ご報告

昨日、31年間にわたって在籍した会社に退職届及び有給休暇取得届を提出した。私が在籍した会社は、とてもユニークであった。どんな会社かは「元社員」の岩本太郎がブログで書いているのを知った。100%とは言わないが、ほぼ正確な記述である。
http://wind.ap.teacup.com/applet/taroimo/msgcate17/archive
http://sea.ap.teacup.com/taroimo/
http://sea.ap.teacup.com/taroimo/7.html
http://sea.ap.teacup.com/applet/taroimo/msgcate3/archive
岩本は通夜、告別式についてもフェイスブックで報告している。無断で引用させてもらおうか。

一昨日(27日)は朝から茅ヶ崎(神奈川県)まで取材。快晴の日曜日だったが、私の場合は目下追ってるテーマの取材が、どういうわけか(というかこの日記をよく御覧のかたはご存知の通り)、平日の夜か土日の昼間に集中する。

 そんなわけで、多くの社会人のみなさんがオフタイムの時間になると怪しげにあちこちを動き出しては、平日の昼間には(鬱病のせいもあって)自宅の寝床に引きこもるという生活が最近は続いている。ただ、そんな私も20年近く前までは、毎朝8時に超満員の地下鉄に乗って東京都心の会社に通うサラリーマンだった。

 今でも時おり夢の中で会社員時代の状景が出てきて、はっと目が醒めたら既に夕暮れ時だったりする。そんな時、寝床に起き上がって眠い目を擦りながら「なんかずいぶん、遠いところまで来ちゃったなあ、俺……」と、しばし茫然としながら思いを噛み締める。

 で、昨日(28日)も前日の茅ヶ崎取材、及びそれから帰宅後の原稿書き(早朝4時頃までに終えて就寝)の疲れもあって午後4時前に起床。この日は6時半より「右から考える脱原発ネットワーク」主催のデモが京橋〜銀座〜霞ヶ関〜新橋にかけて行なわれる。その取材に行かなくてはと思いながら寝床に置いたスマホでまずはメールをチェックしたところ、会社員時代の上司の今井照容さんから、Facebook経由で一言、短いメールが来ていた。

「社長が亡くなったよ!」

 飛び起きて、今井さんのブログ(↓)を読む。

「『社長』が急逝したので昔話をしてみよう」
http://d.hatena.ne.jp/teru0702/20130128/1359346249

 読んだ後、「会社」に電話をかけた。退社して以来20年ぶりだったが、会社の電話番号はしっかり覚えていた(まあ、当時は携帯もなくて、逐一ダイヤル通話だったからね)。

 電話口に出たのは「社長」の息子さんだった。私が在職中はまだ学生で、会社にアルバイトに来ていたので顔なじみ。現在では入社して役員を務めている。葬儀は四谷三丁目のお寺で明日が通夜、明後日が告別式ということで、改めてファックスで案内をいただいた。

 ㈱東京アドエージ代表取締役社長・赤石憲彦氏。1月26日に81歳にて急逝されました。
 衷心よりお悔みを申し上げます。社長、本当にお世話になりました。私を育てていただき、本当にありがとうございました。

 正直、今はいろいろな思いが心中で交錯して、これ以上の言葉が出てこない。数年前からガンを患い、闘病生活を続けていたとは聞いていた。が、上記の今井さんのブログや息子さんからの話からするに、手術と抗がん剤で劇的に回復を遂げていて、2月には静脈瘤の手術を控えていた。ところがその静脈瘤が破裂し、思いがけずの急逝となってしまったという。もしかしたら私より長生きされるんじゃないかとも思っていただけに、訃報には一瞬目を疑ったくらいだ。

 そんな「社長」とのことについては以前にもここ(http://wind.ap.teacup.com/applet/taroimo/msgcate17/archive)やここ(http://sea.ap.teacup.com/taroimo/)で書いているし、今井さんについてもここ(http://air.ap.teacup.com/taroimo/584.html)やここ(http://air.ap.teacup.com/taroimo/854.html)で紹介させていただいた。が、それにしても上記の今井さんのブログに書かれた「社長」との日々も(在職中にも何度か聴かされたことがあるけど)何とも凄絶なので是非お読みいただきたい。もともとマスメディアの世界ってこういうふうだったんだよ――などと言ったら現在のマスメディア志望の若者たちは逃げ出してしまうかもしれないけど。

