TPPと天皇制

5月17日、共同通信はTPPについて次のように伝えている。

TPP年内妥結、事実上断念 期限設けずと米高官
【ダラス共同】環太平洋連携協定(TPP)拡大交渉を進めている米国、オーストラリアなど9カ国は、目標としていた年内の交渉妥結を事実上断念する見通しとなった。米通商代表部(USTR)のワイゼル首席交渉官が妥結時期について16日、今後の交渉の方針を決める6月のTPP閣僚会合では「明確な期限を設けない」と言明した。交渉の難航が背景にある。
 交渉参加を検討している日本に対し、協定づくりへの関与の必要性を理由に早急な決定を求める声が出ているが、今回の目標断念により、日本が関与できる余地はなお残された形となった。

TPPを経済問題として考えればTPPによってトクをする連中は賛成するだろうし、損をする立場からは反対を表明するのは当たり前のことである。財界の総本山たる経団連のお偉いさんなどはTPP推進だから、大企業はTPPで一儲けを企んでいるのだろう。逆にJAなどはワシントンポストにTPP反対の意見広告を出したくらいだから、農林水産業は相当な打撃を蒙ることになるのだろう。経団連の「わが国の通商戦略に関する提言」はこう言い切っている。

…わが国が、万が一、参加しなかった場合、あるいは参加が遅れた場合、競争上の不利からTPP参加国におけるわが国企業の売上が減少するばかりか、わが国技術の粋を集めた完成品や基幹部品の生産拠点までをもTPP参加国に移転せざるを得なくなる恐れがある。そうなれば、貿易投資立国、技術立国として由々しき事態であり、わが国経済の屋台骨を揺るがしかねない。

一方、JA全中はホームページのなかで次のように書いている。

TPPは、例外のない関税撤廃を原則とするとともに、幅広い分野にわたって規制・制度の変更を求められる、極めて自由化度の高い包括的協定です。そのため、もし、日本がTPPに参加すれば、関税撤廃による農林水産業への打撃により、地域経済・社会や国の食料自給率に大きな影響が及ぶだけでなく、医療、食の安全・安心などにかかわる仕組み・制度が変更を余儀なくされ、私たちの生活が一変してしまう可能性があります。

TPPはグローバル経済を推進しようという立場からすれば是であるし、国民経済を守るという立場からすれば否であるようだ。そして、政府はこの損得を天秤にかけてトクが損を上回ると判断したのだろう。「農林水産業のGDP比はわずか1.5%。この1.5%を守るために、残りの98.5%を犠牲にしていいのか」という理屈でTPPに前のめりになっているというわけだ。大新聞もおしなべてTPP推進の社説を掲げている。わが国経済の屋台骨を揺るがしかねない事態を恐れているのだろう。
しかし、第一次産業が崩壊の危機にさらされるとなれば、国民国家として自立できないほど食糧を海外に依存することにもなりかねない。現在よりも更に自給自足が覚束なくなるということは、食糧安保という視点からすれば従米どころか属米を覚悟しなければならなくなりかねないというわけだ。対米自立はオプションとしてあり得なくなるに違いあるまい。
農林水産省が関税率10&以上で、国内生産額が10億円以上の19品目についてTPP加盟で関税を撤廃した場合を試算したところ、農業生産額は約半分に縮小してしまう。なかでも日本人にとって主食の米の生産量は90%も減少するという結果を予想している。このことの意味をどう考えるかである。私は経済とは別の視角から考えてみたいとと思う。それは「天皇」という視角からである。日本国憲法は「天皇」をこう法的に位置づけている。

第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

この条文には何故に天皇が日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であるかは書かれていない。天皇が国会の指名により内閣総理大臣を任命し、様々な国事行為を担っているから象徴なのか。そもそも天皇が象徴となったのは戦後になってからのことにしか過ぎない。日本国憲法国民主権を実現するために「萬世一系ノ帝位」を「象徴」と読み替えたのだと私は考えているが、そうだとしても天皇は何故に「萬世一系ノ帝位」たり得るのか、である。天皇天皇であるための条件は何かということである。それは「祈り」にあるはずだ。宮中祭祀である。
デジタル大辞泉』は宮中祭祀について次のように解説している。

