出版の歴史から「美しい顔」を消さないために 第五回

「文学」が「政治」に従属させられた

 

2018年7月18日、第159回芥川賞高橋弘希の「送り火」に決まると、「美しい顔」騒動は終息したと言って良いだろう。それは、第159回芥川賞で話題の中心となったのが「盗用」が疑われた北条裕子の「美しい顔」にほかならなかったからだ。話題の中心といっても、「文学」とは遠く離れた場所でのことであろう。結局、「美しい顔」は受賞を逃すと、その名前はあっという間にジャーナリズムから消えていった。
そうしたなか武田徹は自らのブログに「『美しい顔』再論」をエントリした(2018年7月30日付)。武田は1980年に発表された田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に「実在のブランドネーム等の固有名詞を大量に盛り込」まれていることを江藤淳が「東京がそうした記号の集積になっていることを描く」必然だったと評価したことを踏まえて、『美しい顔』も、著者が意識的だったかどうかは別として、記号化過程を含まずには済まされない情報化時代の災害を描いたとしながらも、「美しい顔」における固有名詞の不在を指摘して、次のように書いている。
《そうした固有名詞を徹底的に避けて一般名詞レベルの記号しか用いない手法には、東日本大震災の現実を超えて普遍的な被災の姿を小説化しようとした著者の思いが込められていたのではないか。
そう考えると、なぜ参考文献名を記載しなかったかの理由も推測できるようになる。参考文献名は小説が現実の東日本大震災を舞台にしていることを示す指標として機能してしまうからその存在が隠されたのではなかったか。
しかし、そうであればなおさらオリジナルの文脈から切り離して事実を記号(パースの概念を用いれば象徴記号=シンボル)として扱う姿勢を徹底させるべきだった。そうすれば記号は小説という象徴体系の中で意味を持つようになり、外部を指し示す回路から解き放たれる。
そうした解体作業が不十分で出典がノンフィクション系作品と明らかに分かる箇所が残っていたことは大きな失策だった》
「美しい顔」は作者たる北条裕子による推敲がもっと必要だったし、何よりも編集力がもっともっと関与すべきではなかったろうか。ここでいう「編集力」とは「文学」に置き換えても良いだろう。むろん、「美しい顔」に「編集力」が関与しなかったと私は指摘したいわけではない。特に「盗用」疑惑に晒されて以降、強面な声明文を一読すれば了解できるように強大な「編集力」が前面に押し出されることになった。しかし、ここで前面に押し出された「編集力」を「文学」という二文字に置き換えることはできない。この「編集力」を二文字で言い換えるとすれば「政治」であろう。この「政治としての編集力」は、もしかすると「美しい顔」に「盗用」疑惑が降りかかる以前の「群像新人文学賞」に選ばれる過程でもいかんなく機能していたのではあるまいか!
露骨な言い方をすれば、版元たる講談社は「文学」ではなく「政治」を選択してしまったのである。つまり、作品や作者の未来を守るのではなく、版元としての面子をまもるために編集力を動員したのではなかったか。こうした力学に「文学」の側からはブレーキさえも踏まれなかった。一方、「政治」は、ひたすらアクセルを踏み続ける。その結果、「文学」は「政治」に従属させられてしまう。戦後文学が繰り返し、繰り返し歴史に刻み込んで来た戯画がここでも無意識裡に繰り返されてしまう「喜劇の悲劇」を私たちは見せつけられてしまったのである。
福嶋亮大は2018年8月18日付で「REALKYOTO」に「文壇の末期的状況を批判する」を特別寄稿している。そこで福嶋は、こう指摘している。
《言うまでもなく、選考委員の仕事とは、ある程度一貫した判断基準のもとで対象作品を冷静に分析し、その結果を読者および作者に対して開示することである。作者からの反論にも開かれた理知的な分析がなければ、選考におけるフェアネスも確保できない。新人賞の選評が今やそのフェアネスを失い、プロパガンダに堕しつつあるのだとしたら、これは非常に由々しき事態だと言わねばならない。ちなみに、盗用を指摘された『群像』編集部は、なぜか逆ギレ的に開き直ってネット上で「美しい顔」をしばらく全文公開していたけれども、本当に必要なのは新人賞の審査の体制をもっと謙虚に見直すことだろう。さもなければ、今後も似たような事例は避けられまい。》
福嶋は《今のように「責任ある大人たち」が文学をめちゃくちゃにし、しかもそのことをまともに自覚すらしていない現状》というが、そうした現状においては「忖度」が重要な意味を持つ。文学業界も「原子力ムラ」と同じような類の「ムラ」でしかないのかもしれない。「美しい顔」を「群像新人文学賞」に決めた選考委員から「盗用」疑惑について論じられることも、語られることも遂になかった。このことが何を意味するかと言えば、選考委員は北条裕子の「美しい顔」を「無責任の体系」において黙殺することを決めたのである。「文学」が「政治」そのものに堕落した瞬間である。「政治としての編集力」は水面下で更に先鋭化していたにちがいない。


