こんなことをツイッターでは呟いています!

節電、節電の夏。テレビの深夜放送は中止すべきだという社説をどの新聞社も書かないところにニッポンの「不自由な言論」の問題が横たわっている。結局、新聞とテレビは資本で繋がっているからダメなんだよね。 5月27日

新聞社が新聞社を告訴する。こういうところから「言論の自由」は崩れてゆくのではないか。「強制」されて崩壊するのではなく、「自壊」してしまう「喜劇」を演じることが、「自由な言論」にどれだけ敵対することか、言論をもってシノギとしている輩は私も含めて直視しておかねばなるまい。 5月31日

テオ・アンゲロプロスの描くギリシアの空はいつも曇っていた。ここを押さえることがギリシアの現在を読み解くに当たって重要な意味を持つことに鈍感であってはなるまい。財政破綻のみに目を向けてギリシアを論ずることだけでギリシアの現在を報道できると思うのは単なる「傲慢」だと私は思っている。 5月31日

日本の「リペラル」系とおぼしき政治家の最大の欠点は他者の痛みに対する想像力を欠如させていることだ。もっとも最近の自民党を見ていると「保守」系までが他者の痛みに対する想像力を欠如させてしまっている。何故、こんなことになってしまったのか。この「何故」を考えなければと思っている。 5月31日

明るく生きれば良いじゃん。それだけ。たかだか、それだけだから大切にしたいよね。もっと力を抜いて、そうさ、ボチボチ生きれば、それで良いんだよね。妙に力むことはないんだよ。 5月31日

読売新聞や朝日新聞の紙面の外側での行状を見ていると新聞は終わったと痛感する。新聞は大きくなり過ぎてしまったのだと思う。大きいということは、それだけで「権力」にほかなるまい。もし新聞がメディアとして復活するのであれば「小ささ」を大切にすることにおいてだと思う。 6月1日

これだから頭の良い人たちはバカなんだけどさ、今回の生活保護叩きは「多くの人たちの下劣な感情に火をつけた」という認識では、いつものように民衆から孤立するだけだということが、日本の「左」「リベラル」にはわかっちゃいねぇんだよなぁ。やはり私は君たちの敵であるようだ。いつものことだけど。 6月1日

私ができる限り毎日ブログを更新しているのは、要するに私は真面目な日和見主義者でいたいからなのだと思う。真面目な日和見主義者はレーニンが言ったのとは別の意味で総ての日和見主義者のなかで最も危険な存在だと私は思っている。それにしても大新聞の社説ってのは酷い。寝ててもかける類だものな! 6月7日

放射線ホルミシスって、そんなに簡単に否定して良いことなのだろうか。放射線の恐怖を語るのは良いけれど、どこからどう読んでも蓑田狂喜のようなイチャモンのつけ方が罷り通っているではないか。キューリー夫人が生きていたら彼女も原子力ムラの一員にされてしまうのではないだろうか。嫌な空気だ。 6月7日

本来、司法は民主主義の番人でありながら、民主主義から遠く離れて存在する。司法は三権のうちで最も「戦前」を温存した権力でもある。ある意味、浮き世離れした「権力」なのである。最高裁判所の長官は三権の長の一人だが、私はその顔を知らない。そういう司法のあり方は民主主義と言えるだろうか。 6月8日

国会事故調で明らかになったのは、東電の社長も、経産相も、官房長官も、そして首相までもが原発の事故を前にして、ただ混乱していたということである。非常時であればこそ必要な冷静さを一人として持ち合わせていなかった。「戦前」の責任を曖昧にし続けた「戦後」の弱さが露呈してしまったのである。 6月10日

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