 23歳の春、岩手大学を卒業してふらりと東京に出てきた私が、このあまりにもアグレッシブなお二人のもとで鍛えられながら(というか、最初の3年間ぐらいはほとんど毎日怒鳴られるために出勤してたような感じだったけど)、20代半ばの5年間を過ごさせてもらった経験は、今でも私にとっての「宝物」だ。もっとも、そこを「海外にバックパッカー旅行に行くから辞める」とか言って離脱し、後にフリーライターになってオウム真理教だ反原発だとかを採算度外視で追い始めたあげく、生活保護受給者になって来年には50歳になるという俺の人生は何だったんだろうかとも思うけど(^_^;

 ともあれ明日・明後日(というかもう今日・明日だけど)は葬儀に行ってきます。ではでは。

 20年も前に自分の勝手な都合で退社した(何せ「海外に長旅に出ますので」だ!)「元社員」という立場で、その会社の社長の葬儀に参列するというのは何だか複雑なものかもしれないと、御通夜が営まれるお寺へと向かう電車の中で考えていた。

 というか、そんな迷いもあったため「あんまり早く行って葬儀の場をうろちょろ」しないほうが……ということで、お寺に着いたのは御通夜の開始時刻の15分前。ただ、そうしたところが、やっぱり既に大勢の参列者(その多くはマスコミ業界の古参の大幹部の方々だ)の列が、本堂の外までのびていた。今さらながら社長のこれまでの業界における存在感の大きさと実感しつつ、「もっと早く来ればよかった」と、さっきまでと逆の反省をする有様。

 今井さん(現在は会社の専務取締役である)は門前に立ち、次々にやってくる参列者への挨拶をこなしていた。私はこの日、今井さんが自分のブログに書いた「人生の問題に正解はない!ただ選択するだけである!!」(http://d.hatena.ne.jp/teru0702/20130129/1359438086)という記事を自宅を出る前に読んで気になっていたのだが、無論、この場でそんなことを持ち出している場合ではない。

「今井さん、ご案内ありがとうございます」「岩本、ありがとう」と簡単な挨拶を、結局この日は交わしたままに終わった。なぜなら今井さんは最後まで本堂の外で、この寒い夜に参列者への挨拶と案内に徹し、御通夜後の食事の席にも顔を見せなかった。葬儀は「社葬」ではなく、社長の御遺族によるものである。そうしたことは、やはりきちんと筋を通す人なのだ。

 会食の席では、在職時代に取材その他でお世話になった方々にも何人かお会いし、ご挨拶することができた。そして社長の御遺族や、今井さんの奥さん(というか、私は「ヤマナさん」とお呼びしてしまう。このお二人の馴れ初めから結婚までに至る時期にちょうど私は社員で、それはもう凄いドラマがあったのを一部目撃しているのだけど、書くと今井さんに怒られそうなので書かない)にも御挨拶しつつ「あの頃は本当にねえ」という昔話に。

 というのは、ここ(http://sea.ap.teacup.com/taroimo/7.html)にも顛末を書いているけど21年前、社長の御父さんが亡くなり、私も御実家のある函館まで葬儀の手伝いに行ったことがあるのだ。その際のことを覚えていただいていたこともあって、ついお話も長くなってしまい、とうとう最後は会食場から親戚以外の方がみんな帰られたところまで居残ってしまい、またもや失礼してしまったのであった(汗)。本当に申し訳ありません。

 写真は、その食事の席に置かれた社長――赤石憲彦氏の遺影。撮影されたのは25〜30年前の50代。ちょうど私が入社する前後の頃のようだ。私の手元には当時の写真が全然なかったので、御遺族にお許しを得たうえで撮影。その側で無邪気に料理にぱくつくお孫さんの風防が、何だかそっくりなのが微笑ましかった。

 ただ、私の記憶の中にある社長は、この写真よりも30倍くらい怖かった(汗)。実際ここ(http://sea.ap.teacup.com/applet/taroimo/msgcate3/archive)にも「例えていうなら開高健安部譲二落合信彦を足して3を掛けたという感じのおやじで、最初にあった時に俺は間違いなくこいつはやくざだと思った」などと書いているけど、何しろ鞄持ち(もやりましたよ、はい)しながら会社近くの赤坂一ツ木通りを歩くと、目の前の通行人がいきなり青ざめて道を空けたり、訪ねた広告主企業や出版社では対応した先方の重役の方々がめちゃめちゃ緊張した表情で出迎えていたのを、今でもよく覚えている。

「ご遺体のお顔は見てないの? まるで仏様のようよ」とヤマナさんに促がされ、改めて一人で祭壇前に置かれた棺の前まで行く。そして拝顔するに――絶句。

“これがあの「鬼の赤石」と呼ばれていた、あの社長?”

