大阪市の入れ墨職員問題と「刺青」

私の今日90歳を迎える親父は千住に会社を構えていた材木市場で働いていた。還暦を前にして、その会社は倒産し、それ以後は一切勤めることなく、30年以上にわたって自宅に「蟄居」したままである。それ以前の親父は一ヶ月の多くを出張で暮らしていた。九州や紀州、関東では栃木といった山の麓にある製材所から材木を仕入れるためである。私は小さい頃、親父と二人で一度だけ旅行したことがある。私が小学生の頃である。親父の出張に同行したといったほうが正確であるかもしれない。塩原温泉に宿泊した記憶があるが、私にとって今でも記憶に鮮明に残っているのは栃木の矢板市にある製材所を訪問したときのことである。そこは男の職場といって良かった。材木の匂いに男たちの汗の臭いが混ざったような雰囲気であった。トラックの運転席から髪の毛を短く刈り込んだ男が親父に声をかけてきた。
「今日はお坊ちゃんをお連れなんですね」
「お坊ちゃん」という響きが今でも脳裏に強烈に残っている。親父が何と答えたのか覚えていない。親父は事務所の応接室で商談に入ったことは記憶している。その間、私は物珍しさも手伝って製材の現場を見学したり、ともかく大人たちの邪魔らならぬようそこいらじゅうをウロチョロしていたはずだ。尿意をもよおしトイレに向かったのだと思う。洗い場の先がトイレだと聞いていた。薄暗い建物を洗い場を目指した。蛇口から水の流れる音がしたので、その音を辿るようにして建物のなかを歩いた。私のことを「お坊ちゃん」と呼んだトラックの運転手が洗い場で顔を洗っていた。タオルで顔を拭ってから、シャツを男は脱いだ。私の眼前に現れたのは肌に描かれた大輪の花であった。その花は汗に濡れていた。肌に描かれていたのは花ばかりではなかったが、私の記憶にとどまりつけているのは、その赤い花である。男が私の存在に気がついた。気がつくとともに男はシャツを素早く身にまとい肌に刻まれた妖気を隠し、そして、何と私に謝ったのである。
「みっともないところをお見せして申し訳ありません」
私には何がみっともないのか理解不能であったが、その場で小便を漏らしてしまったことは間違いなかった。みっともないのは、恥ずかしいのは、ボクだ。そう思った。これが私の「刺青」との出会いである。その「刺青」は「入れ墨」として私の記憶にとどまったのではない。「しせい」としてとどまったのである。「死」「生」である。中学や高校時代に見た高倉健鶴田浩二を主役に据えた任侠映画がそうさせたのかもしれない。
大阪市長橋下徹は私たちに何かと話題を提供しているが、市職員に対する入れ墨調査もその一つ。きっかけとなったのは2月に大阪市児童福祉施設職員が子どもに入れ墨を見せて停職処分になったという一件だ。また3月に大阪市環境局が同局の全職員約3200人に入れ墨の有無を調査したところ、約50人が「入れ墨をしている」と回答していた。そこで橋本市長をトップに服務規律刷新プロジェクトチームを発足させ、5月1日から教職員など約8000人を除外したうえで全職員約3万人を対象にアンケートを始めた。5月13日付読売新聞は次のように書いている。

アンケート用紙は、「勤務中に入れ墨が市民の目に触れることになれば、市民が不安感や威圧感を持ち、市の信用を失墜させる」と説明。頭部や腕、足など人目に触れる可能性のある部分について、人体のイラストに図示する形で、大きさや入れた時期などを記名回答するよう求めている。背中など人目に触れない部分については任意回答とした。

