「自殺できないから死刑になりたかった」心斎橋通り魔と大阪府知事「死にたいなら自分で死ねよ」発言

男、36歳。5月下旬に新潟刑務所を出所したという。覚醒剤取締法違反の罪で服役していた。
故郷の栃木県に戻った。家も仕事もなかった。「前科者」にとっては生き難い社会である。
6月9日、大阪に友人を頼って、やって来た。仕事を紹介してもらうのが目的だった。
市内観光をし、深夜まで酒を酌み交わした。その家に一泊させてもらったが、仕事の紹介は断られた。
昨日までと何も変わらなかった。友だちでさえも裏切った。街に出た。通帳に残っていた20万円を下ろした。カネはもうこれだけか。自分の明日が見えなかった。
自殺しようと思って包丁を大丸で買う。刃渡り18cm。自殺はできなかった。死ねなかった。でも、死にたい。死刑になれば自分の望みは叶えられる。
この包丁で誰でも良いから刺し殺せば死刑になる。これまでの判例からすれば、人は人を二人殺せば死刑である。
男はミナミの中心部、飲食店や洋品店の並ぶ心斎橋の路上に立った。
6月10日、日曜日。商店街は買い物客らで賑わっていた。殺すのは誰でも良かった。
東京から仕事で大阪にやって来た42歳のイベントプロデューサーはライブハウスに向かう途中だった。
クルマを駐車場に停めて路上に出た直後であった。包丁を持った男に刺される。
男が百貨店で包丁を買った僅か10分後の犯行であった。男は包丁を頭上に振りかざして振り下ろす、何度も。
買い物客の悲鳴が響きわたる。
その場所から40mほど離れた場所で自転車に乗っていた女性は「通り魔だ!あかん!逃げろ!!」という周囲の声を聞いた。女性は自分の置かれた情況が飲み込めなかった。飲食店を経営する66歳。
自転車の向きを変えて逃げようとした瞬間に背後から切りつけられた。
男は女性の脇腹や背中を繰り返し刺した。
男は路上に倒れているイベントプロデューサーのもとに戻った。
今度は馬乗りになって刺した。
必死になって抵抗するイベントプロデューサーの手をふりほどき、凶器を振り下ろした。足をばたつかせ、「誰か助けてくれ」という叫びは次第にかすれていったという。刺し傷は顔や首など約10ヶ所に及んだ。
約10分後、ミナミ署員が現場に駆けつけた。やめろ!伏せろ!男を一喝する。
男はイベントプロデューサーの腹に包丁を刺したまま、返り血が染まった両手を地面についてしゃがみこんだ。
警官に抵抗するそぶりはまるでなかったという。。路上には大きな血だまりができていた。
男の着ていた白いシャツも赤く染まっていた。
イベントプロデューサーは何故刺されたのかわからないままに死亡。自転車に乗っていた女性にしても、何故、自分が襲われなければならないのかわからずに死亡。理不尽な死は死者の怒りすら、この世から抹殺してしまう。
自殺できないから見ず知らずの他人を殺して死刑になる。身勝手な話である。確かに「前科」があると、本人がどんなに更正の意志を持っていても、そう簡単に仕事にありつけまい。「前科」などなくとも、そう簡単には仕事にありつけない時代である。そういう意味で男の自殺したいという気持ちは理解できる。自殺が社会に対する「たった一人の一揆」であるとすれば、この男が自殺の権利を行使することは、出所後の社会復帰の過酷で苛烈な情況に対する異議申し立てとなっていたはずである。
毎年、3万人にのぼる自殺者がいるということは、毎年3万件の一揆が起きているということであり、そのひとつひとつの死は国家や社会、組織や集団、あるいは特定の個人に対する、また時代や情況に対する抵抗と抗議の肉体言語による究極の表現にほかならない。たとえ「謝罪」の情念によって自らを死に至らしめたとしても、どこかに「この世」に対する抗議と抵抗の陰翳を帯びるものなのである。何故か。誤解を恐れずに言えば、自殺は本質的に個人による「権力」に対する「戦争」である。
それを自分で死ねないから国家=法によって殺してもらおうという、この男の発想は民衆の「自由権」に対する冒涜である。男は「権利」を放棄して安易に「義務」に自らの未来を託してしまったのである。これは憲法改正の議論に際して「権利」ばかりを主張するのではなく、「義務」をもっと明確に打ち出すべきだという、そこいらに転がっている日本の保守思想に通底する甘ったれである。被害者からすれば、この男が死刑になった程度では物足りないはずである。生き返ってでもぶち殺してやりたいはずだ。そのように私は死者の心情を想像する。そういう意味で私は大阪府知事松井一郎の発言を全面的に肯定したい。
松井は報道陣に事件のコメントを求められて、「『死にたい』と言うんやったら自分で死ねよと。人を巻き込んで、本当にむかむかします。人を巻き込まずに自己完結してほしい」と発言したという。もちろん、その前後にも何か発言しているのだろうが、この発言にのみ焦点が当てられた。問題発言における、いつもながらの報道パターンである。今回、知事の発言を問題にしたのは、どちらかと言えば進歩派とか良心派、市民派とか呼ばれる連中であったように思う。ツイッターでもそうであった。大阪府知事という行政のトップによる自殺容認とも受け取れる幼稚な発言と見做すのである。公人としては許されない発言だというわけだ。こういう輩は松井が満期出所者のフォロー制度が課題だとも答えれば良いと思っているのだろうか。元記者だという人物の次のようなツイートなど進歩派、良心派、市民派の紡ぎ出す意見の典型かもしれない。

