プリンセスプリンセスが16年ぶりに再結成されたけれど
プリンセスプリンセスが再結成されたそうだ。千葉の幕張メッセで開催された東日本大震災復興支援ライブで16年ぶりに復活したという。このライブには米米CLUB、TM NETWORKもライブを披露した。プリンセスプリンセスは女性5人組のバンドで、プリプリの愛称で知られていた。プリプリの全盛時のファンは現在の30代後半から40代か。
プリンセスプリンセスが結成されたのは1983年、といってもデビュー時はプリンセスプリンセスを名乗っていなかった。赤坂小町といっていた。プリンセスプリンセスと改名したのはジュリアンママというバンド名をその間に挟み1986年からである。プリンセスプリンセスとしてのデビューは、この年の5月にリリースされたミニアルバム『Kissで犯罪(クライム)』をもってである。
プリンセスプリンセスの全盛期はバブル景気に踊った時代に重なり合う。バブル景気の頂点がプリンセスプリンセスの絶頂期であった。「MY WILL」がスポーツ用品店のCMソングに起用され、「19 GROWING UP -ode to my buddy-」を経て、「GO AWAY BOY」が資生堂のCMソングに起用されたのが1988年であった。リクルート疑惑が発覚したのはこの年である。地価は暴騰し、庶民も財テクに走った。「Diamonds(ダイアモンド)」がミリオンセラーとなったのが1989年である。バブルの絶頂とともに1989年1月7日、昭和は終焉し、平成が幕をあける。その先頭をプリンセスプリンセスは走り抜けたのである。6月には美空ひばりが亡くなった。11月にはベルリンの壁が崩壊した。年末には東京証券取引市場一部の平均株価が3万8915円の市場最高値をつけた。1989年の最大のヒット曲は「Diamonds(ダイアモンド)」であり、第二位もまたプレンセスプリンセスの「世界でいちばん熱い夏」であった。バンド名として掲げられた「プリンセス」が「王女。内親王。皇太子妃。王子妃。親王妃。王妃」が意味し、曲名には最も高価な宝石の名称や成長を意味する英語が使われたのもバブル景気が実現した「豊かさ」とは決して無縁ではあるまい。
私は「バブル景気に踊った」と書いたが、実際に若い女性たちがジュリアナ東京なるディスコで夜な夜な扇子を振りながら踊り狂った時代である。ワンレン、ホディコンの女性が巷に溢れていた。バブル景気は土地不動産、株式などの資産価格のバブル化によってもたらされたが、1985年のプラザ合意による円高を背景にしていたこともあって、ジャパンマネーがアメリカの土地を買い漁り、アメリカの象徴ともいえるニューヨークのロックフェラーセンターまで日本の企業が所有することになった。そんな「イケイケ」の時代であればこそプリンセスプリンセスが「Diamonds(ダイアモンド)」で歌ったように「金のハンドルで街を飛びまわれ 楽しいことにくぎづけ」になれたのだし、「プレゼントの山 埋もれもがいても まだ死ぬわけにいかない」と豪語できたのである。プリンセスプリンセスの楽曲は時代に反抗するロックではなかった。そういう意味ではロックの嫡子ではなかった。
もちろん、時代の「豊かさ」をとことん謳歌するばかりではなく、バブル景気の「豊かさ」が若い女性たちを疎外していたこともプリンセスプリンセスのヒット曲は物語っているのである。「世界でいちばん熱い夏」で歌われているようにジュリアナ東京でいかに踊り狂っても、「ステレオタイプの毎日が ほら蜃気楼の彼方に消えてく」だけであった。視界に入るのは「たいくつなイルミネーション」だけであったし、聞こえてくるのは「ざわめく都会のノイズ 」だけであった。「遥かな国境」を越えることを幻視するしかなかった。女性たちは「Diamonds(ダイアモンド)」と「世界でいちばん熱い夏」の間に引き裂かれていたのである。
バブル崩壊は1991年。プリンセスプリンセスのヴォーカルの奥居香(現在は岸谷香)が、トレードマークであったロングソバージュをバッサリ切った年でもある。1996年5月31日の日本武道館ライブをもってプリンセスプリンセスは解散する。それ以来の復活を昨日遂げたわけだが、バブルの記憶が会場を埋めた観客に蘇ったであろうことは想像に難しくない。会場は大いに盛り上がったはずである。プリンセスプリンセスの楽曲がバブルの時代を圧倒的に象徴していたればこそ、現在の格差社会のリアリティとは残念ながら共振し得ないものなのだ。「名曲」へと上昇し、「懐メロ」に風化していくことは避けられないということでもある。