出版の歴史から「美しい顔」を消さないために  第4回

著作権侵害と「盗用」の違いとは?

2019年8月10日、芥川賞を受賞した今村夏子の「むらさきのスカートの女」が全文掲載されている『文藝春秋』9月号が発売された。同時に芥川賞の選考委員による選評も公開されたわけだが、この選評で古市憲寿の「百の夜は跳ねて」が複数の選考委員から酷評されていることがSNSで話題になった。それは古市が木村友祐の「天空の絵描きたち」を参考文献として記載していることに起因している。
山田詠美は「木村友祐作『天空の絵描きたち』を読んでみた。そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい」「候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る」と評価している。
川上弘美は「結論からいいます。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのまま『百の夜は跳ねて』の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです」「古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持にかける行為であると、わたしは思います」。
吉田修一は「本作に対して、盗作とはまた別種のいやらしさを感じた」「あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う」。
堀江敏幸「他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか」。
こうした選評を読んだ人たちが「有名」な古市が「無名」の木村友祐の作品を利用したのではないかという「憶測」がブログやツイッターで飛び交い始めたのである。
こういうツイートが拡散している。
《これ古市氏の短編小説の最後に「参考文献」として他の無名作家の小説が公然と挙げられているという異常な事態に、選考委員たちが書籍にもなっていないその小説を読んでみたら出来が良く…これ…文学業界これ…パク…ゴー…お前これ…とみなさん絶句しているというエグい状態です。芥川賞史に残る批評。》
北条裕子の「美しい顔」が参考文献を付記して発表され、芥川賞の候補になっていたならば、やはり古市のように酷評されることになったのだろうか。
2018年7月11日付産経ニュースが「芥川賞候補作『美しい顔』、既刊本と一部記述が類似 震災への向き合い方と表現のあり方問う」を掲載。
著作権法に詳しい福井健策弁護士も、「作者が今回、作品中に既刊本から借用したのは、現実に起きた『事実』と思われる点や短い比喩表現などで著作権侵害の域にはおそらく達しない。ただし、参考文献などの配慮は欲しかった」とみる。
一方、既刊本の筆者らは法的問題とは、別の問題があるとする。『3・11 慟哭の記録』の編者である金菱清・東北学院大教授は出版元を通じ、「美しい顔」には無神経な取材をするマスコミへの怒りを表現した部分など、十数カ所の類似部分があると指摘。「すぐに、(特定の人の)モチーフを採ったものだとわかるレベル。問題は表現の一言一句ではなく、ことの本質は当時の『人間の体温』や『震災への向き合い方』にかかわるもの」と疑問を呈した。》
毎日新聞は同年7月12日付で武田徹の「メディアの風景震災小説の類似表現問題 文学的価値を議論せよ」を掲載。武田は「一般的な規範と文学を評価する価値観は必ずしも重ならない」と書いているが、ここまでは同意できる。ただし、私にとってこの問題における「一般的な規範」とは「著作権侵害」にほかならない。
