「現代の『悪所』、飛田新地を往く」完全版を公開します!

後ろめたさなしに「性」について論じることは不可能であろう。どんなに「論理」において整合性がとれていたとしても、「経験」が「論理」を裏切ってしまう居心地の悪さを覚悟しなければならないのだ。取り敢えず、私の「買ってしまった男」としての「経験」から書き始めてみることにしよう。
両引きの玄関扉が開け放たれた店先から、光が妖しげにあふれ出している。暖色系でありながら、どこか退廃的な照明は、そこが「官能の帝国」の入口に他ならないことを暗示している。光の中からぼんやりと浮かびあがるミューズたちの人間的であるというよりも人形的な微笑はあらゆる類の遊歩者に対して平等に放たれている。『キャンキャン』のような流行のファッション誌から抜け出してきたエビちゃん風の美女もいれば、レースクィーンや看護師、果てはメード風のコスチュームに身を固めた美女もいる。彼女たちは、美貌だけを遊歩者にアピールする。美貌だけがリアリティをともなっている異空間と言えば良いのだろうか。彼女たちはみな娼婦である。
それぞれの店の間口は約四メートルといったところか。どの店も定型を踏まえたつくりとなっている。玄関には提灯が掲げられており、両引きの玄関扉は格子窓の脇にある。男たちの欲望を刺激してやまない照明は女性たちの下方から蛍光灯を活用して当てられていることが分かる。二十代から三十代の女性を女神のごとく美しく見せるテクニックは一級品である。二階の腰壁からは店名の入った看板が突き出ている。もっとも、よほどの「通」でもない限り、店名に目をやることも、店名を記憶することもあるまい。
玄関の板の間には女性が一名、先に書いたように思い思いのファッションに身を固めて並んで座っている。この街には、こうした「料亭」が約二百五十メートル四方の一画に百軒ほどであろうか、ひしめき合っている。ここは大阪の庶民の信仰を集める天王寺の西に位置する飛田新地。いわゆる「ちょんの間」の陶酔を求めて、男たちたちの粘ついた視線が飛び交う街だ。この街を徘徊しながら今宵限りの性愛の対象として彼女たちを見定めて行く遊歩者たちの下半身は既に熱気を孕んでいるのかもしれない。私もまた、そんな遊歩者の典型的な一人であった。
私が飛田新地の「ちょんの間」の存在を知ったのは芹明香がヒロインを演じた田中登の傑作映画『㊙色情めす市場』によってだが、実際に足を踏み入れたのは、最近のことであり、今回が三度目である。ちなみに田中は江戸時代を舞台にした『㊙女郎責め地獄』や『実録阿部定』といった秀作も撮っている。
大阪には飛田新地の他にも、いくつかの新地が存在する。地下鉄九条駅近く、商店街に沿って広がる松島新地も飛田新地同様に「顔見世」を行っているが、料亭の数は飛田新地より少ない。それでも八十軒ほど営業しているが、後述することになるだろうが、飛田ほど辺境のエネルギーに満ち溢れているとは言えないように思われる。また滝井新地も「顔見世」を行っているが、十軒程度の規模であり、一見の客として訪れるには、相当な度胸が必要かもしれない。約四十軒が営業している信太山新地は住宅街のど真ん中に出現するという意味ではインパクトがあるが、ここや約三十軒が営業している今里新地は置屋システムを採用していて、「顔見世」はない。このように「ちょんの間」文化が根付いている大阪には、ソープランドがない。かつて、ミナミで営業していた何軒かのソープランドファッションヘルスに転業している。逆に東京で飛田新地のような「料亭の風景」に出会うことは皆無である。
その夜、私はジャンジャン横丁の串揚屋で空腹を満たし、酒精で精神を高揚させてから、高さ一〇三メートルの通天閣をシンボルとする新世界の雑踏を背に堺筋を南に下った。動物園前商店街のカラオケ居酒屋には脇目もくれず、アーケードを足早に進んで飛田新地に向かったのである。しばらくすると、飛田新地と書かれた看板が目に入ってくる。これに沿って曲がって行くと左手に交番が見えてくる。この交番の横に、かつてここに飛田遊郭の大門があったことを示す門柱が今も残っている。門柱には「飛田新地料理組合 飛田環境浄化委員会」と記された看板があった。一九五八,年に売春防止法が施行されて以後、飛田遊郭は料亭街に変貌を遂げ、今日に至っている。
しかし、料亭といっても料理が出てくるわけではない。確かに、ビールなどアルコール類は注文すれば出てくるが、よほどの「お大尽」でもない限り、ここ飛田では酒を頼むことはないだろう。ビール一本の料金は千円である。料亭は、あくまでも建て前なのである。料亭の本質は「ちょんの間」なのである。「ちょんの間」は「ちょいの間」とも言われることがあるが、『大辞林』によれば「➀ちょっとのあいだ。ほんの短い時間。➁遊里での短時間での遊興。ちょんのま遊び」ということになるが、これでは何のことかまるで分かるまい。インターネットのフーゾク系のサイトのひとつである『ナイトウオーカー』の「風俗用語の基礎知識」によれば、「ちょんの間」とは「本番を一回するだけの風俗。会話もそこそこに正常位で挿入する場合が多い。一発屋」である。すなわち、看板を料亭と変えても、営業内容は一九五八年以前と変わるところはないのである。飛田新地の「ちょんの間」の標準的な「本番」料金は小刻みに設定されていて、十五分で一万一千円、二十分で一万六千円、三十分で二万一千円、四十分で三万一千円というところが相場となっている。
