芥川賞・直木賞が決定!田中慎弥の不機嫌さがテレビで話題になったが、上野英信の名前を口にした葉室麟こそ注目したい!!

今回の芥川賞直木賞では5度目のノミネートとなる『共喰い』で芥川賞を獲得した田中慎弥が話題を掻っ攫った。亡くなった立川談志の「芸」を連想させずにはおかない受賞後の不機嫌な記者会見が新聞やテレビといったマスメディアがこぞって取り上げた。東京都知事もつとめる石原慎太郎が同賞の選考委員降板を表明したことと相俟ってのことである。毎日新聞デジタル(1月17日)から田中は記者会見でこう言い放った。

アカデミー賞で(大女優の)シャーリー・マクレーンが「私がもらって当然だと思う」と言ったそうですが、だいたいそんな感じ。4回も落っことされて、断っておくのが礼儀。断ったりして気の弱い委員の方が倒れたりしたら、都政が混乱するので。都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる。(会見)とっとと終わりましょう。

『共喰い』は田中が母親とともに暮らす下関を舞台にした作品だが、「地元(下関)の方も喜んでいるのでは?」という質問にも「それはウソです。本当に嫌われている」と答えた。こんな発言の数々にツイッター田中慎弥の話題で大いに盛り上がった。こんな具合である。

一瞬、談志師匠に見えたんだ。よく見ていると太田かなぁ <芥川賞受賞・田中慎弥「とっとと会見を終わりましょうよ」 喜びの声なく終始不機嫌> (TOSHI_ZAOLDYECK)

談志を連想したのは私だけではなかった。

おはようございます、編集室コセです。昨日の芥川賞を受賞された田中慎弥さん、凄かったですね。元々ああいう方なのか、それとも宣伝も兼ねてのああいった姿勢だったのか。後者だとしたら完全に視聴者は心を動かされたんじゃないかと思いますね(^^;)今日も一日、よろしくお願いします。(wassetter タウン誌「ワッセ」編集室 )

メディア側の「私たちには訊く権利がある」といわんばかりの質問に、気が向かない話には答えないと返す所がいい。これくらいのホネがないと純文学商売はツマラぬ。(yamagen_jp Hajime Yamazaki /山崎元)

シャイで正直な方ですね。共感します。(aritayoshifu 有田芳生)

鋭かったのは次のようなツイート。

受賞作、田中慎弥さんの「共喰い」を読んだと言うTVコメンテーターを未だ観た事も聞いた事がない。 読みもしないであ〜だ、こ〜だと言えるもんだ。一時間もあれば読めるだろうにと速読のオレは思う。

田中の『共喰い』は既に『すばる』で発表されている作品だが、マスメディアは、特にテレビは田中の作品よりも、田中のキャラクターに欲情してしまったのである。こうした報道のワイドショー化により、田中一人に話題が集中してしまったわけだが、私が最も魅かれたのは直木賞を受賞した葉室麟の記者会見である。受賞作『蜩ノ記』の登場人物のモデルを問われた葉室は以外にも江戸時代の歴史上の有名人ではなく、何と資本主義社会の底辺に蠢く無名の人々を描いたことで知られる上野英信の名前を口にしたのである。「NHK『かぶん』ブログ」(http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/)によれば、葉室はこう発言した。

モデルという意味ではなく、私は書き上げたあとにこれって自分の体験の中にあるよなという思いがよみがえったということはある、それはなぜかというと学生のころに筑豊で炭鉱労働者を書いている記録文学を書いていた上野英信(うえの・えいしん)さんを訪ねたことがあるんですね。僕は上野さんを尊敬していたので、尊敬していた人物を訪ねるというのはあのときのことだなと本になった後に思いました。あの中での農民は割と戦闘的なんですが、それはやっぱり、炭鉱労働者の争議、上野さんは争議を止める方ではなくて、ともに闘っていた人だと思うんですが、上野さんを訪ねた筑豊炭坑のイメージというのが、炭坑そのものは閉山しているんですが、そこにある何か。あの中に源吉という子供が出てきますけれども、あれはやっぱり炭坑住宅の子供なんだなと書き上げた後に思いました。今って尊敬している人のところを訪ねていくことはあまりないと思うので、お伝えしたいという思いはありました。

