまでオリンピックにこだわるのは、そこには「裏」があるであろうことは予測できる。どこかのテレビ局と組んで猫ひろしのオリンピック出場にかかめる過程と結果を感動的に放送する番組の企画があっても少しもおかしくあるまい。「選手による自身の競技パフォーマンスの宣伝目的使用」を禁止するとして「五輪憲章」に抵触するような「裏」を承知で、「裏」そのものをエンターティメントとして面白がるのもまた一興というものである。そう「裏」が見えるかどうかが重要なのである。「裏」の存在そのものが問題ではなく、「裏」が可視化されているかどうかなのである。「裏」が可視化されていれば人は「裏」をも楽しめるのだ。地元選手がいなくとも八戸の人たちは光星学院を応援できるのだ。それでも清く正しく美しい青春譜を偽装することをやめない高校野球の周辺に巣食う大人たちの論理よりも、猫ひろしのオリンピック出場のほうが「裏」の可視化が進んでいるとさえ言っても良いのではないだろうか。