例えば私が小説を書くにあたって、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と書き出したとする。果たして、これは著作権侵害となるのだろうか。答えはノー。著作権侵害にならないのである。田村善之の『著作権法概説』(有斐閣)がこう書いているのは有名なハナシだ。
「たとえば、『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』とは、川端康成の小説『雪国』の有名な冒頭であるが、この一文自体は、国境のトンネルを出たならば雪国であったという状態(=アイディア)を文章にすることが決まっているのであれば誰でも思いつく文章の一つであるから創作性を欠く。この程度の長さの文書に著作物性を認めると、幾人目か以降はこのアイデアを表現することができなくなるということを勘案しなければならない」
実は、こうしたこともあってか著作権侵害をめぐる判例は圧倒的に少ないのである。山崎豊子の「大地の子」裁判ぐらいなものである。これも山崎豊子著作権の侵害は一切認められないと、山崎の全面勝訴に終わっている。
栗原裕一郎は『〈盗作〉の文学史』で田村『著作権法概説』が「雪国」について触れた箇所を引用したうえで次のように書く。
「したがって、マスコミが報じる盗作疑惑や、ネットで騒がれるパクリ疑惑のほとんどは、ある程度以上の分量を丸々写しているとか極端な場合以外、法廷で争われたとしても著作権侵害にはおそらく問われないだろうという推測が成り立つ」
このことは北条裕子の「美しい顔」問題でいえば、恐らく講談社も新潮社も新曜社もわかっていることなのである。しかも、いわゆる「盗作」問題は簡単に加害者と被害者が入れ替わる。今日の加害者は明日の被害者であり、今日の被害者は明日の加害者なのである。だからこそ当事者やジャーナリズムにおいては冷静な議論が必要なはずだ。著作権法という「一般的な規範」に頼り切ってはならないのである。
さらに今一歩踏み込んでいうのであれば、文学であれ、ノンフィクションであれ、学術であれ、その未来に拓かれた可能性を考えるのであれば、「類似」「酷似」「盗作」「盗用」「剽窃」「パクリ」といった問題は「著作権侵害」という法律用語に閉じ込めて考えるべきではないと私は思っている。栗原裕一郎も同じように考えたのではないか。そうであればこそ栗原は『〈盗作〉の文学史』を完成させたのであろう。

問われるべきは作家としての倫理 版元としての見識

繰り返すことになるが、被災地を訪ねることなしにノンフィクションやフィールドワーク、報道を参考にして、自らの創造力と想像力をもって震災文学を書きあげることには何の問題もあるまい。問われるべきは、「類似」の程度であり、北条裕子の作家としての倫理であり、講談社の版元としての見識ということになろうか。
朝日新聞デジタルが同年7月11日付で「震災、著作権芥川賞候補作の類似表現、作家の流儀問う」を掲載している。逢坂剛ではないが北条には資料を徹底的に読み込み、自身の作家としてフィルターに通して独自性を生み出す作業が欠けていたのだとやはり思わざるを得ない。
「七年前、物見遊山に被災地に車を飛ばした作家たちの誰が、ここまで緊張した文体でひとりの少女の絶望を描けたというのか。大方は格好のネタ探しとばかりに、東北旅行をしただけである」(大波小波)のだというなら、尚更、表現において独自性を獲得するまで資料を読み込むべきであったのである。
私には次のような藤田直哉の心情がよく理解できる。
《北条裕子「美しい顔」読了。……これは決して出来の悪い小説じゃないし、むしろ結構いい。剽窃部分以外の文章に才気は確かにある。主題系も結構複雑に入り組んでいるし、災害の簒奪などについての意識も含まれていないわけではない。しかし一方で、倫理的不快さも拭い難くあるのも確か。》
『ジャパニーズ・アメリカ 移民文学・出版文化・収容所』(新曜社)が印象深い日比嘉高による「『美しい顔』の『剽窃』問題から私たちが考えてみるべきこと」は熟読しておきたい。
