朝日新聞の社説「消費増税と政治―言い訳やめて、本質論を」に異論あり

4月6日付朝日新聞の社説「消費増税と政治―言い訳やめて、本質論を」に応えて言うことにしよう。
私も増税は必要だと思う。しかし、消費増税だけに邁進する政治やそれに加担する言論には反吐が出る。野田佳彦朝日新聞の社説に反吐が出るということだ。原発の再稼動問題にしても、瓦礫の処理問題にしても同じである。政治や言論にとって欠かせないのは「まずは」だと考えるからだ。結果や結論が同じであれば何でも良しとする、つまり「まずは」を無視して暴走する政治や言論はファシズムスターリニズムの亜種であると言うべきだ。「まずは」は曲者でもなんでもない。
問われるべきは過程なのだ。開かれた過程にこそ民主主義の真髄が宿るはずである。特に間接民主主義にあっては選挙の結果を暴走させないために過程が担保されているというへきだろう。むろん過程を担うのは国権の最高機関であるとされる国会である。国家権力の源泉を暴力装置を独占することであるとすれば、国権の最高機関を内閣と考えることができ、実態的にいえば内閣が国権の最高機関なのだが、それでも国権の最高機関を理念的には国会に措定しているのはこのためであると私は考えている。
過程が選挙の結果を踏まえた議論であることは言を待たないが、過程はまた順番であり、手順でもあり、手続きでもある。野田佳彦はここにおいて大きな、取り返しのつかないような間違えを消費増税においても、原発の再稼動にしても、瓦礫の処理問題にしても犯してしまったというべきだろう。「まずは」を吹っ飛ばして、結論ありきの、いわば「主権在官」のアプローチに国民は怒り心頭なのである。
もっともわかりやすいのが消費増税である。ここで最初に確認すべきは消費増税民主党のマニュフェストには書き込まれていなかったということだ。そのマニュフェストで衆議院選挙で大勝し、政権交代が実現し、鳩山由紀夫が首相の座に就いたわけだが、鳩山は首相として民主党政権の4年間は消費増税をしないと公言してはばからなかった。野田にしても選挙区では首相に就任する前は同じような発言をしていたのではなかったか。
だとすれば、「まずは」野田佳彦は自らの「転向」を率直に認めて国会を通じて国民に詫びなければなるまい。消費増税に政治生命をかけるなどと格好をつけるよりも、詫びることから始めなければならなかったはずだ。国民に詫びることもまたリーダーシップなのである。野田佳彦は様々な「まずは」を無視してしまった。朝日新聞の社説にしてもまた然り。社説「消費増税と政治―言い訳やめて、本質論を」は言う。

民主党でよく聞く「まずは」は、むだ削減とデフレ脱却だ。
小沢一郎元代表らも、いずれ増税が必要なことは否定しない。だが、なぜいまなのか。その前にやることがあると、時期と順番に異を唱えている。
確かに、野田政権のむだ削減の努力は、まったく足りない。新幹線などの大型公共事業を次々に認める。議員歳費の削減すらまだできない。こんな姿勢で増税を求めるのは許し難い。
だが、一方では残念ながら、行革で削れる金額は桁が違う。今年度に新たに発行する国債は44兆円。たとえ民主党が公約した16兆8千億円のむだ削減ができても、借金財政のままだ。
デフレ脱却は一朝一夕には進まない。財政出動や金融緩和で、当面の景気刺激はできるかもしれない。だが、それでも経済の不調の主要因である少子化、高齢化は止まらない。根本からの解決策にはほど遠い。

朝日の社説は「野田政権のむだ削減の努力は、まったく足りない。新幹線などの大型公共事業を次々に認める。議員歳費の削減すらまだできない。こんな姿勢で増税を求めるのは許し難い」と認めながらも、「行革で削れる金額は桁が違う。今年度に新たに発行する国債は44兆円。たとえ民主党が公約した16兆8千億円のむだ削減ができても、借金財政のまま」だし、デフレ脱却と言っても「経済の不調の主要因である少子化、高齢化は止まらない。根本からの解決策にはほど遠い」のだから、消費増税を早急に実行して、消費増税を「高齢社会に対応して、所得などの再分配の制度を根幹から作り直す」入り口にしようと主張している。
確かにこの社説の主張するように、また大阪市長橋下徹が指摘するように「いまや日本のリスクは、『決められない政治』」にあることは間違いあるまい。しかし、「決められない政治」の本質が消費増税を決められないことにあるのではない。この点において朝日新聞の社説は逆立している。橋下が大阪で圧倒的な支持を獲得し、国政においても待望論が沸きあがっているのは市長選で公約した「まずは」を片っ端から実行し、「決められない政治」から決別しようというところにあるのではないか。私は橋下のイデオロギーは共有できないが、そのプラグマティックな方法論は評価している。
ちなみに民主党で言えば「まずは」はマニュフェストにあたる。民主党が公約した16兆8千億円のむだ削減ができても、借金財政を解消するには何の役にもたたないとしても、これを「まずは」実現することなしに、なし崩し的に応急措置でしかないような消費増税を強行することは「決められない政治」を更に深刻化させるだけなのである。過程、順番、手順、手続きを無視することは民主主義の死を意味する。首相にして民主党の代表である野田佳彦は消費増税案の党内論議で採決すらしていないことは象徴的である。ここでも野田佳彦は民主主義の手順を踏み忘れているのだ。そうした現状を踏まえるのであれば、消費増税が「高齢社会に対応して、所得などの再分配の制度を根幹から作り直すこと」の入り口になるとは思えないのだ。私は朝日新聞の主張とは違って、選挙民として、その点を危惧する。ここまで公約=マニュフェストを反古にする政権に私たちの未来を託すわけにはいかないのだ。
「まずは」を実現することは朝日新聞の言うような「増税先送りの言い訳のような段取り論」ではなく、民主主義の本質論なのだ。政治は「まずは」という部分にこそ民衆の切実な心情が反映していると考えるべきなのだ。「まずは」を些事とするような言論が民主主義と相容れないのは言うまでもなかろう。「有権者の審判は消費増税を決めたあとに仰げばいい。民主党の公約違反の責任はそのときにとってもらおう」という朝日新聞の社説の主張ほど総選挙で民主党候補に投じた一票を愚弄した発言はないのである。一票とは国民にとってわが国の議会制民主主義における主権行使の唯一の手段なのだから。
蛇足ながら橋下徹朝日新聞を比較して、どちらが民主主義的かといえば、私は間違いなく橋下徹に軍配をあげるだろう。例によって朝日新聞の社説は「公平で持続可能な社会をつくるための制度を、増税法案とともに論ずべきだ」とキレイ事を言って終わるが野田政権に公平で持続可能な社会をつくるための制度を、増税法案とともに論じようという気配など微塵にもないではないか。それとも朝日新聞が政局にかまけて報道していないだけなのだろうか。朝日新聞が馬脚を露にした瞬間である。