私もまた葉室同様に上野英信を尊敬している。もっとも葉室と違って上野本人を訪ねたことはないが、ジャーナリストという言葉は、そこいらの記者クラブに巣食う連中ではなく、上野英信にこそ捧げられるべきだと私は思っている。上野の代表作が炭鉱労働者を扱った記録文学の金字塔たる『追われゆく坑夫たち』である。その一節。

恐るべき体力の消耗をともなう地下労働者である彼らは、血を売るどころではないのだ。まして賃金もなければ食物もなく、ほとんど餓死寸前ともいうべき状態で働かされている彼らに、血を売る余力などあろうはずもない。…しかし、血を金にかえる意外にみちをもたない彼らは、水をのんでは空腹をおさえおさえ、よろめく足をふみしめながら福岡市〔約60㎞の道のり〕までも売りにでかける。

そもそも上野英信自身が炭鉱労働者の経験を持っていた。上野の略歴を簡単に述べることにしよう。
上野は1923年8月7日に山口で生まれるが、やがて父親の転職により北九州に移る。旧制八幡中学から満州国建国大学前期へ進学し、1943年12月1日関東軍山砲兵第二十八連隊第五中隊に入営し、短期間であるが満洲に駐留し、その後1944年8月6日見習士官として船舶砲兵教導隊第一中隊付となり、この時に被爆する。復員後、一九四七年京都大学支那文学科中退し、九州で炭鉱労働者となり以後九州にある海老津炭鉱、高松炭鉱、崎戸炭鉱等で働く。谷川雁森崎和江らとともに筑豊の炭鉱労働者に自立共同体として「サークル村」を結成し、機関誌『サークル村』も創刊し、労働者と農民、知識人と民衆、中央と地方、男と女などの断層と亀裂をサークル村を母胎とした大規模な交流で乗り越えようとする。
上野英信によってルポルタージュされた炭鉱は大新聞が報道し続けた大争議に発展した三井三池といった大手炭労の華々しい闘争ではなかった。「小ヤマ」と呼ばれ、労働組合の組織からも疎外されていた中小炭鉱を転々と渡り歩く未組織労働者、いわゆる「渡り坑夫」に寄り添って、その世界を記録し、文学にまで昇華させた。「だれも書きとめず、したがってだれにも知られないままに消え去ってゆく坑夫たちの血痕を、せめて一日なりとも一年なりとも長く保存しておきたい」という思いに上野は支えられていた。1987年11月21日没。上野は述べている。

文学のしごとは、ぼくにとっては、はたらくなかまたちに対する、つきることのない感謝と献身のちかい以外のなにものでもありません。…はたらくなかまたちによって、ぼくは、はじめて生きることのよろこびをしり、あなたがたをとおして、ぼくは人間のとうとさと美しさをしることができたのです。

福島第一原発の事故に際して警戒地域が設定されると、そこに一切寄りつこうとせずにお上の意向に沿って「大本営発表」を繰り返すばかりであった現在の新聞やテレビの記者とは全く対極にある精神の持ち主が上野英信だと断言しても良いだろう。そんな上野を葉室は尊敬し、『蜩ノ記』に出て来る源吉という子供は炭坑住宅の子供なんだなと書き上げた後に思ったというのだ。
私たちは五木寛之の『青春の門』や勝目梓の全盛期のバイオレンス小説に上野英信の痕跡を見て取れるが、葉室麟の時代小説にもその痕跡が残されていたとは!前藩主の側室と不義密通を犯したがために10年後に切腹を命じられた『蜩ノ記』の元郡奉行・戸田秋谷が虐げられた人々に対して熱く、どこまでも優しい理由がこれでわかった。