講談社は金菱清との経緯を、
真摯かつ丁寧に説明すべきだった


日本経済新聞は2018年9月1日付で「単行本化へ協議『妥協点見えず』」を掲載した。講談社の「群像」編集部は『遺体』(新潮社)の作者である石井光太や『3・11慟哭の記録』(新曜社)を編んだ金菱清に連絡を取り始めた。金菱清の場合でいえば、『群像』編集長より新曜社に『美しい顔』の修正協議の申し入れが2018年8月にあったという。しかし、金菱は「美しい顔」を作品として認めがたく、修正協議を断り続ける。金菱は、この立場を一貫して崩していない。「政治としての編集力」を金菱清という文学は拒否しつづけたのである。
そう一読すればわかるように『3・11慟哭の記録』は柳田国男の『遠野物語』が「文学」であるように「文学」にほかならないのである。この核心部分を『群像』編集長が理解していたかどうか私には知る由もないが、新曜社講談社のやり取りは2018年12月初旬まで続くことになる。それ以降、2019年4月4日まで『群像』編集長から新曜社に連絡は一切なかったという。2019年4月4日、新曜社は『群像』編集長より単行本『美しい顔』の発売日と『群像』巻末とHPにおいて出版を告知する旨の連絡を受ける。
同日、講談社は北条裕子の『美しい顔』を4月17日に単行本として刊行することを一般にも発表し、4月5日発売の『群像』5月号に同誌編集部による次のような告知を掲載した。
《「群像」2018年6月号に掲載した第61回群像新人文学賞当選作「美しい顔」(北条裕子)について、著者の北条裕子氏ならびに編集部は、発表時の参考文献未掲載の過失を反省するとともに、各位からのご指摘を真摯に受け止めて文献の扱いについて熟慮し、文献編著者および関係者との協議と交渉を経て、著者自身の表現として同作を改稿いたしました。
つきましては、2019年4月17日、北条裕子著『美しい顔』を著者の第一著作品単行本として講談社より刊行いたします。
参考文献編著者および関係者の方々には多大なご迷惑をおかけしてしまいましたことを改めてお詫び申し上げます。また、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災された方々、被災地で尽力された方々の安寧を心からお祈り申し上げます。》
講談社が4月4日付で発表した「群像」編集部名義の「『美しい顔』刊行についてのお知らせ」には、確かに「著者の北条裕子氏ならびに編集部は、発表時の参考文献未掲載の過失を反省するとともに、各位からのご指摘を真摯に受け止めて文献の扱いについて熟慮し、文献編著者および関係者との協議と交渉を経て」と記されている。
これについて「3・11慟哭の記録」の編者である東北学院大学教授の金菱清は4月7日に次のようにツイートしている。
《「美しい顔」の出版について談話だと当方が協議や交渉を経て改訂稿を認める形になっています。そのような事実はなく、改訂案が一方的に送られてきました。原作者が「剽窃」の疑われている作品の改訂への関与など断じてありえません。編著者の関与について撤回訂正を求めます》
当時、私はこの投稿に対するリツイートを集めてみた。すると、こんなツイートが集まった。
《当事者の経験から生まれた言葉をかすめ取って、自分の「作品」として世に出す。
有名で口うるさそうな一人とだけ手打ちをして、多数の一般人は知らん顔ですか。やはり『#美しい顔』は、そうした小説なんだ、と認識を強くした。今度こそ、講談社も同罪だ》
《円満解決と思っていたのでびっくり!!》
《盗作しておいてほとぼりが冷めた頃に盗作元の同意を得たかのように装って一方的に出版って最低最悪では??講談社のモラルってどうなってるの?銭湯絵師といいこれといい大きな裏がありそう》
《2度ドジッ子ぷりを発揮しされおられる。大丈夫か。いやつまりあれかな。もう該当箇所直したんだからつべこべ言うな的な感じなのか。電話くらいしておけばいいのに》
《「美しい顔」はもうひと波乱ありそう。そもそもそんなに無理して刊行するほどの作品かどうか疑問ですが、まあ出すのは自由。しかし、剽窃された側が納得していないとすると、問題は大きくなるかもしれませんね》
《金菱教授が改訂稿を認めたわけでもないのに『美しい顔』が出版されることになったのか。北条裕子氏ならびに群像編集部の相変わらずの無責任な姿勢にはあきれるばかり》
AERA in ROCKクイーンの時代」や「私の夢まで、会いに来てくれた」(金菱ゼミ編・朝日新聞出版)の編集にかかわったフィルモアイーストは次のような呟きを投稿しながら、あっという間に削除していた。
講談社が強硬に出版にこだわった理由が分からない。炎上商法でも売れると踏んだんだろうか。新潮社はどうしたんだろうという疑問も浮かぶし。謎すぎる》
金菱清は昨年7月17日に「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」を発表し、その文章を次のように閉じていた。
《・・・否応なく小説の舞台設定のためにだけ震災が使われた本作品は、倫理上の繋がり(当事者/非当事者の溝)を縮めるどころか、逆に震災への『倫理的想像力』を大きく蹂躙したのだと私は述べておきたい。その意味において罪深いのである》
講談社は金菱清との見解の相違について真摯かつ丁寧に説明する必要があったはずである。少なくとも、そうすることが「文学」の常識であったはずである。それを拒んだのは、もはや言うまでもないだろうが「政治」にほかなるまい。そうした「政治」の司令塔が講談社において文芸部門と広報室を担当する渡瀬昌彦常務なのである。講談社の「文学」の質が問われ、また広報の「質」が問われる局面だったのである。このことに渡瀬も、渡瀬を補佐すべき乾智之室長も気がつかなかったのである。


