【緊急特集】講談社『美しい顔』刊行に至る「協議と交渉」の内実 (『出版人 広告人』2019年5月号より)

新曜社 編集部・小田亜佐子 営業部・部長 中山修一

聞き手 岩本太郎+今井照容  構成/今井照容

 

金菱清教授も新曜社も『美しい顔』出版に一度もイエスと言っていない

〈「群像」2018年6月号に掲載した第61回群像新人文学賞当選作「美しい顔」(北条裕子)について、著者の北条裕子氏ならびに編集部は、発表時の参考文献未掲載の過失を反省するとともに、各位からのご指摘を真摯に受け止めて文献の扱いについて熟慮し、文献編著者および関係者との協議と交渉を経て、著者自身の表現として同作を改稿いたしました。

 つきましては、2019年4月17日、北条裕子著『美しい顔』を著者の第一著作品単行本として講談社より刊行いたします。

 参考文献編著者および関係者の方々には多大なご迷惑をおかけしてしまいましたことを改めてお詫び申し上げます。また、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災された方々、被災地で尽力された方々の安寧を心からお祈り申し上げます。

群像編集部〉

 

本誌 講談社が4月4日付で発表した「『美しい顔』刊行についてのお知らせ」には、「文献編著者および関係者との協議と交渉を経て」とありますが、実際、「協議と交渉」とは、どういうものであったのか。その経緯から教えていただければと思います。

小田 去年6月に「美しい顔」が芥川賞の候補にあがり、7月の選考会では落選しましたが、それで終わったわけではなく、その後8月に講談社の『群像』編集長より私ども新曜社に『美しい顔』の修正協議の申し入れがありました。これに対して、『美しい顔』に類似表現があった『3・11慟哭の記録 71人が体感した大津波原発・巨大地震』の編著者である金菱清教授の意向として「『美しい顔』は作品として認めがたい、協議はお断りする」とお伝えしました。しかし、再度、『群像』編集長より要請がありましたので、講談社と断絶はせず、教授への連絡役のみ引き受けました。そうしたやり取りが一応12月初旬まであり、それを指して講談社さんは「協議と交渉」とおっしゃっているのだと思います。

本誌 昨年、12月以降、講談社からは何のアプローチもなかったのですか。

小田 なかったですね。それで、4月4日に『群像』編集長より『美しい顔』の発売日と『群像』巻末とHPにおいて出版を告知する旨の連絡を受けました。私はそれを金菱教授にメールしたつもりでいたのですが、送信失敗で伝わらず、同日、講談社HPに掲載された「『美しい顔』刊行についてのお知らせ」を読んだ金菱教授が、それは違うということで、ツイートを公表されたわけです。

 

 ツイートの内容は「『美しい顔』の出版について談話だと当方が協議や交渉を経て改訂稿を認める形になっています。そのような事実はなく、改訂案が一方的に送られてきました。原作者が『剽窃』の疑われている作品の改訂への関与など断じてありえません。編著者の関与について撤回訂正を求めます」(2019年4月7日)

 

本誌 昨年12月までのやり取りとは、どういうものだったのですか。

小田 発端はこちらが昨年6月末頃に『3・11慟哭の記録』との類似表現を指摘する郵便物を送り、『群像』編集長に問い合わせました。それ以後は、電話、メール、面談で接触して来られたので、それを金菱教授に伝えました。

本誌 金菱氏は講談社さんと直接、接触されたのですか。

小川 一度もなかったですね。直接訪問してお詫びしたいと言われてましたが、教授からお断りがありました。

本誌 昨年、日経新聞は9月1日付で「小説『美しい顔』類似論争 『事実と創作』議論欠如 作家のモラルの問題/参照記載ルールなく」「単行本化へ協議『妥協点見えず』」を掲載していますよね。この記事を読んで、金菱氏との協議は難航しているのかなとは思っていました。