声を大にして言ってはならないことらしいのだが、飛田新地は現代に生き残った遊郭なのである。その街並、その雰囲気は、まるで過去を生きているようだ。ここを訪れた者に大正ロマンとか、昭和モダンと形容されるようなノスタルジックな時代にタイムスピリットさせてしまうような情緒を喚起する不思議な磁力を持っているのだ。飛田新地の一角に何故か本物の料亭として営業している「鯛よし百番」は一九九九年に「文化財建造物指定」に登録されたが、この建物もかつて妓楼であった。飛田新地には「鯛よし百番」以外にも、保護すべき建築物がいくつか存在するが、これらはみな「遊郭」として現役なのである。そうである以上、この異形の料亭街が行政によって保護されることはあり得ないだろう。いずれにせよ、飛田新地沖浦和光が言うように「┉おそらく現代日本の盛り場で、近世的な「悪所」の面影を残している唯一最後の場所であろう」(『「悪所」の民俗誌』)ことは間違いない。
ところが、飛田遊郭の歴史は東京の吉原のように江戸時代にまで遡ることはできない。吉原は現在、ソープランド街となっているが、江戸時代の吉原遊郭との歴史民俗的な連続性を容易に見出すことができる。そもそもソープランドという最強のフーゾク産業は、吉原の遊郭売春防止法の網の目を潜り抜けるために江戸時代の徳川幕府が取り締まりの対象としていた岡場所の湯女に何らかのヒントを得たものではなかったのではないか。これに対し飛田遊郭は一九一八年を起源とするに過ぎない。最も歴史の浅い遊郭なのである。
「飛田」は紛れもなく近代の産物なのだ。近世に遡るのであれば飛田は大坂七墓の一つであった。即ち、徳川家康が江戸に幕府を開いた直後の元和年間(一六一五〜一六二四)の都市整理によって飛田に墓地が移され、刑場も置かれることになったのである。天保の飢饉に際して、民衆救済のため武装蜂起した大塩平八郎磔刑に処されたのが飛田であった。
明治維新を経て近代になってから、飛田遊郭を開発したのは阪南土地建物会社なる企業であった。同社は大阪ミナミの一九一二年(明治45)一月の大火事によって壊滅的な打撃を蒙った難波新地の貸座敷業者(明治五年の娼妓解放令以降、傾城屋は、こう呼ばれるようになった)らが、新たに飛田を遊郭の候補地として目をつけ設立したものである。何故に難波で再開できなかったかと言えば、明治後半から盛りあがる(キリスト教関係者がリーダーシップを握っていた)廃娼運動の成果による。やはり一九〇九年(明治42)七月に火災にあった曽根崎遊郭も廃娼運動によって一九一〇年(明治43)三月に廃止に追い込まれていた。ところが、大阪府知事が出し抜けに難波新地の代替地として、飛田遊郭の設置を許可してしまうのである。業者の失業救済を名目にしてのことであったが、実際のところ、失業した業者はなかったという。それどころか、飛田の面積は二万坪と、難波新地七千坪の約三倍に及んだ。業者と行政は地下水脈で結託していたのである。日清戦争日露戦争第一次世界大戦を経て、遊郭を形成する「資本」は、政治を左右するまでに産業として成長を遂げていたのである。何しろ、大隈重信は廃娼演説で知られていただけに、大隈内閣はこの一件で倒れてしまうのである。廃娼運動の側は実現しなかったものの天皇直訴まで考えていたこともあって、大阪府知事も辞職に追い込まれる。府知事の置き土産は飛田遊郭の建設許可であったということである。
かくして飛田遊郭は一九一七年(大正七)十月十三日に工事を開始し、翌年に完成する。飛田遊郭が完成したことで、全国的な盛り上がりを見せていた反対運動も終息する。設置当時、飛田遊郭で営業する妓楼は百軒程度であったが、昭和初年には二百軒を越えるまでに肥大化する。加藤政洋の『花街』によれば、一九二六年になると、阪南土地建物会社は大阪土地建物会社と合併することになる。それ以降は通天閣を経営し、「新世界」の開発を担っていた大阪土地建物会社が、飛田遊郭の土地・建物の賃貸経営を引き継いだのである。「文化財建造物指定」に指定されている「鯛よし百番」も妓楼としては阪南土地建物会社が経営していたという、ある意味、由緒正しい歴史を背負っている。
 このようにモダンの最前線として遊郭の歴史を形成してきた、新しい飛田新地が「性」の歴史にまとわりつく歴史的民俗的な古層を最も現在に残しているのである。沖浦和光が指摘するように色里・遊里があり、芝居町があり、そして、そこを旦那場とする被差別民の集落があるという「場」の構造もそうであろうし、様々なディテールにおいても、そうした古層がそこかしこに顔を覗かせるのである。
 私は交番の前の大通りの北東側の通称「青春通り」に出ることにした。飛田新地にあって最も賑わいを見せているエリアの一つである。
「ちょっとお兄さん、いい娘がいるよ」
と声をかけて来るるのは「やり手ばばあ」と呼ばれる、ミューズたちとの対比からすると老女。飛田新地では女性の横には、必ずこの「やり手ばばあ」が控えている。時間と料金の交渉は、この「やり手ばばあ」と行うことになる。なかには「やり手ばばあ」しかいない店もあるが、それは女性たちが既に二階で接客中であるということである。また顔見世している女性も一定の時間ごとに交代となる。串揚屋で出会った地元の「おっちゃん」によれば、飛田新地の遊びの流儀は「気後れは禁物だ」という。「可愛いと思ったら即断即決やで。やり手ばばあと即交渉やぁ」。とは言うものの見かけによらず気の弱い私は青春通りを行ったり来たりしてしまう。