《「剽窃」問題が起こって以降、ネット上の「美しい顔」の評価はひどいものになっている。大きく毀損されたその価値は戻ることはないだろう。私たちは炎上してしまった記憶を抜きにして、この不幸な小説作品を読むことはできない。
作者の落ち度と言えばそれまでだ。だが私は、批判の尻馬に乗ってこの作品を、つまらないだとか、面白くないと言い立てる人々の批評眼を信じない。なぜなら、それは潮目が変わったのを読んで、その流れの中で行っている、単なる倫理的批判でしかないからである。この作品は優れていた。表現の盗用をしたから優れていたのではない。表現の盗用をしていたにもかかわらず優れていた。タラ・レバを言っても仕方ないが、正当な手続きをしていたならばこの作品が本来受けていただろう高い評価が、初歩的な過誤によって永遠に損なわれたことを、私は悲しむ。》
「初歩的な過誤」を生じさせてしまったのは何故なのか。落ち着いて議論したかったし、後世のためにも検証しておきたかったのだけれども……。
ハリガネムシ』で芥川賞を受賞した吉村萬壱のツイート。
《小説は語りの文化なので、他人の語りを混ぜたら台無しになってしまうことがある。そんな事をする必要がなかったのだと、『美しい顔』の改稿版と次作で証明する機会が、北条裕子氏に与えられる事を望む。混ぜ物なしの純粋な彼女の語りを、一読者として一度は読んでみたい。》
河津聖恵は詩人だ。詩集『アリア、この夜の裸体のために』で知られる。河津が次のように連続ツイートしていた。
《北条裕子さんの新人賞受賞のコメント。自分の苦しみと被災地の苦しみが非対称である苦しみから出発すべきだった。それが3・11後の文学であるはず。》
《議論が盗用か否かというテーマに収束しすぎていて、文学における本質的な問いかけを誰もしていない気がする。そういう意味では関係者以外はみんな同じかも知れない。》
《昨夜京大で話を伺った村田喜代子さんの最新作『焼野まで』も同じく被災地に行かず、自分の苦しみの中から書かれた3・11文学。著者は放射線治療を受けて宿酔し苦しんだが、その宿酔の苦しみと、遠くで被曝する人々の苦しみの非対称をつよく感受している。本物の罪悪感を込めた筆致は、心に響いた。》
《つまり私自身の問題になったということかな。》
《作者には盗用とさえ言われてもかまわないという気持もあったのかも知れない。それほど思いがつよいというより、事実を伝える言葉への不信や軽侮がどこかにあったのかも知れない。発表媒体から察するにそれはポストモダンの悪しき影響だろうか。それとも思春期が再燃しての反抗だろうか。》
《かつてやはり『群像』新人賞を取った『ジニのパズル』と「美しい顔」はスタンスが酷似する。あれもかつては一年間だけ通っていた朝鮮学校について、今はそこにはいないからこそ作者は学校の真実を描けるというものだった。しかしそれは決して真実ではなく、実在の生徒たちの尊厳は無視されていた。》
河津は『パルレシア――震災以後、詩とは何か』(思潮社)で「震災以後の詩とは、『パルレシア』の意志としての詩であると私は思う。それは震災と原発事故によって、人間としての権利を剥奪されたことを嘆き訴える声々と、遙かに共鳴しあわずにはいられない」と喝破した詩人である。「パルレシア」とは古代ギリシャの哲学者ディオゲネスが、自由の象徴として、世界市民としての原像としてあげた言葉にほかならない。河津聖恵の「Front(光と夜のあいだで)」の一節を引用しよう。
《ちいさな痛みとなって繰り返される言葉は、どこの国のものでもなく、あるいはどこの国のものでもあり、海鼠の吐き出す泡となって浮上してゆく。翻訳不能。計測不能。応答不能。ひとというものの奥底で海鼠はちいさな問いの泡でわたしたちをくるしめる。》
講談社は「美しい顔」のインターネットでの全文公開を、2018年7月13日18時をもって終了した。光は夜に触れたのか?夜は光に触れたのか?

編集者は編集者の役割を果たしたか?