宮中三殿賢所皇霊殿・神殿)で行われる祭祀。天皇自身が祭典を行い御告文を奏上する大祭(神嘗祭新嘗祭など)と、掌典長が祭典を行い天皇が拝礼する小祭(四方拝歳旦祭など)があり、年間約20件の祭儀が行われる。

宮中祭祀の一つに新嘗祭がある。これは稲の収穫祭りである。天皇が行う最も重要な「祭」にほかならない。11月23日夕刻、天皇は御湯出御(=入浴斎戒)ののち、神嘉殿において神々の末裔たる天皇みずからがその年の新穀によってつくられた神酒・神饌をアマテラスオオミカミを始めとした天神地祇に献供し、天皇自らも食するという祭儀であり、深夜に二度にわたって繰り返される。新嘗祭の後は年に二度、月次祭として旧穀を用いて神今食が行われる。新嘗祭は民間儀礼が宮廷化されたものと言われているが、それは即ち、天皇は稲を媒介にして神々とも、また民衆とも関係を切り結んだ王権であるということでもある。
天皇は「稲の王」なのである。『日本書紀』によると、皇室の祖神たるアマテラスオオミカミ天孫降臨に際して「高天原(たかまがはら)にある斎庭(ゆにわ)の稲穂をわが子に与えなさい」と命じたとあるが、これは天皇家によって稲作がこの列島にもたらされた神話的な反映であると言えるのかもしれない。日本は「豊葦原千五百秋瑞穂国」(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)なのである。恐らく神武天皇によって近畿圏に高度な稲作技術がもたらされたにちがいない。神武天皇の東征伝説は稲作技術の伝播と密接に絡んでいるはずだ。
天皇が即位するに際して行われる大嘗祭天皇として最初に臨む新嘗祭であるが、折口信夫は「大嘗祭の本義」のなかでこう言い切っている。

天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生(ナ)り物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国(ヲスクニ)のまつりごとである。

「稲」とは「命の根」にほかならず、天皇は「稲の王」であることによって「命の根」をつかさどる神々の「裔」なのである。『日本書紀』によれば崇神天皇は「農は天下の大本なり。民の恃みて生く所なり」と詔している。

今し河内の狭山の埴田水少なし。是を以ちて其の国の百姓、農の事に怠る。それ多(さは)に池・溝(うなて)を開(ほ)りて民の業を寛(ひろ)めよ。

天皇と「民」は稲作によってつながっているのである。今やその「民」が「日本国民」として主権を担っている。つまり、TPPを前にこう問うてみることもできよう。TPPを受け入れることによって米の生産量が90%も減少するという事態が果たして「稲の王」を「日本国民の総意」として「象徴」に位置づける「日本国」にとって相応しいことなのかどうか。もっとはっきり言えば米の生産量が90%も減少したならば「国民統合の象徴」たる最大の根拠が消えていってしまうのではないかということである。
かつて吉本隆明赤坂憲雄との対談で次のように語ったことがある。

僕は農業社会が少数化していき形骸化していくにつれて、天皇制も形骸化していくだろうと思っているわけです。それはいままでの話の続きでいえば、天皇の相続儀礼である大嘗祭の本質が、農耕神的なものを自分に身につけるという見方からも当然出てくるわけです。その本質がゆるんできたり、解体してくれば、形骸しかのこらないだろうということです。法的あるいは社会的な慣例として形骸がのこることはあるかもしれないけれど、本質はもう壊れていくだろう、というふうに僕は思っています。 『天皇制の基層』

天皇の身体に「稲の魂」が附着することはあっても、自動車や家電の魂が天皇の身体に附着することなど天皇(制)の起源からいってもあり得ないのである。貿易投資立国も技術立国も結構だが、TPPが天皇(制)の本質をゆるめたり、解体し、形骸化する危険性に手を貸すことになるのを覚悟して財界人や保守を自称する政治家はTPPについて発言しているのだろうか私には疑問である。少なくとも日本において稲作は単なる産業ではないのである。TPPによって壊される「日本」があるということである。
ちなみに福島第一原発の過酷事故にしても、天皇(制)を形骸化させることに一役買っているのだと考えることもできるだろう。放射線物質を撒き散らすことによって福島の水田から稲作を奪うという意味では立派な「神殺し」にほかなるまい。
大地から水田を奪うのがTPPである。