「やり手ばばあ」を『ナイトウオーカー』の「性風俗辞典」で引いてみると「ちょんの間で客引きをする役目のおばさん。女の子の管理や身の回りの世話もする」と定義されているが、「やり手ばばあ」という言い方は江戸時代の遊郭用語「遣手」に遡ることができる。「遣手」の異名が「遣手婆」だったのである。「遣手」はまた、香車とも、花車、火車とも呼ばれ、妓楼の二階を生活の拠点として、遊女の介添役を務めると同時に総取締役的な役割を果たし、遊女と客に目を光らせていた。飛田新地で女性が接客するのは二階の個室だが、近世の遊郭においても遊女が遊客と枕をともにするのも二階であった。客と遊女との揉めごとを仲裁するのも「遣手」の重要な仕事であった。「心を遣い手を遣う職分」であったことから、「遣手」と呼ばれるようになったと言うが、客が付かないといって遊女を折檻するのも「遣手」であった。「敬して遠ざけられたる遣手婆」などの川柳は、そうした「遣手」の側面を皮肉っているわけだ。「遣手」への花の相場は一分であったという。これは飛田新地でスナックを経営するママさんから聞いた話だが、飛田新地の「やり手ばばあ」の収入は一人に付き千円ということである。一万六千円を払ったならば、そのうち千円が「やり手ばばあ」の懐に入り、残りを女性と店で折半することになるらしい。仕事場を二階から一階に移したとはいえ、飛田新地の「やり手ばばあ」は料亭で働く現代の遊女たちの介添役を果たすという役割において江戸時代の「遣手」から変わっていないと言うことができるだろう。ちなみに飛田新地の料金体系は時間によって定められている。十五分が一万一千円だが、一時間となると五万円にもなり、高級ソープランドと変わらない金額に跳ね上がる。消息通によれば、大半の客は二十分を選ぶらしい。
 青春通りを三往復はしたであろうか。なかなか即断即決というわけにはいかないのだ。私が行ったり来たりしていたのを察知した「やり手ばばあ」が声をかけてきた。
「そろそろ決めなはれ。こんないい娘がおるんさかい」
 私は足を止め、声をかけてきた「やり手ばばあ」に体を向けると、この「やり手ばばあ」の隣に座っている女性と視線があってしまった。その彼女が、何故だか分からないのだが、私にはとても懐かしく感じられた。
「彼女に決めたよ」「おおきに」「料金だけど」「二十分で一万六千円からですけれど」「じゃあ、お願いするよ」
かくして私は玄関で靴を脱ぎ、玄関に面した階段を彼女にエスコートされ二階の個室に向かった。部屋の広さは畳張りの八畳であった。中央にテーブルが置かれ、その横に煎餅布団がひかれている。
「服は、そのハンガーに掛けて下さいね。私も脱ぎますから」「うん」
会話はそれだけだった。服を脱ぐ途中で彼女は部屋の照明を暗くした。全裸になると彼女から私に絡みついてきた。キスを交わすことから始まる。やがて、彼女の舌は私の口を離れ、首筋を辿りながら下降して行く。最終的には私の性器を手で持ちながら口に含んだ。激しく口と手が動き、それこそ知らないうちにコンドームが装着され(何という職人技!)、「本番」へと移行する。二十分はあっという間に過ぎていった。私は性愛の官能にひたすら溺れるのみであった。暗闇のなかに激しく響く彼女の善がり声に導かれるようにして、私は私から解放されていった。肉体と肉体の摩擦の果てに、私の全身を激しい快楽が突き刺す。まるで「神」との結合を果たしたかのごとき絶頂を迎えたのだ。それは決して日常生活における「性」では味わうことのできない神秘的な「性」の経験であった。そうした私の「性」の経験の質において、どんな性的無意識を抽出することができるだろうか。
谷川健一は、こんなことを書いている。
「┉女は『非日常的時間を所有』し、男は『非日常的時間を欲求』するといえるのではなかろうか」と。
どんな女性であっても「非日常的な時間を所有」しているのだが、そして、これを所有していることを娼婦性と言っても良いかもしれないが、女性の日常において、非日常的な時間が恒常的に露呈されることはない。また、どんな男性であっても「非日常的な時間を欲求」しているが、犯罪という形を選択しない限り、男性の日常において発露されることはない。女性は「性」を売る娼婦として、男性は「性」を買う客としてしか出会えない飛田新地のような閉じられた非日常的な空間において、それはごく稀に実現することがある。日常における抑圧が強ければ強いほど、この出会いは人に強烈な経験をもたらすことになるだろう。
一七〇三,年(元禄16)に初演された近松門左衛門の『曽根崎心中』は実際の事件を題材にして書き上げられたものである。醤油屋の手代・徳兵衛と遊女はつの二人が心中へと向かって情念を爆発させるドラマツゥルギーは、まさにこの構図に当てはまることだろう。
「浮世の義理にしばられた封建時代においては、金はあっても武士に頭が上がらなかった町人にとっては、遊郭は自由を回復する場所であった。近松の世話物がえがく世界はまさしくそうである。日常的秩序から性愛の自由が消滅したときに、遊郭や娼婦は非日常的世界の自由をになうものとみなされたのであった」