産経WESTが同年7月13日付で「芥川賞候補『美しい顔』類似表現騒動、出版業界の甘さ露呈 被災地に一度も入らず執筆の新人のマナーは…」を掲載している。
《出版業界内では、新人作家の原稿のチェックが行き届かなかった講談社側の対応の甘さを指摘する見方もあり、「表現を変えるなどして、避けることができた問題」との声も。
ある大手出版社の編集者は「作品の魅力は、指摘された類似点とは別のところにある。今回のことで、彼女の創作生命が閉ざされることは避けてほしい」と話した。》
毎日新聞は7月13日付で「『盗用』?『必然の引用』? 芥川賞候補作に類似表現」を掲載した。
《類似点は物語全体ではなく細部に限られ、講談社は『問題を含んでも、本作の核心と価値は損なわれない』と強調する。だが『切り張り』の印象はぬぐえず、評論家や書き手からも『盗作、盗用』との声が上がる。ある出版関係者は『類似箇所は(引用元と)ほぼ完全に同じ表現だ。自分の言葉になっていないことが問題の本質ではないか』と漏らす。
一方、毎日新聞文芸時評で作品を激賞した文芸評論家の田中和生さんは『盗作ではない』とみる。取材に『(引用に)必然性があり、作品の説得力にもつながっている。被災者ではないからこそ書けた。傑作だ』と改めて評価する。》
大江健三郎によれば中野重治は「独特な細部の観察から少しずつ論理を展開していく、作品を展開していく」ことで「ついにはきわめて大きいものを組み立てていく」作家であったそうだ。中野は細部を大切にしたのである。小説家とは細部の人間にほかならないのである。全体としての整合性をいきなり求めてしまうと、小さなものの前で足踏みをしなくなるのではないか。『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』(講談社)は「美しい顔」に向き合う私たちにとって示唆的にして、刺激的な一冊である。
ブログ「されど われらがヘブン」が「北条裕子『美しい顔』感想、のようなもの――小説とはなにか、という問い」をエントリした。
《「美しい顔」について、当然するべき参考資料のチェックと事前の諸調整を群像編集部が怠った経緯については、すでに講談社が公表しているとおりなのだろうが、そのずさんさには正直驚いている。
複数の参考文献があることを把握していながら、時間切れを理由にチェック不充分のまま作品の掲載に踏み切ってしまったことは、言いわけのしようがない重大な落ち度だ。売らんかなではなく、本当にこの新人を手ずから育てるつもりなら、群像編集部は、ぜったいにそんなことをしてはならなかった。》
河北新報が7月18日付朝刊社会面で「〈芥川賞候補「美しい顔」〉きょう選考会 異色の震災小説、評価は 東北も注視」を掲載した。
仙台市の出版社、荒蝦夷の土方正志代表は「想像をはるかに超えた巨大災害を取り上げるのに5冊は少ないのでは」と驚く。「現場に行かずとも小説は書けるが、もっと準備して自分なりの考えを持っていれば、類似表現にはならなかっただろう」とみる。
仙台市で高校時代を過ごし、盛岡市に実家がある作家木村紅美さん(東京)は「震災は言葉を失わせるほどショックな出来事。現在進行形の生々しい問題で、直接の題材にすることは自分にはまだできない」と実作者としての実感を語る。
自身は震災後、小説を書けなくなり、沿岸部のがれき撤去のボランティアに通った。「経験していないことを想像力で書くことは文学の王道。被災地と距離があるからこそ書けたのかもしれない」と話した》
土方正志が「5冊は少ない」と言っているのは、北条裕子が参考文献とした書物の数である。
河北新報は、この記事の横に「〈芥川賞候補「美しい顔」〉自身の内面理解のために震災が舞台設定に使われただけ/被災者の手記編集 金菱教授に聞く」を掲載している。金菱は言う。
《類似は十数カ所あり、学生がネットで拾った情報を切り貼りしてリポートを書くのと同じレベルの流用だった。研究者が論文でやれば懲戒処分となるケースだが、文学作品なら許されるとの認識は理解できない。》
荒蝦夷は「本日の河北新報朝刊社会面。北条裕子『美しい顔』。東北被災地では『問題』ではなく既に『事件』」であるとツイートしている。
「AbemaTIMES」が掲載した「いよいよ芥川賞が発表へ 『美しい顔』に〝無断で使われた〟被災者たちの胸中、そして文学とルポの違いとは」は、石井光太のノンフィクション『遺体』で石井に取材を受けた人たちが発言している。医師の小泉嘉明は、こう語っている。
