沖縄「本土」復帰の本質は第4の「琉球処分」

私には6月21日で卆寿を迎える親父がいる。「卆」という漢字を分解すると「九十」。大正生まれである。赤紙も受け取った。幸いにして「内地」勤務であったために死なずに済んだと言っていた。刑務所で刑務官を務めていたことが良かったらしい。しかし、戦争が終わると刑務官の仕事には戻らなかった。
親父は一度だけパスポートを利用した旅に出たことがある。1㌦360円の時代だが、両替したドル札を小さい私に自慢げに見せてくれた記憶がある。旅行から帰って来た親父がつぶやいた言葉が脳裏に焼きついている。
「沖縄はやっぱり外国なんだね。クルマは右側を走っているし、ステーキが旨かったし、な」
親父の行き先は返還前の沖縄であった。アメリカの統治下にあった沖縄である。あれから40年以上が経つ。昨日、沖縄は復帰40周年を迎えたのだから。沖縄返還に向けての日米交渉は1970年1月に開始され、翌年6月17日に沖縄返還協定が調印され、1972年5月15日に発効し、沖縄は「県」として日本に復帰する。

40年もともに過ごせば、お互いの気持ちや痛みをわかりあえるものだ。しかし、きょう復帰40年を迎えた沖縄と本土との関係は、そうなっていない。

朝日新聞の5月15日付社説「沖縄復帰40年―まだそこにある不条理」はこう書き出されている。復帰四十年を迎えてもなお本土と沖縄はお互いの気持ちや痛みをわかりあっていないということなのだろうが、「お互い」などと書くのは本土の不遜ではないのか。「本土」が沖縄の痛みや気持ちを40年経ってなおわかっていない。そうはっきりと書くべきではないのだろうか。沖縄タイムスの5月15日付社説「[復帰40年]普天間を解決する時だ」にはこうあった。

1965年8月19日、佐藤栄作首相は現職の総理大臣として戦後初めて沖縄を訪れた。那覇空港での歓迎式典で、沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本の戦後は終わらない、との歴史的メッセージを発した佐藤氏は、こうも語っている。
「私たち国民は沖縄90万のみなさんのことを片時も忘れたことはありません」
のちに行政主席、県知事となる屋良朝苗氏は日記に記している。「総理を迎えた時は正直言ってさすが涙が出た」
復帰が実現したのはその日から7年後のことである。

しかし、復帰後に東京と沖縄で開かれた記念式典で佐藤首相と屋良県知事の表情は対照的であったそうだ。東京の式典では佐藤栄作が「高揚感に満ちあふれた表情で万歳を三唱した」のに対し、沖縄の式典で屋良朝苗は硬い表情で次のように語ったという。

「復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望がいれられたとはいえないことも事実であります」

屋良朝苗の発言は沖縄が悲願とした本土復帰であったが、裏切られた本土復帰になりかねないことを危惧してのものであったろう。そして、沖縄は実際に裏切られる。裏切られつづけ今日に至る。
実は今年は琉球処分140周年でもある。鹿児島を通じて明治維新政府から入朝を促されたこともあって、1872年(明治5)、琉球王国は慶賀使の要請と受け止め使節を派遣する。しかし、そこで政府は「尚泰藩王となし、叙して華族に列す」と宣告する。これが「琉球処分」のはじまりである。1879年(明治12)3月、明治政府は武力を背景に琉球藩を廃し、沖縄県を設置する廃藩置県を通達する。19代410年続いた第二尚氏がここに滅び、察度王統から数えると500年以上も続いた琉球王国は日本に完全に併合されてしまったのである。沖縄は近代日本にとって最初に手にした植民地であったのである。そもそも沖縄は日本にとって外国であったのである。毎日新聞の5月15日付社説「沖縄本土復帰40年 『差別』の声に向き合う」は、そうした歴史を踏まえては、いた。

沖縄は、「本土による差別」を、過去4回経験したといわれる。
1872年の琉球王国強制廃止・琉球藩設置に始まり、7年後の沖縄県設置で琉球を近代日本に組み入れた「琉球処分」、本土決戦に向けた「時間稼ぎ」作戦で住民9万4000人を含む18万8000人が犠牲となった1945年の地上戦、沖縄などを本土から切り離し、米国統治下に置くことを認めた52年のサンフランシスコ講和条約発効。そして、72年の施政権返還・本土復帰である。
本土復帰は、他の3件と違って、米国統治下の沖縄の悲願だった。