「死にたくて通り魔するやつは自分だけ死ね」という者は、自殺願望者に対して「あなたは死んでもよい」と言っているのと同じだ。通り魔をするかしないかは関係ない。他人にさえ危害を加えなければ、死んでいいと言っているのだから。こんな鬼畜なことを言う者を私は人間扱いしたくない。

だから、松井発言は品がないどころか鬼畜だって、だから諸君はいつも民衆から見放されるのだ。お前たちは自殺願望者の怒り、悲しみ、苦しみをどれだけ「理会」しているのか。笑わせるな。進歩派とか良心派とか呼ばれる連中の言葉が決して民衆に届かないのはお体裁で能書きをまくしたてているからにほかなるまいよ。民衆の生活感情からすれば松井の発言は民衆の誰もが本音で思っていることである。民衆の原感情を繰り込ませることのできない言説に民衆は共感も、共鳴もしないし、民衆が寄り添うことなど絶対にあるまい。その点、松井にしても、橋下徹にしても民主党のお坊ちゃん連中に比べれば遥かに長けているのだ。
しかし、松井よ。民衆の心情に依拠するのは良いだろう。そのようにして政治の第一歩は踏み出されるべきだと私も思っている。だが、今日の自殺者はすべからく松井も標的にしているということをば忘れるなかれ。大阪府知事たる松井一郎もまた「権力」の住人のひとりなのである。
先週の土曜日、私は自宅で小川伸介監督の映画『三里塚の夏』をDVDで久しぶりに見ていた。大田出版から『小川プロダクション「三里塚の夏」を観る』というDVDブックが刊行されたのだ。成田空港の建設反対に立ち上がった三里塚の農民たちを描いたドキュメンタリー映画であったが、やはり冒頭のシーンが印象的であった。機動隊が農民の西瓜畑に文字通り土足で乱入する。大津幸四郎のカメラは一個の踏みつけられた西瓜をアップで切り取るのである。問われるべきはカメラの位置である。ジャーナリズムとしての「目の位置」である。
小川+大津がこの西瓜を映像として切り取ったのは、三里塚の農民たちの喜怒哀楽の現場に映画が降りていったからにほかなるまい。むろんカメラをかなぐり捨てるという選択もあり得よう。それでも、カメラを選んだのである。そのことの意味を例えば新聞記者とやらは考えたことがあるのだろうか。
現在の、いや昔も今もマスメディアは現場に降りていかないのだ。現場を遠まわしにして、上から眺めているだけなのだ。保守派の言動もまた然り。ましてや進歩派、良心派、市民派においておや、である。そのようにしか心斎橋の通り魔事件は報道されなかったし、そのようにしか論じられなかったということである。最初から民衆の生活との連帯を拒絶しているのだ。テオ・アンゲロプロスの映画が曇り続けていたことにも恐らく鈍感なのだろうな。