《北条さんにはベースがないもんだから、書きようがないんだよ。》
元葬儀所職員の千葉淳の発言。
《石井さんは修羅場をくぐってきた方なんで、〝ご遺体の頭を持ち上げて下さい〟と言えば〝はい〟ってすぐやってくれる方で、この人は素晴らしいなと思ってお付き合いを始めたんです。》
《北条さんが私の傍に付いて、私の言葉を聞いて書いたわけじゃなく、石井さんの作ったものを引用しているのだから、ちょっと解せないところあるよね。》
仙寿院の芝粼惠應住職の発言も聞こう。
《簡単に感動したからって使うっていうのは非常に安易すぎるし、被災者からすれば小説などには使ってほしくないっていうふうには思います。》
《亡くなった人と遺族の気持ちを踏みにじることは絶対にダメだと言った。石井さんもそれは理解していましたので、〝これで間違いないか?〟って、何度も確かめて書かれている。》
釜石市で書店を経営する桑畑眞一の発言。
《作品が良ければいいんじゃないかと思いますよ。それを無断で引用したことは悪いことなのかもしれないけど、あくまでも作品で判断されるべきだと思います。それ以上でもそれ以下でもないと思います。》
『3・11 慟哭の記録――71人が体感した大津波原発・巨大地震』の編者である金菱清の発言。重い。
《表現の類似性ではなく、文学の本質性が問われている。》

金菱清「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」

金菱清がブログ「新曜社通信」に署名エントリとして「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」 を発表した。
《作者の北条裕子氏からいただいた私(金菱)への手紙によれば、震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)「自己の内面を理解することにあった」とある(私信のため詳細は省く)。つまり、小説の舞台がたまたま震災であっただけであり、その意味においては、安易な流用の仕方も小説特有の「自由な」舞台設定と重なる。そして主人公の口を衝いて出る言葉を通して「雄弁」に震災を物語ろうとする。受賞の言葉にも、私信にも、執筆動機として震災の非当事者としての私的な自己理解の欲求が述べられ、おそらく次の小説の舞台装置があるとすれば、震災ではないだろうことは容易に想像がつく。つまりその程度の位置づけでしかない。》
講談社の「その類似は作品の根幹にかかわるものではなく」というコメントは、言い方を変えれば、類似程度は文学的価値に比べれば、些末な問題であるとも聞こえてくる。根幹ではない私たちの軽い震災記録とは一体何かを考えざるをえない。》
野間文芸新人賞の選考委員でもある 星野智之は自らのフェイスブックに、「新曜社通信」同エントリから次の部分を引用していた。
《当事者もどう震災を理解してよいのか考えあぐねている場面に多々巡り会う。小説家だけが言葉を書く特権性を持ちうるのだろうか。否、市井の人々こそ言葉を書き綴ることの文学性を持ち合わせていると痛感する時がある。私は当事者が自らの意思で書き綴る手紙と、そこから読み取れる深い沈黙の意味を、ライティング・ヒストリーと呼んでいる。》
そのうえで星野は、こう書いている。
《文学に関わる人は、この金菱さんの文章は読んでおいてほしい。
私が『眼魚』になったのは、これが原因のひとつだと思う。
そして、いろいろな人に、『小説、書いたら?』と言っているのも、これと重なるものがある。》
北条裕子はこうした金菱清の言い分を木っ端微塵に粉砕しない限り、『美しい夏』は文学としての生命を絶たれてしまうことになるのではあるまいか。実は金菱清が背負っているのも『文学』なのである。柳田国男の『遠野物語』が文学であったように金菱清の『3・11 慟哭の記録』にほかなるまい。
仲俣暁生フェイスブックに金菱の同エントリから次の部分を引用していた。
《受賞の言葉にも、私信にも、執筆動機として震災の非当事者としての私的な自己理解の欲求が述べられ、おそらく次の小説の舞台装置があるとすれば、震災ではないだろうことは容易に想像がつく。つまりその程度の位置づけでしかない。》
そのうえで、仲俣はこう書いている。