「非日常的な時間」が流れるという意味では、「性」は「聖」なる歴史に連なることになる。「非日常的な時間」がたっぷりと流れている記紀神話における神々の記述を見てみよう。天孫降臨に際して、その先導役を果たしたのはサルタビコだが、サルタビコが貝に手を挟まれて海に溺れるというエピソードは、「性」の歴史とは無縁なことではあるまい。サルタビコの有する長大な鼻は男根の象徴であることは間違いない。また、天の八またにおいて立ちはだかるサルタビコに対し、アメノウズメは「その胸乳を露にかき出でて、裳帯を臍の下に抑れて、あざわらいて向きて立つ」。アメノウズメは性的な行為によって挑発することでサルタビコを従えたのである。サルタヒコは道祖神的な神に他ならないが、全国に祀られている道祖神のなかには男性器、女性器の形をした石像も多く存在している。一方、アメノウズメは、猿女君の始祖である。サルタヒコの名を残すべくアメノウズメはニニギより猿女君と名づけられたのである。猿女君は古代からヤマト王権の祭祀に巫女として係ってきた女系の氏族である。
更に、アメノウズメは芸能の始祖神としても知られている。アマテラスが天の岩戸に隠れ、世界が暗闇になったときに、アメノウズメが半裸となって踊り、神々の大笑いに誘われてアマテラスが戸を少し開いたところをアメノタヂカラオに引っ張りだされて世界に光が戻ったという逸話から芸能を生業とする女神であるとされたのである。「性」の行為と「芸能」がオーバーラップし、「聖」なる場面として結実していると理解できるのではないだろうか。「性」と「聖」と「芸能」の三位一体からなるトライアングルが歴史の始原において発生していたであろうことを神話のいくつかの記述は仄めかしているのである。私は、これを非日常的な時間の「所有」と「欲望」をめぐって形成される「娼婦性」のトライアングルと名付けようと思う。
道祖神に関連して柳田國男は『妹の力』のなかで各地に残る松浦佐用姫の伝承について言及するなか次のような記述を残している。
「(松浦佐用)姫が遊女でありまた上臈であり、また長者のまな娘であったというのも、結局するところは一つ事である。村の祭に化粧して現われ来たり、神の故事を演ずる者は、昔も今も一階級しかない。この徒が道の神なる道祖に奉仕し、歌舞をもって民と神との仲居をしたことは、文献のこれを明証するものがある。道祖はすなわち情欲の神であり、仏者も象頭神をもってこれに擬したごとく、これを邑落の境において饗しかつ祭却する場合に、美女を供してその心を取ったという想像は容易で、すなわち人身御供が必ず年若き娘であったというゆえんである」
恋する男性との別れを惜しみ、遂には悲しみの果てに石になってしまうという松浦佐用姫の悲恋伝説は『万葉集』にも七首ほど詠まれているが、その『万葉集』には遊行女婦(うかれめ)と呼ばれた人々の影を多く見ることができる。
君が家の花橘はなりにけり 花なる時に逢はましものを
二上の山にこもれるほととぎす 今も鳴かぬか君に聞かせむ
雪の島嚴に殖えたるなでしこは千代に咲かぬか君が挿頭に
これらは遊行女婦によって詠まれた歌である。七三〇年(天平2)、大伴旅人は太宰師(大宰府の長官)から大納言に栄進し、上京するに際して、吏僚や管下の豪族に交じって、児島という遊行女婦が見送っている。旅人が水城あたりまで来て、別れを惜しむと児島は次の二首を詠じたという。
凡ならば左も右かも為むを恐みと振りたき袖を忍びてあるも
大和路は雲隠りたれ然れども我が振る袖を無礼と思ふな
 歴史学者網野善彦が指摘していたことだが、児島が大宰府の吏僚たちに交じって旅人を見送っていたことから、遊行女婦・児島が大宰府という公の組織に何らかの形で関与していたことは間違いないのである。恐らく、その関与の仕方は「聖」なる存在として「芸能」や「性」をもってのことではなかったのか。
 対偶婚から単婚への変化が十世紀から十二世紀にかけて、ゆっくりと進行していったと言われている。対偶婚とは一対一の排他性を絶対視しない緩やかな婚姻形態であり、夫婦が配偶者以外の者と性的関係を持つことを非難されない婚姻関係である。神話や伝承、『万葉集』において垣間見ることのできる「性」の世界がどこか大らかで牧歌的なのは、対偶婚を背景にしていたからであろう。一方、単婚とは、排他的継続的、かつ制度的な今に続く婚姻関係である。こうしたゆっくりとした時代の変化に折り重なるようにして、遊女・傀儡・白拍子が歴史の舞台に登場することになる。彼女たちこそ中世前期において「娼婦性」のトライアングルの聖痕をとどめ置く存在である。
 後白河法皇が編んだ今様の『梁塵秘抄』に遊女の「好むもの」は「雑芸・鼓・小橋舟・簦翳・ 取女・男の愛祈る百太夫」であるとうたわれている。大江匡房の『遊女記』によれば「上は卿相より黎庶に及び、牀第に接し慈愛を施さざるはなし」と記されている。当時、交通においては西国や紀州から瀬戸内海を経て、淀川を遡るという海上交通のルートが重要な役割を果たしていたが、京の都に至るまでの岸辺には多くの遊女宿があり、小端舟に乗った遊女が船泊に集まっていた。特に江口、神崎、蟹島の遊女が有名であった。こうした水辺に生きる遊女たちは、旅人を歌舞音曲で慰め、その枕席に侍ることによって、旅人の交通の安全を祈願したのではないだろうか。こうした水辺の遊女たちの性を介して担っていた役割は「道祖神」であり、「巫女」であり、「菩薩」であったと思うのだ。実際、彼女たちのなかには観音、小観音、文殊御前といった仏教に因んだ名前を有していた者もいたし、小最という名は小塞と理解するのであれば、小さな道祖神を意味しよう。ちなみに遊女宿を統括していたのは長者と呼ばれる女性に他ならず、女系集団を形成していたと思われる。この長者から室町時代の『七十一番職人歌合』で辻子君とともに描かれている「古君」を経て、江戸時代の「遣手」を辿り、現代の飛田新地における「遣り手ばばあ」に至る歴史を見ることもできるのかもしれない。