「本土復帰」が他の3件と違っているのは「沖縄の悲願」だったということだけで、「本土復帰」も本土による差別であったことは間違いあるまい。私はこう考える。住民9万4000人を含む18万8000人が犠牲となった沖縄地上戦は第二の、そして最悪の「琉球処分」であり、沖縄をアメリカの統治下に置くことを認めた52年のサンフランシスコ講和条約は第三の「琉球処分」であり(日本はアメリカに沖縄を売ったのだ!日本は沖縄をモトシンカカランヌーとして扱ったのだ!!)、そして1972年の沖縄自身が自ら悲願として求めた本土復帰にしても本質的には第四の「琉球処分」にほかならなかったのではないか。何故、本土が沖縄を差別し続けるのかといえば、たとえ呼称は「県」となろうとも、沖縄が今も日本の「植民地」だからではないのか。沖縄が日本の歴史を知っているのに対し、日本が沖縄の歴史を知らないのもこのためである。こう考えると次のような琉球新報が社説「復帰記念式典/差別と犠牲断ち切るとき 沖縄に民主主義の適用を」で書いた疑問も氷解する。

民主主義社会は世論を尊重することが基本です。なぜ、(日米)両政府とも沖縄県民の切実な声をもっと尊重しないのですか。
復帰40周年記念式典で上原康助沖縄開発庁長官はこう述べた。ほとんどの県民が共有する疑問だろう。なぜ政府は沖縄に民主主義を適用しないのだろうか。

それは沖縄が日本の植民地だからである。かつても、そして今も、である。他県が「米軍基地の移設を、拒否すれば強要されることがない」のに対し、沖縄が米軍基地を強要され「犠牲を甘受するだけの存在」として固定化されつづけているのは沖縄が他県と違って今も植民地の扱いしか受けていないからなのではないか。日本は右から左に至るまで沖縄が植民地であることを良いことに沖縄の総てを蹂躙しつづけてきたのである。何故に国土の0.6%しかない沖縄に全国の74%の米軍専用基地が集中しているのか。1955年(昭和30)6月に全国軍事基地反対連絡会議されるなど、本土における米軍基地反対の声が高まったのに対して、どう解決したかといえばアメリカ統治下にあった沖縄に本土は押し付けてしまったのである。ハナから本土並みの返還は建前にしか過ぎなかった。宗主国が植民地に建前として美辞麗句に包まれた綺麗事を並べるのは植民地支配の常套手段である。
沖縄の本土復帰運動を担って来たのは沖縄社会大衆党である。1950年(昭和25)に沖縄群島政府の知事に本土復帰を唱える平良辰雄が選出されるが、この平良を中心に社会大衆党が結成され、政策綱領に日本復帰促進を掲げた。しかし、現在、沖縄社会大衆党のホームページに「1950年に結成され、結党当初は『国際正義に基づく琉球国の建設』を綱領で謳っていました」とあることから、沖縄が日本復帰以外の選択肢を持っていたことを示唆している。そうであれば沖縄からすれば復帰が第4の「琉球処分」でしかなかったことが自明となった以上、沖縄は「国際正義に基づく琉球国の建設」という選択肢に正面から向き合うべきではなかったのか。それができなかったということは沖縄自らが沖縄を本土化したということであり、それは沖縄自らが沖縄の植民地化を肯定する「精神構造」を固定化してしまったということではないのか。日本という視点からしか沖縄は自らの未来を構想できなくなってしまったということである。仮に日本復帰を果たした後であっても、「県」以外の有り様を探ることはできたはずである。敢えて言えば日本に沖縄の未来を全面的に託さないで済む道筋をどんなに細かろうとも沖縄は今からでも探るべきである。
「沖縄を返せ」という楽曲がある。沖縄返還運動が盛り上がるなか本土でも、沖縄でも歌われた。

固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が 血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ 