《本日付の金菱さんの新しいコメント。私信の中身は容易に想像がつく。北条裕子が真の作家なら、舞台を火星かどこかに移して同じ話を書き直してから本にすればよいと思う。まったくの架空の話として。》
宮崎市の貧困なる外商専業の書店人」を名乗る閑古堂は、同じく「新曜社通信」同エントリを引用してツイッターに投稿している。
《薄皮一枚でかろうじて繋がり未だ傷の癒えない人々にとって、否応なく小説の舞台設定のためにだけ震災が使われた本作品は、倫理上の繋がり(当事者/非当事者の溝)を縮めるどころか、逆に震災への『倫理的想像力』を大きく蹂躙したのだと私は述べておきたい。》
『イサの氾濫』(未来社)の木村友祐もフェイスブックで金菱清のエントリに早速、反応していた。
《重く受けとめた。想像力で書かれるフィクションが、現場の、生身の人間に対する想像力を欠いていたとしたら? これは、小説を書くだれもが考えなければならないこと。また、震災から7年たって、小説の言葉は一体何ができたのか。それも考えさせられる。痛い。》

詩人・河津聖恵の連続ツイート

詩人の河津聖恵は日比嘉高による「『美しい顔』の『剽窃』問題から私たちが考えてみるべきこと」から「小説の言葉は奪うが、奪ったままにはしない。小説がそこで行うのは、奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく作業だ。」というフレーズを引用しながら、「しかし収奪された側の要請のない編集や意味付与は、やはり再収奪では。」と呟いたうえで、次のように連続ツイートをしている。蛇足ながら言えば河津の『新鹿』は、中上健次がまるで乗り移ったかのような凄みを感じさせる詩集である。
《私も紀州・熊野を旅したフィールドワーク詩集で、彼地で聞き取った人々のことばをいくつも引用している。それはその人たちの生がそのことばにおいて輝いていたからである。》
《ポスト震災文学というカテゴリーは、ありえないのではないか。震災にことばが向かい合うのは、震災という甚大な喪失と引き換えに、ようやくこのエゴイズムの社会が思い出しえた生のかけがえのなさだ。それは様々な意味で立ち戻ることなのだから、ポストという謳い文句とは無縁なのだ。》
《私も「美しい顔」を読んだけれど、よく出来た小説と思いつつ、残念ながら震災という甚大な喪失と引き換えに生まれたことばとは思えなかった。しかしそれは今の小説の問題ではないか。あの未曾有な震災にたいして、ポスト震災と自ら称する手つきでは、死者や被災者の沈黙には永遠に拒まれるだろう。》
《あと、「美しい顔」の描写は漫画的で、今若い世代が小説を書く時に、頭に描くデッサンは漫画なのかも知れないと思った。そのことも震災と向き合うには、不向きだったかも知れない。別のテーマを選ぶべきだった。》
《でも、だから「人間を理解したかったのです」と謝罪コメントにあったのだろう。わたし、ではなくて。》
《しかし私は、一番の問題は、この小説をポスト震災小説などという商品に仕立てた人々にあると思う。商品だからモラルなんか知らない、売れればいいと考えていたのでしょう。その証拠は、絶賛する評者たちのことばの、異様な貧しさである。》
《作者自身はそうした「ポストモダン」の商魂に、ある意味で乗りつつ、じつはすかいに見ているのかも知れない。この小説のヒロインと同様に。》
講談社において文芸と広報を担当する渡瀬昌彦常務取締役は、こうした河津のツイートを読んで恥ずかしくならなかったのだろうか。河津聖恵のツイートは金菱清の「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」と、まさに共振しあっているではないか。『はじめての沖縄』(新曜社)の社会学者・岸政彦は、こうツイートした。
《文学的価値についてはわかりません。でも、俺は素朴に、たとえば自分がいま必死になってやってる沖縄戦の聞き取りの語りのディテールが、どこかの知らない作家に勝手に流用されたらブチ切れると思うけどね。
法的に剽窃に当たるかどうかは関係ない。》
こうした岸のツイートを乾智之広報室長は、どう思ったのだろうか。「商魂」に奉仕するのが広報の仕事だと思ったら大間違いだと忠告しておこう。

石井光太『遺体』が孕む問題