大江匡房は『遊女記』の他に『傀儡子記』も残している。そもそも後白河法皇に今様を教えたのは、年老いた傀儡であった。藤原基俊の『本朝無題詩』には、眉を引き、紅をつけて、今様を謡い、客と床につく有様が記録されている。
はかなくも今朝の別れの惜しきかな いつかは人を長らえて見む
これは『詞花和歌集』に収められている傀儡自身によって詠まれた一首。前書に「東へまかりける人の宿りて待りけるが暁に立ちけるに詠める」とあるように、この傀儡は東国へ陸路下る旅人を相手にしていた。『傀儡子記』は美濃、参(三)河、遠江の「党」が何よりも「豪貴」であったと言う。また、大江によれば傀儡はもともと律令制の編戸の民ではなく、一所不在で水草を追って漂白する人々であり、男は弓馬をもって狩猟を行い、また様々な奇術に長じていたが、こうした傀儡と「宿々の遊女・遊君」たる傀儡は早い段階から分化していたようである。しかし、何よりも大江匡房の『傀儡子記』で着目すべきは、夜になると傀儡が「百神」を祭って、「鼓舞喧騒」、即ち「芸能」をもって「福助」を祈ったことである。傀儡もまたマジカルな(性的にして、聖的な)存在であったことは間違いないのである。中山太郎は『売笑三千年史』のなかで次のように書いている。
「┉陸中稗貫地方では、巫女のことは普通『守り子』というているが、また別に『くぐつ』とも称えている。これは同地方の巫女は俚俗『オシラ神』という神像を舞わしつつ巫術を行うのでかく称するようになったのだと伝えられている」
白拍子の特徴は男装の水干、袴姿にある。加えて、立烏帽子を被り、白柄の刀をさして、鼓の伴奏で今様を謡いながら男舞をしていたのである。白拍子は江戸時代に誕生することになる芸者の「前身」であると言えなくもあるまい。祇王、仏御前は平清盛の、静御前源義経の、亀菊は後鳥羽院のそれぞれ寵愛を受けた白拍子である。白拍子は仏教の本縁を好んで謡ったというが、もともと白拍子は「仏家の声明道の語で、大寺の延年舞のときなどに、童僧らが日常の語音に近い「素声」で謡ったのが元」(後藤紀彦)であり、それゆえに寺院に属する白拍子もいたのである。ここでも「性」と「聖」と「芸能」の三位一体からなる娼婦性のトライアングルを確認することができるだろう。
遊女・傀儡にしても、白拍子にしてもそうだが、柳田國男民俗学を踏まえて言えば、その衣装や装身具は、俗界から遮断された存在であることを示唆していたことであろうし、そうした姿を選択できたのは神や仏に接する者に許された特権であったと言うことができるのではないだろうか。遊女は光孝天皇の、傀儡は村上天皇の皇女の末であるとする伝承が成立するのも、彼女たちの「芸能」と密接不可分に語られるべき「性」の「聖」性と無関係なことではあるまい。私などは不埒にもSMクラブに近い陶酔がそこにあったのかもしれないと妄想してしまうのだが┉。男は「聖」なる「性」に丸ごと触れることで狂気(=自らの「聖」性)を覚醒させるというような仕組みにおいて、である。
しかし、「性」の歴史は「性」が「聖」から疎外されてゆく過程としても記述してゆかねばならないだろう。密教系の真言宗天台宗といった仏教は女性を五障三従の身であるとして極楽往生はかなわないとした。即ち、女性を穢れた存在として位置づけることで、「性」を「聖」から引き剥がそうとする力学が機能しはじめる。『法然上人絵伝』の伝えるところによれば、一二〇七年(建永二)、都を追われ讃岐に流されることになった法然室津の泊りに到着すると遊女を乗せた小船が近づいてきたという。この遊女は法然に訴える。
「上人の御船の由承りて推参し侍るなり、世を渡る道まちまちなり、如何なる罪ありてか、かかる身となり侍るらん、この罪業重き身、いかにしてか後の世助かり候ふべき」
この遊女は自らを「罪業重き身」と嘆いて法然に救いを求めに来たのである。『発心集』にも、同様の逸話を発見することができるが、「聖」から引き剥がされて「性」は、やがて「賎視」されるようにもなる。南北朝の動乱(=革命)を経て日本社会は劇的な変化を遂げるのである。応仁の乱によって京都が戦火に曝された頃、一休宗純の『狂雲集』によれば辻子に地獄の文字が与えられていたことが分かる。しかも、一休は、そこに亡国の可能性を見て取る。恐らく貨幣経済の進展が人びとの「賎視」を加速させたのであろう。平安・鎌倉時代の遊女たちは、官能と陶酔を与える代償として物品を受け取ったが、恐らく室町時代になると「銭」を受け取るようになる。そこから彼女たちに対する「賎視」が始まったものと思われる。むろん、「性」が「聖」から疎外されてゆくということは女系の解体も意味していたことであろう。男が経営する傾城屋が生まれたのも室町時代のことである。「長者」による、言ってみれば自律的な自治が崩壊することで、「長者」が形骸化する形で「辻子君」の面倒を見る「古君」を経て、近世遊郭における「遣り手」が誕生すると考えられはしまいか。
