「君が代判決」の社説を読んでいたら「海ゆかば」について書きたくなった!

海ゆかば」を聞いたことがあるだろうか。名曲だ。私は信時潔のこの曲が大好きである。そのことをもって私は「右翼」とか「ファシスト」あるいは「ウルトラナショリスト」とレッテル貼りをされることになるのだろうか。その手のレッテル貼りに潜む狭量な「思想」はそれこそかつてわが国を席巻した「ウルトラナショナリズム」とコインの裏表をなし、ある条件が整えば簡単に「ウルトラナショナリズム」に変貌を遂げてしまう、そう私は考えている。戦後民主主義という「思想」すら、そういう危険性を孕んでいると考えて間違いあるまい。「海ゆかば」は戦後という空間において抹殺された曲である。
信時潔NHKの嘱託を受けて「海ゆかば」を作曲した。1937年(昭和12)のことである。NHK(当時はラジオだけです、念のため)で初放送されたのは同年10月であった。7月7日には廬溝橋に轟いた十数発の銃声が日中両軍の衝突を引き起こし、支那事変が勃発していた。南京入城が12月12日。こうした時代背景と深くかかわりながら「海ゆかば」は誕生した。国民の戦意高揚を意図してNHKは信時に作曲を嘱託した。しかし、この段階で「海ゆかば」が民衆の琴線に触れたかといえば必ずしもそうではなかったろう。NHK真珠湾攻撃成功を伝えるに際して「海わかば」を流したというけれど、その重厚にして、悲劇的に荘厳で、それでいてストイックな旋律の「海ゆかば」を聞いて戦意が高揚するしずなどなかったに違いない。「高揚」とは真逆なベクトルに人々の感情を導く旋律なのである。
海ゆかば」を誰でも知るようになったのは、大東亜戦争(1941)に突入してからのこと。1943年(昭和18)12月に文部省、大政翼賛会は会合などに際して「海ゆかば」を必ず歌うようにと命令し、「海ゆかば」を「君が代」につぐ準国歌に位置づけた。しかし、戦争経験者にとって「海ゆかば」が忘れられないのは、大本営発表発表の「玉砕」をNHKがラジオで伝えるに際して、必ず冒頭で「海ゆかば」を流すようになったからだ。「海ゆかば」には必ず死の影がつきまとうことになる。ラジオから「海ゆかば」が流れれば流れるほど、民衆の悲しみはつのった。「海ゆかば」は鎮魂の「弔歌」として民衆の間に定着した。私は今年88歳になる老婆から戦争体験の話を聞いたことがあるが、老婆によれば「海ゆかば」によって厭戦気分が醸成されたそうだ。「海ゆかば」には「非戦」の響きがあったというわけだ。
海ゆかば」の歌詞は『万葉集』巻18の大伴家持長歌の一節からとられた。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かへり)みは せじ

現代語に訳せば「後ろを振り返ることなど絶対にしないで、海を行くなら水に漬かった死体となって、山を行くなら草の生える死体となって、天皇の足元でこそ死のう」ということになろうか。民衆は一兵卒として故郷や故郷の家族、恋人を振り返ることなく天皇のために「玉砕」していった、死んでいった、たとえそれが犬死であっても、戦場に天皇を幻視し、「天皇陛下バンザイ!」と叫んで「死」を受け入れた。詩人の中村稔の『私の昭和史』によれば「大君の辺にこそ死なめ」を「大君のために死のう」と「忠君愛国」のイデオロギーをもって理解するのは誤読である。この長歌は「天皇」をそのように遠い存在としては捉えていない。「大君の辺にこそ死なめ」は「大君の傍で死にたい」と理解するのが正確なのである。それは天皇自身が兵士と共に戦場に赴く戦士であったことと切り離せない表現であり、天皇と兵士との距離は極めて近いのである。中村もまた「海ゆかば」を稀有な名曲と評価している。「海ゆかば」は「軍歌」というよりも、新保祐司が指摘しているように言わば「賛美歌」であり、「宗教曲」なのだ。信時は作曲家としてバッハの申し子であった。
私にとって「海ゆかば」は畳に座して目を閉じ静かに聞きたい名曲である。「君が代」もまた。