講談社の文芸誌『群像』2018年9月号に次のような「美しい顔」についての「告知」が再び掲載された。講談社からすれば、新曜社に対する「誠意ある対応」を示したということになるのだろう。
《小誌二〇一八年六月号 P.8〜P.‌75に掲載した第六十一回群像新人文学賞当選作「美しい顔」(北条裕子)について、前号八月号に続き告知いたします。
同作において描かれた震災直後の被災地の様子と被災者の経験の一部は、『3・11慟哭の記録 71人が体感した大津波原発・巨大地震』金菱清編/東北学院大学 震災の記録プロジェクト(新曜社)に大きな示唆を受けたものです。
また、『メディアが震えた テレビ・ラジオと東日本大震災』丹羽美之/藤田真文編(東京大学出版会)、『ふたたび、ここから 東日本大震災石巻の人たちの50日間』池上正樹ポプラ社)、文藝春秋二〇一一年八月臨時増刊号『つなみ 被災地のこども80人の作文集』(企画・取材・構成 森健/文藝春秋)も、同様に作者による「美しい顔」執筆の上でなくてはならないものでした。
「美しい顔」六月号発表時に参考文献の扱いに配慮を欠き、類似した表現が生じてしまったことを、金菱清氏及び関係各位にお詫び申し上げます。主要参考文献として未表示だった上記書籍の編者著者と関係者、東日本大震災において被災された方々、被災地で御尽力された方々に対して、重ねてお詫び申し上げます。》
新曜社通信に金菱清の「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」が掲載されたのは、この文章が発表された後のことである。
「AbemaTIMES」が「異例の『類似騒動』に揺れた芥川賞大森望氏『これからの文学のためにも、徹底的に議論すべき』」を掲載している。大森望が次のように発言している。
《…騒動がなければ、震災を題材にしたああいう小説が書かれ、それを書いたのは若い女性で、ということも世間に知れ渡らなかったかもしれない。社会との接点があまりない文学の世界で、芥川賞直木賞は人々との接点が生まれる唯一といってもいい機会。それを今回のように日本的な決着で何事もなかったかのように流してしまって良かったのかどうか。参考文献から似た表現をパクってくるような作家は候補にすべきではなかったという考え方と、小説の良さ、面白さは別なんだから、そこは別に判断するという考え方の両方があり得ると思う。
仮に今回、〝受賞作なし〟という判断であれば、それはやっぱり『美しい顔』問題のせいだと言われたかもしれない。これだけの騒動にはなったが、みんなが〝芥川賞はこれでいいのか〟と怒るくらいの方が、文学にとってはためになる。今後、北条さんがデビューした『群像』で大特集を組めば良いいという意見や、単行本は該当箇所を墨塗りで出せばいいという意見もある。本の出し方も含め、むしろ徹底的にやった方がいい。》
「AERAdot.」が小林哲夫の「盗用疑惑『美しい顔』にみる、新潮社と講談社の遺恨」を掲載した。
《新潮社にすれば、講談社主催の賞選考で「小説」と酷評された「遺体」を、講談社が発表した「美しい顔」のなかでノンフィクションとして参考文献に入れていることに、引っかかるものがあるかもしれない。
講談社からすれば、「美しい顔」をすばらしい純文学として世に問いたいという思いは強い。そのためには、かつて酷評した石井氏を含めて参考文献の編著書には、誠実に対応しなければという姿勢を感じる。》
私にとってみれば「遺恨」などどうでも良いこと。重要なのは、そんなことではない。私見を述べておこう。石井光太の『遺体』が「三人称によって物語化した」「ノンフィクションではなく、ほとんど小説のよう」な文学的作品であったればこそ、北条裕子の「美しい顔」に「AERAdot.」の言葉で言えば「盗用疑惑」というほどの痕跡を残してしまったのである。金菱清編『3・11慟哭の記録』との関係においても同じことが言い得るのである。『3・11慟哭の記録』という作品が持つ柳田国男の「遠野物語」に匹敵するような「文学的磁場」に「美しい顔」は巻き込まれてしまったのである。

「美しい顔」と古市憲寿との距離

「ヤフー!ニュース個人」に石戸諭の「流用疑惑の芥川賞候補『美しい顔』 それでも高く評価される理由とは?」が掲載された。私も類似表現を改めたうえで単行本として出版すべきだと思った。日比とは名古屋大大学院准教授の日比嘉高であり、石戸と日比は2018年7月17日、芥川賞発表前日に控えた東京・六本木にある「Abema Prime」のスタジオで議論を交わしているのだ。