 『七十一番職人歌合』の成立は一五〇一年(明応十)頃と言われているが、ここには様々な職に携わる女性が登場する。ここに「性」を唯一の職能とする立君と辻子君を確認することができる。しかも一休の『狂雲集』と違って、ここには「立君」と「辻子君」に対する差別の視線はない。工鉱業や商業にかかわる職能と「性」の職能は「銭」を稼ぐ職能として同一視されているのである。更に言えば『七十一番職人歌合』に登場する女性のなかで「白拍子」はもちろんのこと、「大原女」や「比丘尼」、あるいは「桂女」のことを考え合わせれば桂包や桂巻の女性たちなども「性」に係っていたことが予想されよう。街角で客を引くのが「立君」であり、店を構えているのが「辻子君」ということになるだろうが、両者の違いは、デリヘルと新地の違いと認識すれば良いのかもしれない。飛田新地が店を構えているのに対し、デリヘルは電話一本で女性をホテルや自宅に呼んでサービスを受けることになる。ただし、「立君」の営業が夜であったのに対して、「辻子君」の営業は白昼であった。この伝統は江戸時代の吉原や島原の遊郭の草創期にも引き継がれることになる。「立君」や「辻子君」の出現は「性」の大衆化を推し進めたことであろう。しかし、彼女たちが「性」そのものでしか「芸能」を表現できなくなって、完全に「聖」性から疎外されてしまっていたかと言えばそうではない。そもそも五条辺の「立君」は清水寺と深い関係にあった。清水寺は「立君」から「銭」を取っていたと思われるし、キリスト教(=一神教)的倫理観が遂に定着することがなかった日本社会では「性」そのものが非日常性に立脚した「聖」なる時空を形成していたと考えるべきなのではないだろうか。そこは俗界ではなく他界(の入口)であったのだ。「辻子君」にしても、「立君」にしても、俗界を遮断すべく緋色の被衣を身にまとっていたのである。
近世以降の「権力」は(天皇までを含めての)「聖」を従属させるとともに、あからさまに「性」と「聖」の分断を企図する。「権力」にとって「性」を野放しにしておくことなく、これを管理・統制することは時代を問わず「政治」の必須の課題となるのである。かくして「遊郭」に「遊女」を囲い込む。「権力」は「聖」に嫉妬し、「聖」と「性」が結託し、「反権力」のエネルギーに結実することを恐れたのである。革命や暴動にも、非日常的な時間は流れるのである。
伝承に近い形でしか残っていないが、最初の囲い込みは豊臣秀吉によってなされた。一五八九年(天正十七)の某日のことだというから、九州攻めを終え、聚楽第に移り、絶頂期にあった頃のことである。秀吉が京の万里小路二条の柳の馬場に馬で差し掛かったおり、馬の口を取っていた原三郎左衛門なる者が洛中に散在する傾城屋をここ一ヵ所に集めてはどうかという言上があったというのだ。この進言を秀吉は快諾し、柳町の遊里が「開発」されることになるが、その後、六条に場所を変え、一六四一年(寛永十八)に再び移転して、ここが島原遊郭となるのである。また、大阪では木村又二郎なる人物が一六一六年(元和二)に遊郭設立の儀を幕府に申し出たのを契機にして、元和・寛永の頃、瓢箪町、佐渡島町(佐渡島与兵衛が神崎の傾城屋を説いて、ともに移ったと言われている)、四郎兵衛町、金右衛門町、吉原の五曲輪が成立し、これに隣接した佐渡屋町、九軒町を加えて新町遊郭と総称されるようになる。江戸においては、一六一二年(慶長十七)に庄司甚右衛門を「棟梁」として遊郭の設置が陳情される。幕府から許可されたのは一六一七年(元和三)、翌年から吉原遊郭が開業する。後、明暦の大火によって焼けてしまったために一六五七年(明暦三)、新吉原に移転する。また、宿場には「飯盛女」と呼称する遊女を置くことを許した。江戸で言うと品川、内藤新宿、千住、板橋の四宿。宿場には参勤交代に際して、宿泊施設の提供など、様々な役務を義務付けた見返りとして、「飯盛旅籠」の設置を許可したと言われている。
郭とは城まわりの囲いのことであるが、これら遊郭は垣や堀を周囲にめぐらすことで、遊女から漂白の自由を奪い取ったのである。吉原の遊女は幅五間の堀(お歯黒どぶと通称された)をめぐらし、大門を唯一の入口としていた。遊女の「遊」が「遊ぶ」という意味のみならず、「聖」に通じる「遊行」の「遊」であることからすれば、遊郭に囲い込まれることになった遊女たちは、一方の「遊」を禁じられた存在に他ならなかったのである。そういう意味でも遊郭は遊女にとって苦界に他ならなかったのだ。遊郭に身を置いた遊女は、たとえ太夫という最高位にあっても、原則的に遊郭の外に出ることはできず、垣や堀の内部に閉じ込められてしまったのである。それでも前代の遊女の誇り高き「聖」なる伝統は遊郭の成立期には残っていた。遊女歌舞伎が盛んであったことは、風俗図屏風に描かれているし、また、太夫の地位にあった遊女が和歌や音曲に秀でていたことは間違いなく、また遊郭文化の端々に「聖」の痕跡を発見することができるだろう。大尽遊びという言い方は遊郭を起源とするものであろうが、折口信夫によれば元は「大神」と書いていたのである。更に折口は、こう書いている。
遊郭に於ける饗宴はお祭りの形式を踏むのだが、昔の人は正直だから、重要な部分だけを行はずにとにかく始めから終りまで行つたのである。吉原へ遊びに行くと饗宴を開く。村の饗宴と同じく或式が行はれ、その式に来臨する正客があり、それを廻る陪従の客があり、これらの人々に主人が酒・肴を進め、芸人を進め、客もこれに応じて後、客が主人の進めた芸人を自分の思ふ通りにするのが昔の決まりであった。(中略)祭りの時招かれた神が饗宴を受けるのと同じ形を、客が受けるのである」(『巫女と遊女と』)