小田 記事が出たことは知っていますが、その時、日経新聞の取材は受けていません。新潮社さんを取材されたのかなと想像しました。

本誌 作者の北条裕子さんが金菱さんに手紙を書かれましたよね。

小田 金菱教授へのお手紙があったのは、昨年7月のことです。

本誌 芥川賞の発表後に北条氏から接触があったことは……。

小田 それはありませんが、昨年10月に『群像』編集長を通して『美しい顔』の改稿案と思われる書類を受け取りましたので、金菱教授に送りました。最初から金菱教授は「作品として認めがたい、協議はお断りする」という立場を一貫させています。それでも、話し合いを継続して下さいと講談社さんがおっしゃるので、新曜社はあくまで伝えるだけですとして送りました。11月にかけて『群像』編集長より数度、改稿案についての返答を要請されましたが、金菱教授に問い合わせても、何もありませんでした。

『美しい顔』は、作品自体は『群像』に掲載され、すでに世に出ているわけです。書籍としての出版を前提にしない修正協議などありうるのでしょうか。金菱教授はそうした話には乗れないと、沈黙されたのだと思います。

 12月初旬にも督促されましたが、作品の撤回を検討して欲しいとのかねてからの教授の要請以外、お伝えすることはありませんでした。『群像』編集長は、作品の根幹は揺るがない、今後はもう(改稿や出版について)連絡しない、本ができたら献本を送ると言われて、それ以降は4月4日まで連絡はなく、4月16日に『美しい顔』2冊の献本を受け取りました。

 

「協議と交渉」は担当者間の事務折衝

 

本誌 対応の仕方が横柄だったのですか。

小田 非常に丁寧でしたよ。お話した時やメールの対応は本当に礼儀正しく、丁寧でした。ともかく協議して下さいと。こちらが一度断っても、話し合いを継続してくださいと。そこで完全に断絶してしまって音信不通も困りますので、金菱教授に要件をお伝えしますという伝書鳩の役割に徹しました。弊社の社長からも金菱教授の意向に沿うように指示されました。

 講談社HPでは『美しい顔』には参考文献未記載の問題はあったが、作品の根幹にはかかわらないと疑惑を否定し、小社との面談でも『美しい顔』をもって北条氏をデビューさせたいと語り、金菱教授と小社への「お詫び」にとどまらず、出版するんだ、という強い信念をのぞかせていました。昨年11月頃までに講談社さんは『3・11慟哭の記録』以外の参考文献の著者、編者と修正協議を終えたのではないかと想像されます。

本誌 講談社・北条氏も金菱氏も最初からスタンスを変えず、平行線のままなのですね。

小田 講談社さんと新曜社の担当者間で、面談、郵便、メール、電話のやりとりがあったのは事実です。ただこれは、いわば事務折衝レベルですよね。金菱教授と講談社の間で、協議や交渉の実態はなく、形式的手続きであったと考えております。

本誌 「文献編著者および関係者との協議と交渉を経て」として一緒くたに表現してしまうのは、違うのではないかということですね。新曜社講談社とお話をされるということは度々あったのでしょうか。

小田 芥川賞選考期間に講談社の書籍部長の方と『群像』編集長が新曜社社長にお詫びに来られ、そのときにこちらから、『群像』9月号巻末とHPに、新潮社以外の4社の著者編者への告知を出していただくよう要請しました。それ以降はありません。「協議と交渉」があったとすれば、金菱教授を担当する私と『群像』編集長の間です。

 

 『群像』9月号に次のような告知が掲載されたが、要請しなければこの4社の著者編者・関係者への「お詫び」は出なかったと新曜社はとらえている。

〈小誌二〇一八年六月号P.8〜P.‌75に掲載した第六十一回群像新人文学賞当選作「美しい顔」(北条裕子)について、前号八月号に続き告知いたします。

 同作において描かれた震災直後の被災地の様子と被災者の経験の一部は、『3・11慟哭の記録 71人が体感した大津波原発・巨大地震』金菱清編/東北学院大学震災の記録プロジェクト(新曜社)に大きな示唆を受けたものです。