《まず私も日比さんもこのまま出版されることを良しとはしていない。類似した表現については改めるべきだと考えている。
日比さんは「表現を引き写してそのまま書いてしまったことについては言い訳不能」として、苦労して手記にまとめたり、取材で託されたりした言葉を「横からかすめ取るようなこと」は許されないと話していた。
私も大いに同意する。北条さん自身がもっとテーマを深めれば、引き写したかのような表現を使わずとも、世界を再構築することはできたはずだ。
これは書き手の姿勢の問題であり、なにも震災に限ったことではない。戦争を舞台にしようが、あるいは犯罪被害者を主人公に据えようが同じことだ。
参考文献があることはいい。想像で描くこともいい、しかし、表現を「借りすぎ」たり、敬意を欠いた言葉は批判の対象になる。それだけの話だ。》
何度でも書く。文学においては、著作権法を盾に取る考え方は文学的に粉砕されなければなるまい。石戸は「美しい顔」について「この作品は芥川賞にふさわしくないと考えている」とも書いている。
結局、芥川賞は激戦を制して高橋弘希の「送り火」に決まった。芥川賞選考会当日の報道は、いつもは受賞作のみに集中するが、今回は「美しい顔」にも注目が集まった。「NHK NEWS WEB」は「芥川賞候補作に類似表現 選考委員から『昇華の努力不足』」を掲載している。
《18日、芥川賞の選考会のあとの記者会見で、選考委員の1人の島田雅彦さんは、この作品についても言及し、「いわゆる盗用にはあたらない作品だと選考委員の間で確認した」としたうえで、「そうだとしても、参照や引用した作品への態度や誠実さは問題になると思う。事実の吟味や自分なりのフィクションとしての表現に昇華していく努力が若干足りなかったのではないかという意見があった」と話しました。》
スポーツ報知は「…選考委員の会見で、これほど一つの作品に関する質問が集中したのは初めての経験。それも落選作への質問がこれほど相次ぐとは…」と書いている。
《ノンフィクション作家・石井光太さん(41)の「遺体 震災、津波の果てに」など複数のノンフィクション作品との類似表現が問題になっていた「美しい顔」。島田さんは「事実には著作権はありませんので誰もが書く自由はある」とした上で、「事実を吟味し、自分の中で換骨奪胎して、フィクションとして昇華する努力が北条さんには足りなかった」と断罪した。》
2019年8月、木村友祐はブログ「古市憲寿さんが芥川賞選考委員にいろいろ言われちゃってる件」の「要するに、古市さん、文芸誌に掲載されたが出版されていない佳作を探してきて、うまいこと翻案して小説書いたようである」という部分を引用しながらをツイートの投稿を始めた。
《違いますよう。古市さんが窓拭きに興味をもち、取材依頼があり、応じました。窓拭きの達人を紹介しました。古市さんはその取材をもとに書いてます。》
更に、こうもツイートする。
《窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、〝知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家〟ではありません。知名度はないけど。》
古市はしっかりと木村にも話を聞き、窓拭きについて取材したうえで小説を書いていたのである。木村のツイートはつづく。
《窓拭きが落ちて死ぬ、というエピソードなどの細部が似るのは、同じその達人から取材したからだし、実際に死ぬ人がいるから、仕方ないのです。選考委員の方々の批判は、それとは別角度のものかもしれませんが、窓拭きの描写に関しては、違和感はありませんでした。》
木村は古市を擁護しているのである! 『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社)の作者らしいではないか! 次のツイートこそ木村の真骨頂である。
《この件に関しては、「無名」のぼくのことを心配して下さるより、また小説云々より、街を歩いていて見かける、ガラスの反射熱を浴びながらビルに張り付いて窓を拭く人たちに想いを寄せてくれた方が、うれしいのです。こんなに機械化が進んでも、窓拭きは人力で、今も時には人が亡くなります。》
「美しい顔」は商魂によって倫理と見識を消されたのである。