遊女の「聖」性は客に転移することで何とか痕跡を留めることになったのだと言えば良いのかもしれない。いずれにしても、遊女が遊郭に囲い込まれる歴史を積み重ねながら「聖」や「芸能」のエネルギーは著しく喪失していってしまうことになるのである。そして、一七六四年(明和四)には吉原において太夫が一人もいなくなり、太夫は絶えてしまうのである。しかし、誤解を恐れずに言えば、「権力」によって「性」が様々な形で監視、管理、統制されようとも、「性」そのものが、「聖」であり、「芸能」であるといった非日常的な局面や瞬間を消去することはできないのではないだろうか。近松門左衛門の世話物の主人公たちは、そこに自由を見たのである。心中は体制に対する小さいけれども、確固たる叛乱に他ならなかった。幕府が厳罰をもって心中事件にのぞんだのは、このためであろう。「官能の帝国」は「権力」にとって、その「権力」の質にかかわりなく、紛れもなく「悪所」であったのである。飛田新地は、そうした「悪所」の正統な嫡子に他なるまい。
しかし、私は遊郭を「性」のユートピアとして、一方的に称揚しようとは思わない。女性の悲惨を嫌というほど刻み込んできた場所であることも事実なのである。江戸時代の遊郭の遊女は、農村の貧困を背景にして、年季奉公という形で売られてきた存在なのである。確かに、幕府によって、年季の期間は二十年以下、年季明けは二十八歳と決められていたが、これはどういうことかと言えば、八歳で売られて、二十八歳にして、漸く年季明けを迎えるということだ。つまり、青春期のほとんどを遊郭に閉じ込められてしまうのだ。こんな川柳がある。
傾城は二十八にてやっと足袋
 遊女は、その位に係りなく足袋をはいてはならなかったのだ。しかし、引き取る者がいないとなると、最底辺の遊女としてお歯黒どぶに面した河岸見世に留まるより他なかった。身体を酷使することから、年季明け以前に病に倒れ死んでしまう遊女も多かったことであろう。何しろ体調が悪く勤めを休む場合は、「身揚がり」と言って、遊女は自分で自分を買わなければならなかったのである。揚代金は前借金に加算され、年季明けが遠のくことになるから、無理に無理を重ねて身体を壊してしまうのである。吉原で遊女が死ぬと、その死体は大門を通れなかった。遊女屋の裏口にあたる不浄門から粗末な棺桶に入れられ、踏橋でお歯黒どぶを渡って、三ノ輪の浄閑寺に投げ込むようにして葬られたことから、浄閑寺は「投げ込み寺」と呼ばれた。回向供養の類は一切されなかったというし、戒名にまで「遊女」「売女」と記されたという。まさに「生きては苦界死しては浄閑寺」だったわけである。西山松之助の『くるわ』には浄閑寺の過去帖を調査した結果、死亡平均年齢は二二・七歳であったと報告されている。
一八七二(明治五)年、維新政府によって太政官通達第二九五号として娼妓解放令が布告された。遊女は自由意志で商売することになり、遊女屋は貸座敷と名称が改められることになり、更にその一週間後には司法省布達がなされ、遊女を遊郭に縛り付けていた前借金もすべて帳消しにしてしまうというのである。遊女を籠の鳥から解放してしまうという画期的な法令が明治の早い時期に成立したのは、実は外圧による。この法令が布告される三ヶ月前に起きたマリア・ルーズ号事件が引き鉄となっているのである。ペルー国船マリア・ルーズ号が清国人奴隷二二九名を乗せて横浜港に寄港するが、虐待にあった彼らは脱走して同時期に寄港していたイギリス国船アイアンデューク号に奴隷契約の解除を求めた。アイアンデューク号の船長は神奈川県駐在公使カットサンに報告すると、カットサンは直ちに清国人の解放をマリア・ルーズ号に求めた。しかし、マリア・ルーズ号の船長は、これを拒否したため、わが国がこの事件に対応することになった。神奈川県令はマリア・ルーズ号の船長に執行猶予付きではあるものの有罪として、清国人との契約は奴隷契約であるとし、清国に引き渡すことにしたのである。しかし、黙っていなかったのはペルー側。遊女の年季証文を持ち出して日本には、このように女奴隷が存在するではないかと日本の決定に異議を申し立てたのである。維新政府としては痛いところをつかれたわけである。かくして、世界から信用を得るために娼妓解放令を建前としてだけでも布告せざるを得なくなったのである。
しかし、この娼妓解放令は現実的には殆んど機能しなかったと言ってよい。遊女たちは遊女をやめては、生活が成り立たなくなることは目に見えていたからである。娼妓解放令から一週間も経たないうちに出された東京府令は遊女本人が希望する渡世であれば吉原などにいることを許可するというものだった。一八七三(明治六)年には貸座敷渡世規則が発布され、娼妓解放令自体を形骸化してしまったのである。どういうことかと言えば、遊女は貸座敷から部屋を借りて、自分の意志で売春するというカタチにしたのである。しかも、貸座敷を免許制にしたために江戸時代においては取り締まりの対象となった岡場所も指定地の免許を受けられることになったのである。解放令から一転して公娼制度が成立したのである。政府が次から次へと免許を与えていった結果、一九二四(大正十三)年には、全国五四五ヶ所、業者一万二千軒、遊女の数は五万二千二百人にも及んだ。近代日本が資本主義国家として成長して行くにあたって、最も簡単な資本主義の実践が「売春」産業の育成に他ならなかったのかもしれない。急激な近代化の矛盾も、ここに際立って露呈することになったのではあるまいか。遊女の肉体は紛れもなく「商品」として扱われるようになったということである。既に国家は娼妓解放令を布告した段階から遊女という言葉を使わなかったが、やがて一般的にも遊女という言い方は殆んど死語に近いものとなっていった。
「「初見世春駒」の札が取れた。今日で丁度一ヶ月になるのだらうか?