5月16日に市は中間報告を発表する。これによると、入れ墨をしている職員が13部局の計110人に上ったという。110人のうち、73人が環境局でごみ収集を担当する現業職員だった。どんな入れ墨だったかといえば、大半が5〜10センチで、上腕部に入れている職員が多く、30センチの入れ墨を入れている職員もいたという。また、建設局には1人だけだが腕や足首など計4か所入れていたツワモノもいたそうだ。入れ墨を入れた理由について5月17日付読売新聞の報道によれば「若いころは入れ墨がかっこいいと思った」「若気の至りだ」「ファッションで入れた」などという説明が多かったようだ。この間の橋下市長の発言をYOMIURI ONLINEで拾ってみることにする。
「公務員が遊び半分で入れ墨を入れるなんて何かが狂っている」5月13日
「組織として異常だ。すぐ懲戒免職は難しいが、分限(免職)はあり得る」「(民間企業でも)大方は入れ墨を許していない、というのが僕の感覚。身分保障に甘えた公務員の世界だから、横行している」「市民の目に触れる公の職員が入れ墨をして、市民サービスをやるというのはおかしい」5月14日
「何をやっても許される甘い風潮があった。どうしても入れたいという職員は民間企業に移ったらいい」5月16日
「ガガさんやデップさんが大阪市職員になるなら断る。歌手や俳優だから支持されるのであって、公務員の入れ墨は許されない。(ガガさんらが)大阪市を受けるわけはないが」「僕も大阪府知事になるまで茶髪だったから偉そうなことは言えないが、公務員になるから黒に戻した」5月17日
橋下市長は意気軒昂なのである。この入れ墨問題を取り上げることで、橋下市長が率いる大阪維新の会大阪市議団が提出を目指していた、親の愛情不足が発達障害の要因とし、その「予防」をめざすとした条例案を撤回に追い込まれていた。それはそうだろう。この条例案に学術的根拠があるとは思えず、偏見を増幅させるだけの差別的なシロモノであったのだから。私などは、これで橋下市政に対する風向きが変わるかもしれないと思っていた。ところが、そこで橋下市長は入れ墨問題を持ち出したのである。こういうところの政治的センスが優れているのである、橋本市長は。新聞、テレビといったマスメディアは市長のカール・シュミットを忠実に実践する政治にまんまと乗せられてしまったようだ。それにしても、である。
大阪市の学校における教師の君が代強制については、これを拒否した教師に同情的であった朝日新聞毎日新聞東京新聞も、こと入れ墨問題に関しては橋下市長の発言を面白おかしく伝えることはあっても、橋下市政批判の論陣を張らなかった。私などはこれが不思議でならない。すべて国民は、個人として尊重され、法の下に平等であり、一切の表現の自由が保障されているのだとすれば、進歩派や護憲派は入れ墨擁護の声を大きく上げるなり、お得意の署名活動なり何なりの運動を起こすべきなのだが、君が代問題や脱原発・反原発とは違って彼らは一切沈黙する。大江健三郎など、その典型である。
だから私は彼らを頭の先から爪先に至るまで信用する気ににれないのだ。むしろ、橋下のほうがよほど一貫しているのではないか!相も変わらず、日本の進歩派文化人と自称他称する連中はご都合主義なのである。自由な表現、自由な言論を守ろうとするのであれば、思想や良心、信教の自由を守ろうとするのであれば、断固として入れ墨職員を擁護すべきだ。表現や言論は下の下の領域から刈られて、やがて思想や宗教までも刈ることになるのは、それこそ日本の近現代史が教えてくれるところである。日本が戦争に至る過程で権力によって最初に刈られたの
はエロ・グロ・ナンセンスであった。入れ墨がどんなにグロであろうとも、またナンセンスであったとしても、彼らの自由な表現に連帯すべきなのである。ま、福島第一原発30㌔圏から尻尾を巻いて逃げ出した自称新聞記者の諸君には私の言っていることなど、まるで理解不能であろう。
私はまず入れ墨職員の入れ墨を認めよう。入れ墨職員であろうとも、個人として尊重され、法の下に平等であり、一切の表現の自由が保障されて然るべきなのだから。ただ、その入れ墨をもって誰かを威嚇するような行為は断じて許されまい。しかし、と思う。ここからが重要だ。一連の報道を通じて、もはや入れ墨は「刺青」ではなくなったのだと私は痛感せざるを得なかった。若気の至り?ファッション?ガガさんやデップさん?大阪市職員の入れ墨によって私の「刺青」観が激しく貶められたことは間違いあるまい。
小学生の私に「刺青」を発見されるや、「みっともないところをお見せして申し訳ありません」と即座に頭を下げる男は、この国から絶滅してしまったのだろうか。私はそのことが無性に悲しい、悲しくてたまらない。「刺青」は見せて威嚇するものではなく、見られては恥ずかしいものなのだ。だからこそ「刺青」にはエロスが宿る。背中にあって、その男の「生」と「死」の存在倫理を決定するのが「刺青」でなければならないはずだ。
吉田松陰に「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という絶唱の一首があるが、こうした絶唱を「刺青」に託して男は沈黙に徹するのである。ありふれた日常においては「刺青」を隠すことで心情の爆発を己が精神の地下室に抑え込むのである。今は亡き松田修の言葉を借りれば「蜂起のエネルギーは、まず自傷自虐の痛覚」を選ぶのだ。

それは異端(個)への決意であるとともに、連帯(新たなる全)への認識票である。痛みのかぎり、汚辱のかぎり確実な存在感である。未来のパスポートである。 『刺青・性・死』

大きくとも30センチ程度の入れ墨を誇示することは「暗黒のゆえに極彩の美である」はずの「刺青」に対する裏切りにほかならないのだ。そのような入れ墨が「俗物への、体制への、衝撃」であることなど絶対にあるまい。ただファッションとして日常に埋没したままであろう。所詮、ガガさんやデップさんにしか過ぎまい。それでは困るのである。「刺青」を愚弄しているだけではないか。松田修はこうも書いている。

刺青、それは閉ざされた美である。暗黒のゆえに極彩の美である。秘めよ、秘められよ、開かれてはならない。それはいつの日にも俗物への、体制への、衝撃であらねばならない。怨恨と呪詛を忘れるところには、刺青の美は伝統しない。地価へもぐり、異界にひそみ、ある日突如日常をやぶって花を開く、その一瞬をわれわれは回復せねばならない。  『刺青・性・死』

秘されない、隠されない入れ墨なんぞグロテスクそのものである。しかし、それでも私は彼らの日本美を冒涜するグロテスクを嫌悪しながらも擁護しなければなるまい。私にとって言論とは、その一瞬、その刹那を妄想しながら、活字を「刺青」として刻みつけることなのである。