 長年の闘病生活で痩せられていたこともあろうが、本当に安らかに、仏の顔をして眠っていたのだ……。

 しばしその場に立ち竦み、思わず死に顔をしばらく凝視してしまってから――合掌。

訂正がある。岩本は「葬儀は『社葬』ではなく、社長の御遺族によるものである」と書いているが、「社葬」であった。1月27日の段階で遺族から「社葬」であると告げられた。

 前日のお通夜に続いて昨日(30日)には正午から告別式。やはり今井さん御夫妻が門前で参列者への案内役を務めていた。前日の日記の件でFB上で御小言をいただいていたので「すみませんでした!」と御詫びすると「バカ、いいんだよ!」ということで斎場に入れと促がされる。

 やっぱり私にとって一番怖かった「社長」の葬儀で、二番目に怖かった今井さんには今でも頭が上がらないのである。

「ヤクザみたいだ」と言われるかもしれないけれども、そうした親分・子分みたいな世界で私は物書きとして育ってきたし、そのことに対する恩義は忘れない。なおかつ、そういう時代を経験してきたからこそ、私は今でも本名(よく「ペンネームでしょ?」と聞かれるけど、岩本太郎はれっきとした親から授かった名前である)のもと、相手が誰であろうが筆を曲げずに自分の思うところを書ける。もっとも、そのせいか全然カネにならず生活苦につながる状態が延々と続いているのだけれども。

 ともあれ、この日も往年にお世話になった方々と久々にお会いし、ご挨拶したり、温かい言葉をかけていただいた。もとより、どなたもお年を召されていたけど、こういう場に来れば(来年には50歳になる)私もやっぱり今でも“若造”なのだ。この時代にマスメディアの業界を目指す若い人たちには信じられないかもしれないけど、でもそうやってこの業界というか世界は伸びてきたんだよ? もとより、激変した今のメディア環境の中で闊達に生きる若い世代には理解不能な世界かもしれないけど……結局、私などが「そういう時代」を知る最後の「旧世代」になるのだろうか。

「お前が言う通り、そういった義理や礼節に拘るのは……俺が最後だと思っているよ」

 20年前に会社をやめる際、社長は私の目を見据えながら噛み締めるように語ってくれた。
 その社長と、昨日は永遠の別れをした。棺には生前のお気に入りだったスーツ(私も在職中に何度か目にしていた)が、前回も書いたような仏顔の社長の身体にかけられているのを見るに、何とも言いようのない思いがこみ上げてきた。

 出棺の際には遺影を抱いた息子さん(現・取締役)と目が合い、「頑張って」と声をかけた。本当なら私は他人に対して「頑張れ」とか「頑張って」などと言うのが、どこか偽善的に思えて好きではない。でも、会社の決して優良ではないOBである私には、そう声を掛けることしかできなかった。かつて在職中にアルバイトとして会社に来ていた学生時代の彼のことはよく覚えている。それだけに「ごめんね。何もできなくて」との思いが残る

 出棺が終わった後、今井さんと、私が入社する以前の「会社」OBの方と三人で近くのお店に行き、昼間からワインのボトルを空けながら語り合う。その中で、私が退社後にフリーの物書きとしてやってきた仕事への辛辣な批評をいただく。私自身も「社長や今井さんがこれ読んでどう思うかな……」との思いが絶えず頭の片隅にあり続けた20年間だったから、真摯に聴く。

 ただ、本題は今井さん自身のことだったんだけど……これはおそらく近日中にご自身のブログ(http://d.hatena.ne.jp/teru0702/)
で公表されることだろう。

私もまた義理に生きるしかないのである。昨晩、DVDで『総長賭博』を久しぶりに観た。私の気分は鶴田浩二である。『総長賭博』の鶴田浩二の心情が身に沁みるのだ。『総長賭博』は「一家として決まったことを呑むのが、渡世人の仁義だ。白いもんでも黒いと云わなくちゃならねぇ。それぐらいのこと知らねぇ、おめぇじゃねぇだろう」と言っていた鶴田浩二が言葉通りに耐えに耐え、耐え忍んできた挙句に「任侠道。そんなもんは俺にはねえ。俺はただのケチな人殺しだ。そう思ってもらおう」と言い放ち、「怒り」を爆発せざるを得なくなるまでを「日本の悲劇」として描いた、三島由紀夫が絶賛したことでも知られる傑作である。