 また、『メディアが震えた テレビ・ラジオと東日本大震災』丹羽美之/藤田真文編(東京大学出版会)、『ふたたび、ここから 東日本大震災石巻の人たちの50日間』池上正樹ポプラ社)、文藝春秋二〇一一年八月臨時増刊号『つなみ 被災地のこども80人の作文集』(企画・取材・構成森健/文藝春秋)も、同様に作者による「美しい顔」執筆の上でなくてはならないものでした。

「美しい顔」六月号発表時に参考文献の扱いに配慮を欠き、類似した表現が生じてしまったことを、金菱清氏及び関係各位にお詫び申し上げます。主要参考文献として未表示だった上記書籍の編者著者と関係者、東日本大震災において被災された方々、被災地で御尽力された方々に対して、重ねてお詫び申し上げます〉

 

言葉を奪われてしまった痛みへの想像力

 

本誌 新曜社さんは栗原裕一郎さんの「〈盗作〉の文学史」の版元でもあります。「〈盗作〉の文学史」が明らかにしていますが、わが国の著作権法からすれば、「美しい顔」は盗作にはあたりません。しかし、金菱氏が「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」を新曜社のホームページに発表されたのは「群像」9月号に「お詫び」が掲載された後ですよね。私は次の件を引用して記事を書きました。

 〈作者の北条裕子氏からいただいた私(金菱)への手紙によれば、震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)「自己の内面を理解することにあった」とある(私信のため詳細は省く)。つまり、小説の舞台がたまたま震災であっただけであり、その意味においては、安易な流用の仕方も小説特有の「自由な」舞台設定と重なる。そして主人公の口を衝いて出る言葉を通して「雄弁」に震災を物語ろうとする。受賞の言葉にも、私信にも、執筆動機として震災の非当事者としての私的な自己理解の欲求が述べられ、おそらく次の小説の舞台装置があるとすれば、震災ではないだろうことは容易に想像がつく。つまりその程度の位置づけでしかない〉

講談社の「その類似は作品の根幹にかかわるものではなく」というコメントは、言い方を変えれば、類似程度は文学的価値に比べれば、些末な問題であるとも聞こえてくる。根幹ではない私たちの軽い震災記録とは一体何かを考えざるをえない〉

  作家の星野智幸さんはツイッターで「文学に関わる人は、この金菱さんの文章は読んでおいてほしい」と呟かれていたのが印象的です。

小田 金菱教授がコメントしたのは、被災者が紡ぎ出した言葉が奪われてしまった、ということでした。

本誌 最初から違っていたのは、講談社は表現の問題として、著作権法からすれば今回の作品には問題がないと考えていたが、金菱教授は、言葉を奪われてしまったことは耐え難いことであると。言葉を奪われてしまったことの痛みを想像できるかどうかが、実は北条裕子氏には問われているのですよね。

 

被災地を訪問しないことについて

 

本誌 金菱教授からすれば『3・11慟哭の記録』から「剽窃」した箇所を別の表現に変更しない限り納得しようがないのですよね。

小田 芥川賞の選考委員であった島田雅彦先生の選考会後の記者会見で『美しい顔』が話題になりましたよね。島田先生は「……フィクション化への努力といいますか、その事実の吟味、あるいは、それをもうちょっと自分の中に取り込んだ上で、換骨奪胎といいますか、自分なりのフィクションとしての表現に昇華していく努力が足りなかったのではないか、という意見も出た」と語ったと報道されていました。その後、実際に送られてきた『美しい顔』の改稿案をみて、はたして昇華という水準に達しているのだろうかと、このお言葉を思い出しました。

 註 芥川賞の選考委員は『美しい顔』について次のような選評を発表している。

「『美しい顔』は、現実を打ち破り、言葉など無意味になる場所へたどり着いたのか。この作品に問われているのは、それだけの覚悟があったかどうかだと思う」(小川洋子

「『美しい顔』。東北の震災をテーマにしたノンフィクション作品や被災者の手記の盗用、剽窃にあたるのではないかと物議を醸したこの候補作。本当にそうなのかと、初出の編集部が未掲載であったとする参考文献を読んでみた。で、出版社が言うように、確かに盗用にはあたらないのだろうなあ、とは思った。……が、じゃあ法律的に問題がなければそれで良いのか、というとそうではないだろう。だいたい資料に寄り掛かり過ぎなんだよ! もっと、図々しく取り込んで、大胆に咀嚼して、自分の唾液を塗りたくった言葉をぺっと吐き出す、くらいの厚かましさがなければ。何とも素直というか、うかつというか……」(山田詠美