講談社の歴史から「文学」を消さないために


シン・ゴジラ論』(作品社)や『新世紀ゾンビ論 ゾンビとは、あなたであり、わたしである』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上 ポスト・トゥルース時代のミステリ』(南雲堂)など刺激的な論考で知られる藤田直哉東日本大震災を経験した人の言葉を集めた震災文芸誌『ららほら』を2019年4月30日に創刊した。版元は札幌に拠点を置く響文社であるようだ。藤田は札幌の出身である。
藤田は『ららほら』を刊行するに際して「CAMPFIRE」を使ったクラウドファンディングも実施し、約116万円を集めている。「CAMPFIRE」では、こう呼びかけた。
東日本大震災と、その後に続く出来事、経験や思考・感情について、まだまだわからないことばかりです。多くの人が、言葉にしにくい体験を言葉にし、共有するためにこそ、文学は役割を果たせるのではないかと思っています。
実際に体験したり、近くで考えてきた無数の経験や思考や感情のすべてに「意味」があるのだと思います。それを言葉にしたものには、どんなものであれ、価値があると信じています。なので、現状の文芸誌の条件では流通させることが難しいそのような「言葉」を、発し、受け止めるための場を作ることにしました。それがこの文芸誌「ららほら」です。
「ららほら」とは「ささいなうそ」を意味します。「うそ」にネガティヴな意味はありません。フィクションを通じて到達できる「真実」、フィクションの形にすることでようやく発することができる「言葉」があるはずだと信じています。なるべくそれらを受け止めたい。だからこの文芸誌を創刊し、皆様に投稿を呼びかけています》
「ららほら」の目次を掲載しておくことにしよう。そこに私たちは金菱清の名前を発見することになる。
《目次
藤田直哉 「はじめに」
Ⅰ 当事者たち
平山睦子 「家族という壁」
大澤史伸 「藤田直哉さんへの手紙」
木田修作 「あの日からのこと」
木田久恵 「「分からない」から始まった」
Ⅱ 被災地の言葉を集める者たち
小松理虔 「語りにくさをくぐり抜ける、小さな場づくり」
金菱清  「「亡き人への手紙」から考えざるを得なかったこと」
瀬尾夏美 「震災後に書き始める」
川口勉  「彼らの原発
土方正志 「被災地で本を編む」
甲斐賢治、清水有、田中千秋「信頼できる状況を作り出すために――「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の挑戦」
Ⅲ 特別寄稿
室井光弘 「〈冬の大三角〉座で正しく不安を学ぶ」
藤田直哉 「おわりに」》
「ららほら」の創刊を前に藤田直哉は「『ららほら』の立場から、『美しい顔』について考えたこと」を『ららほら』のホームページで公開した。金菱清が『ららほら』に寄稿していることを踏まえての文章である。藤田は、最初に次のように断っている。
《この文章は、震災文芸誌『ららほら』を準備しながら書いたメモである。『ららほら』の中には収録されていない。
北条裕子氏の『美しい顔』が刊行されるにあたり、『ららほら』に寄稿してくださった金菱清氏が、「「美しい顔」の出版について談話だと当方が協議や交渉を経て改訂稿を認める形になっています。そのような事実はなく、改訂案が一方的に送られてきました。原作者が「剽窃」の疑われている作品の改訂への関与など断じてありえません。編著者の関与について撤回訂正を求めます。」(URL略)と改めて問題提起をなさった。
それを受けて、この問題に対しての議論を耕し、多くの人々に何が問題なのか共有していただき、必要な共感を育むために、この文章を公開することにした。》
藤田が刊行した『ららほら』に結集した文学(当然、金菱清の「文学」でもある)と北条裕子の『美しい顔』は正反対を向いているのだ。藤田は、こう書いている。