「沖縄を返せ」は言ってみれば、本土が沖縄を取り込んでしまった記念碑的な歌である。そう「沖縄を返せ」は沖縄が創造した楽曲ではないのだ。作詞は全司法福岡高裁支部であり、作曲は「がんばろう」などの労働運動歌の作曲で知られる荒木栄であり、1956年の9月の「第3回九州のうたごえ祭典」で最初に披露された。ここで歌われる「民族」とは「ヤマト(=日本)民族」であり、「琉球民族」ではないし、「我等と我等の祖先が血と汗をもて守り育てた」ことが何かと言えば「琉球処分」という「琉球併合」にほかなるまい。要するに沖縄に対する宗主権を主張している歌にしか過ぎないのだ。少なくとも、この「我等」に我等は日本人であり、彼らは沖縄人であるという認識は微塵にもあるまい。日本の「左翼」なんぞこの程度のものだったのである。琉球語によれば日本人はヤマトンチュであり、沖縄人はウチナーンチュである。琉球語は原日本語から発達したとはいえるだろうが、本土の方言と対立するような独自性のある言語である。いずれにせよ、私たちはウチナーンチュに対する「彼ら」という認識を隠蔽してしまっているのである。沖縄は日本ではないという歴史的文化的事実を隠蔽するということが「本土による差別」の第一歩なのだ。「本土による差別」は沖縄から「琉球弧」としての「誇り」を奪うことであった。「誇り」を歴史的文化的アイデンティティと言い換えても差し支えあるまい。本土化とはそういうことなのである。
琉球歌謡の第一人者として知られている石垣島出身の大工哲弘(ライナーノーツを朝倉喬司が書いたことがあったと私は記憶している)は「沖縄を返せ」の歌詞のたった一字を変えるだけで、「沖縄を返せ」が孕む差別的侮蔑的沖縄観を一掃してしまった。大工は「沖縄を返せ 沖縄を返せ」の部分を「沖縄を返せ 沖縄へ返せ」と歌うことで歌詞全体の意味を変えてしまったのである。大工の歌う「沖縄を返せ」において「民族」とは「琉球民族」にほかならないし、「我等」とは「ウチナーンチュ」にほかならなくなる。大工は「日本は沖縄を沖縄自身の手に返せ」と歌っているのだ。沖縄にとっての「祖国」は沖縄なのである。
琉球新報は社説で沖縄を訪れた首相の野田佳彦に対して「沖縄の民意をくむ意思などないのに、低姿勢を演じる」と書き、「『政府がこれほどお願いしているのに、受け入れない沖縄はわがままだ』という国民世論を喚起しようとしている」とつづけているが、それは違う。野田首相の「低姿勢」こそ沖縄を植民地として大切にしていますという、あからさまな差別主義だろうし、普天間基地問題でズッコケた鳩山由紀夫の沖縄に対する同情は、あくまでも植民地に対する同情の域を出ず、その裏側には傲慢が張り付いているはずだ。相変わらず日本も、そして沖縄も沖縄に対する想像力を欠如させたままなのである。なればこそ沖縄において自立すべきは日本を所与の前提としない「自由な言論」であり、「自由な表現」である。
1972年5月15日は日本が沖縄に「日本国憲法」を押し付けた日である。かくして沖縄県が誕生する。
私の親父はゴールデンウィークの最中に入院することになった。ショートステイで転んでからベッドから起き上がれなくなってしまっていた。病院のベッドで親父は私を見つめながら言った。
「兄さん、20ドルほど貸してくんないかい?」
ボケた親父はパスポートを持って返還前の沖縄を思い出していたのだろう。親父は20ドルで何をしたかったのだろうか。私も親父も野田佳彦同様にヤマトンチュなのである。
ちなみに「朝日新聞官邸クラブ ‏ @asahi_kantei」は次のようにツイートしていた。こいつらいったいどこまでバカなんだ。

サブA)野田首相はブログでさらに、きのうの沖縄復帰40周年関連行事で歌った夏川りみさんについて「実は大ファンでして」と突然カミングアウト。「習志野文化センターに足を運んだこともあります」とのこと。きのうの挨拶でもこのことを言って笑いを取っていたそうです     5月16日

この植民地主義者め!