「「美しい顔」は、物語の語り手の語りの中にあるエネルギーに着目しました。このエネルギーの熱量が大きいからこそ、読者を立ち止まらせない推進力が生まれているのだと思います。ただ、語り手以外の登場人物が、物語を構成するための装置になってしまっていることが、残念だったのです。東日本大震災に関しての、先行する五作品からの引用があると知り、本作品を読んだのちに五作品を読みました。「美しい顔」という作品の美点は、引用部分にあるのではないとわたしは思います。だからこそ、なおさら引用の不用意さを悲しみます。それとはまったく別に、引用された元のノンフィクションや震災被害者の方々の文章を、震災から七年たつ今、じっくり読めたことは、さいわいでした。おりにふれて、これらの文章を、本を、読み返したい。そう、思いました」(川上弘美

「北条さんは作家としての腕力はあるが、避難所で生じる人間ドラマをいささか舐めている。もっとすさまじい修羅場がテレビには映らないところで起こっているのだ。その視点の低さで『美しい顔』は点が低かった」(宮本輝

「さて、この騒動を離れたとしても、今作にあまり好感は持てなかった。お涙頂戴のマスコミ報道を終始揶揄しながらも、今作自体がそのお涙頂戴の流れに乗っているようで(弟が首に母の名前を提げるところなど)、とすれば、自家撞着を起こしているようにも思える。それにしても、こういう作品を読むと、『原爆には感傷はいらない』と被爆後三十年を経て言い切った林京子の言葉が強く蘇る」(吉田修一

「文を崩すのではなく、落ち着かせないことで推進力を得ているのが、北条裕子さんの『美しい顔』だ。参考文献の扱いや執筆動機の是非について、議論すべき点はある。しかしそれと同時に、もしくはそれ以前に、右の推進力が前半のみで終わっている点、避難所や遺体安置所の並列的な描写に比して、斎藤さんという女性が語る、子を亡くした体験談の精度が高すぎる点が気になった。むしろ小さな証言のほうに想像力の破れ目があるかもしれない」(堀江敏幸

「物語には人を癒す力がある。しかし被災からの癒しにはもっと物語の熟成が必要だろう。本作は『盗用』が問題になった。これには客観的な基準はなく、常識で判断するほかないわけだが、テクストを比較してみて『盗用』にはあたる範囲内のものだとは自分は思わなかった。ただ参考文献の事後的な提示と謝罪があってなお、参考にされた側の著者の方々に釈然としない気分が残っているとすれば、やはり物語に未成熟なところがあったことが原因だろう。どちらにしても物語の『毒』をどう扱うかは、作家が最も慎重になるべきところである」(奥泉光

「【読書感想】第159回芥川賞選評(抄録)」より

https://blogos.com/article/322241/

 

小田 北条さんが東日本大震災の被災地を一度も訪問せずに『美しい顔』を書いたことがかえって文芸批評家の方々から評価されていました。北条さんご自身は被災地に足を運んでいないことを「私は罪深い」と記しておられました。

本誌 「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」という言葉を思い出します。

小田 北海道新聞が4月18日付で「『美しい顔』修正し刊行 昨年芥川賞候補 一部関係者反発」という記事を掲載しています。それによれば、「ただ、講談社は5作品の関係者に協議を申し入れたが、金菱教授は応じていない。金菱教授は理由について『根本的に震災への向き合い方が違う。修正されたものを見れば自分が共同作業したことになり、それが嫌だった』と説明。『美しい顔』について『道義的な問題のある小説。そのような作品は出版に至らないというのが常識的な判断では』と述べた」とあり、ここでの金菱教授のお考えは、小社HPに掲載したコメント以来、一貫しています。

本誌 もし、それを承知で「各位からのご指摘を真摯に受け止めて文献の扱いについて熟慮し、文献編著者および関係者との協議と交渉を経て、著者自身の表現として同作を改稿」し、出版すると声明を出した上で『美しい顔』を刊行するということは、「炎上商法」と言われても仕方ない…。結局、交渉するに際しても、金菱教授の言葉を受け止めるより、自分たちは『美しい顔』に自信を持っていて、北条さんもこのように改稿するから出版についてご理解下さいというふうに聞こえるんですね?