《「公」の名の下の抑圧により発せられない声を発することこそが、文学の使命であると考えた場合、この作品を擁護しなくてはいけないのではないか? 理屈としてはそうなのかもしれないが、どうもぼくにはこれが「本当の言葉」のようには感じない。これは倫理的というよりは、美的な判断だ。作者の演技的な人格における「本当の言葉」は確かにあるが、震災という未曽有の経験に即した「本当の言葉」という、ぼくらが耳を澄ませようとしている特異な声とは程遠い、ステレオタイプな声でしかない。もちろん、こういう皮肉の面白みや問題提起の価値は認めるし、才気ある文体であることも否定しない。が、個人的には、『ららほら』とは正反対の方向を向いている震災後文学だと感じる。
『美しい顔』の場合、自意識が主で、震災は舞台装置や背景程度の扱いであり、利用の仕方はテクストからテクストに移し替える、というものである。それに対し、ぼくがこの『ららほら』で示した方法論の差は大きい。「事実」と「虚構」の絡み合いの処理の仕方においても、「嘘」を誰のためにどのように用いるのかも、大きく異なっている。生きるために必要とされるささやかな共同幻想や物語や詩情と、まるで自分が東日本大震災の被災者であるかのような「舞台装置」「化粧」をするという「嘘」には、差がある。大きな差は、誰に奉仕し、誰を幸福にするものなのか、誰に利益を与えようとするものなのか、ということである。》
講談社の発表した「『美しい顔』刊行についてのお知らせ」には、「文献編著者および関係者との協議と交渉を経て」と堂々と書いてあるが、金菱清との間において、どのような「協議と交渉」がなされたのかを落ち着いて振り返ってもらいたい。同時に渡瀬昌彦には今の講談社に何が欠けてしまっているのか胸に手を当てて考えてみてもらいたい。
金菱がツイッターに投稿した文章が事実と異なると言うのであれば、どこがどう事実と違うのかを大衆的に明らかにしてしかるべきである。金菱の出方を待つ? もし、そうだとすれば、そういう発想自体が読者の存在を忘れているか、軽視している「政治」であると私には思えてならないのである。そうした「政治」は、あったことをなかったことにしてしまう「歴史修正主義」にすら加担してしまっている。実際、渡瀬は私たちの発した公開質問を一切無視したままであり、まさにあったことをなかったこととして処理しようとしている!
「盗用」疑惑が発覚した際には新聞などの取材に北条裕子は一切応じていない。この判断が北条裕子の「政治」であれば、北条裕子の『美しい顔』以後の「文学」に期待しないでもないのだが、純文学誌で新人賞を受賞したばかりの作家にそうした「政治」を駆使することはできまい。恐らく、講談社の編集力が奏でる「政治」に乗ってのことだろう。
2019年4月に単行本として刊行されるや新聞のインタビューに応じまくったのも、これまた北条裕子の「文学」による判断ではなく、版元の「政治」によるものだと思われる。しかも、産経新聞にしても、朝日新聞にしても、この「政治」に距離を置くのではなく、加担してしまっているような記事しか書かれることはなかった。
産経新聞は2019年4月30日付で「『甘さ、未熟さがあった』 類似表現物議の芥川賞候補作家」を掲載している。
産経新聞は、
《昨年、インターネット上で「盗用、剽窃」といった中傷が飛び交った騒動の渦中でも作品を「単行本として出版したい」という気持ちは揺らがなかった。》
と書いているが、昨年の騒動とは「インターネット上で『盗用、剽窃』といった中傷が飛び交った」だけのものであったとは何を根拠に書いているのだろうか。『3・11慟哭の記録』の編著者である金菱清とは、接触すらできなかったことを産経新聞は取材しなかったのだろうか。こんなところにも私は「政治」の痕跡を想像してしまう。
朝日新聞は5月8日付で「『様々な声、覚悟している』 『美しい顔』改稿重ね刊行 北条裕子さん」を掲載しているが内容は産経新聞と似たりよったりのものであった。『美しい顔』が単行本として刊行されると、「文学」はすっかり口をつぐんでしまった。「政治」が『美しい顔』を取り囲んでしまったのである。こうなると心配なのは北条裕子である。このまま「政治」に幽閉されてしまうのであれば、再び「文学」の世界に解放されることはないのではあるまいか。
だからこそ講談社は断固として「文学」を取り戻すべきなのだ。