「初見世!」「初見世!」自分はその名の元に自分の一生を終わったのだ。思っただけで、ぞっとする。
「初見世!」自分は新らしい品物であった。花魁という品物の中に投り込まれていた。自分の頭の上には、「初見世」と書かれてあった。
 おや、これは何だらうと思ったときには、すでに、自分は、来る男、来る男に、五円、十円の金、ときには二円、三円の金で、散々と蹂み躙られてしまっていた。
 こんな事が、この世にあらうか。ほんとうの事か知ら、夢でないか、と一生懸命考へた。が、まだはっきり分からない内にもう一ヶ月もたってしまった。
 ああ、何にも思ふまい。何う思ったって、考へたって、何うにもならない」
 森光子という一人の女性の身売りから遊郭を脱出するまでの日々日記を纏め、大正十五年に刊行された『光明に芽ぐむ日』の一節である。
こうした悲惨は形を変えながらも、現在に至るまで「性」の歴史につきまとって離れない。恐らく、飛田新地の「現在」においても、だ。飛田新地には、飛田新地でしか通用しない隠語があるという。例えば、「しのぎ」。飛田新地にやって来る客を狙う強盗のことである。「まいど」は、ひやかしの客を指すそうだ。こうした隠語のなかに「ユウレイ」という言葉がある。これは、飛田新地で娼婦として働くことによって、精神的に病んで、人間的に壊れてしまった女性のことをこう呼ぶそうなのである。そして、飛田新地のことを良く知るスナックの女性経営者の証言によれば、この街には「ユウレイ」にまつわる悲惨なエピソードが山のようにあるそうである。ある意味、「娼婦性」を最も裏切らなければならない女の商売が娼婦なのである。そうした娼婦の無念の裂け目に男は「娼婦性」のトライアングルを錯覚してしまうのかもしれない。私のように。飛田新地で働く女性たちのこの世のものとは思えないような神々しい美しさは性そのものが聖であり、芸能であることに起因しつつ、かつ「ユウレイ」に転落し得る危うさと紙一重なのであろう。
戦前のことになるが、阿部定事件は「官能の帝国」における「娼婦性」の叛逆であったのではあるまいか。一九三六年(昭和十一)阿部定は東京・中野の鰻屋に女中として働き始めるが、妻子持ちの主人・吉田吉蔵に一目惚れしてしまう。吉蔵もまた阿部定にのめり込んで行く。二人の関係が家族に発覚してしまったのを契機に二人して家出。渋谷の待合、多摩川の料亭、尾久の待合を転々としながら、二人は性愛の自由を謳歌する。阿部定に殺意が芽生えたのは愛情の故。「殺してしまえば外の女が指一本も触れなくなるから」と腰紐で絞殺し、彼を独占するために陰のうもろとも局部を切断して、これをハトロン紙で包んで、逮捕されるその日まで、帯の間にはさんでいたという。こんな彼女も実は飛田遊郭の出身である。阿部定は十八歳で始めた芸者をやめて二十二歳の折に飛田で娼婦になったのである。御園楼なる妓楼で園丸を名乗ったが、以後、吉田吉蔵と出会う前年の七月までの約十年にわたって娼婦をほぼ天職としていたのである。彼女、飛田では面白く働いたと訊問調書で述べているのである。阿部定事件を題材にした大島渚の『愛のコリーダ』はフランス映画として製作されたが、その原題は『官能の帝国』である。
公娼制度が廃止されるのも、これまた外圧による。太平洋戦争の敗戦によって、わが国はアメリカに占領されることになるが、一九四六(昭和二十一)年、GHQはわが国の公娼制度に関する一切の法律を廃止するよう指示を出したのである。こうして形式的には公娼は全廃となったが、警視庁は業者に事前に情報を流して、対策も指示していたのである。すなわち、業者は自発的に廃娼の申し出をして、新たに風俗営業法のカフェーという名目で、公娼ではないが公認の私娼は認めることにしたのである。これが赤線である。警察の地図に赤い線が引かれていたことから、こう呼んだわけである。赤線は一九五六(昭和三十一)年に売春防止法が施行されたことによって消え去る。元吉原から数えれば三四〇年も続いた吉原の遊郭の歴史は、これにて幕を下ろすことになったわけだが、「トルコ風呂」に転業する業者が出て、あっという間にトルコ風呂街を形成するに至り、一九八四年、ソープランドに改称して、現在に至る。一方、大阪の飛田新地は「異形の料亭街」として生き残ることになる。大阪の赤線業者は関西の性病予防自治会によって売春防止法は廃止されると踏んでいたらしい。そこで、料亭という名目で届出を出し、これが認められると「アルバイト料亭」として、目立たないように営業を始める。吉原のソープランド男性誌やスポーツ新聞といったマスメディアに広告を出して、集客を図るのに対し、飛田新地は今でもそうだが、写真を撮られることを極端に嫌う。もちろん、マスメディアに広告を出すなんていうことも一切しない。もし、あなたがカメラのレンズを店先に向けたのであれば、最低限でも「ここは写真を撮って良い場所じゃないんだよ」と遣り手婆あから怒声を浴びることになる。
ちょうど服を身につけ終わる頃、部屋のブザーが鳴った。客に時間が来たことを知らせるブザーである。料亭を出るに際して、女性から飴をすすめられた。いわゆるペロペロキャンディである。私の怪訝な表情を察した彼女はニコリと笑って言った。
「これを手にもって舐めながら帰れば、通りを歩いていてもおばちゃんに声をかけられることはありませんから」
 飛田新地の「ちょんの間」が当初、アルバイト料亭と呼ばれていたのは、つまり、店は女性を娼婦として抱えているのではなく、女性は料亭のアルバイトとして店に出ており、客との「自由恋愛」に店は関与していないという建前のためである。この建前を共有せざるを得ないほど、男も、そして恐らく女も恋愛に不自由しているからこそ、私(たち)は飛田新地観音菩薩としか言いようのない女性たちとの肉体を介しての一瞬の交錯に震撼してしまうのである。ホント、人間とは厄介な生き物である。