小田 はい、私どもからすると、う〜む、そうおっしゃられても返答のしようがないと。

 

想像力と創造力は届いているか

 

本誌 『美しい顔』を刊行するに際して、声明を出すということ自体、足を踏まれた者はその痛みを忘れないけれど、足を踏んだ者はすぐに忘れてしまうということなのだと思えてなりません。

小田 今回の件は、講談社と北条氏の意向に絡まれたというか、巻き込まれたというか。それをいきなり「文献編著者および関係者との協議と交渉を経て」といった文言を含んだお知らせを出されて、単行本として出版されるに至ったわけです。

本誌 吉本隆明が『夏を越した映画』(潮出版社)で大島渚の『戦場のメリークリスマス』について「この映画は態のいいフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ映画になっている。戦争体験をふまえた眼で内側からみたら、恥ずかしくてみていられない」と評していますが、金菱清教授の東日本大震災体験をふまえた眼で内側からみたら、恥ずかしくて読んでいられないとなるのは当然のことでしょうね。北条裕子は創造力に問題があり、講談社は想像力に問題がある。

中山 横から口を挟まさせてもらいます。新曜社で営業を担当している中山です。金菱清先生の『3・11慟哭の記録71人が体感した大津波原発・巨大地震』は、震災被災者の遭遇したとてつもない不条理を描き尽くした手記にほかなりませんが、金菱先生は、震災一週間後から聞き取り調査のために被災地のフィールドに出向いてきた、その結晶だと思います。そこで被災者の方々からどのようにしてお話を聞き、どういうふうに研究するのかということを真剣に考えて格闘して来られた。北条さんは現地に赴くこともなく、そうした書物から利用してしまうというのは、金菱先生が指摘されているように被災者の発した言葉に対する敬意を欠いていると言わざるを得ないのではないでしょうか。というよりも、そうして集められた言葉は、どんな理由があろうとも利用してはならないはずなんです。それを黙って利用された怒りを講談社さんは理解していない。金菱先生の研究者としての格闘をいったいどのように評価しておられるのでしょうか。

本誌 金菱教授は〝震災学〟という新しい領域を拓きつつあると思います。

中山 もし、今回のようなことが学術書の世界で起きたら、それは絶対にアウトだし、研究者として生きていけなくなるのは間違いありません。営業的に言えば回収しなければならなくなるのではないでしょうか。

本誌 金菱氏の取り組まれている社会学の方法論とも関わりあう問題でもあるのですよね。文学の問題にのみ収斂して考えていったのでは決して解決できない問題であるということです。小説は北条さんの想像力で書かれたのではなく、被災者の言葉を奪うことで書かれていたとすれば、言葉を奪われる側に立ち続けている金菱先生の怒りを増幅させることになったのは当然だと思います。北条さんは手記に影響を受けて書いたのだということを、類似表現を指摘されるまでひと言もおっしゃっていない。それを講談社は「発表時の参考文献未掲載の過失」としか捉えていません。何で「『美しい顔』刊行についてのお知らせ」などを出したのでしょうか。何故に組織の論理を優先させて、自らをあそこまで正当化する必要があるのか。ああした声明を出せるのは、言葉を奪われた者の痛みに想像力が及んでいないからだとしか思えないのですよね。それにしても作者の存在感がいつの間にか希薄になってしまいましたね。

小田 北条裕子さんの『美しい顔』ではなくて、講談社の『厚かましい顔』になってしまったような……。私は『群像』を伝統ある文芸誌として尊敬してきました。それだけに今回の件は残念ですが、こちらから断絶はしていないつもりです。まだ出版直後のため、実際にどのように改稿されたのか、くわしい確認はとれていません。