【文徒】2018年(平成30)7月11日(第6巻128号・通巻1302号)

Index------------------------------------------------------
1)【記事】「美しい顔」北条裕子のコメントと木村友祐の「生きものとして狂うこと」
2)【本日の一行情報】
3)【深夜の誌人語録】

                                                                                • 2018.7.11 Shuppanjin

1)【記事】「美しい顔」北条裕子のコメントと木村友祐の「生きものとして狂うこと」

zakzak」が「芥川賞候補作騒動で講談社が苦しい言い訳 『出産』が理由で参考文献示さなかった?」を掲載した。
東日本大震災を題材にした北条裕子さん(32)の芥川賞候補作『美しい顔』が文芸誌『群像』掲載時に参考文献を示さなかった問題で、驚きの事実が発覚した。プライベートがほとんど謎だが“美人”と評判の北条さんが校了時に出産を控えていたというのだ。それにしてもそれを理由に詳細を詰め切れなかったとするのはいささか苦しいのでは」
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180709/soc1807090005-n1.html
問題が発覚する前に文芸時評で北条裕子の「美しい顔」を絶賛した田中和生が自らのブログ「郷士主義!」に「これは盗作ではないーー北条裕子『美しい顔』について [生活と意見]」をエントリした。さすが田中という擁護の仕方である。
「・・・それらの部分だけをならべて見ると盗用に見えかねないことは事実である。ここでは明らかに文学的な表現を放棄したような、震災後の現実に取材した信頼できる文章をなぞるしかないという書き方が選ばれているからである。
どうしてそのようなことが起きるのか。わたしはそれが、マスメディアが望む役割を演じつづけてきた語り手の『私』が作者に強いたものであり、いわば生き物としての小説という表現形式がもたらしたものだと思う。なぜなら『私』は、なによりマスメディアのように震災後の現実を自分たちに都合よく表現する者に対して憤っているからであり、それはここでその『私』を震災後の現実と対面させようとしている作者もまた例外ではないからである。
つまり作者はマスメディアの震災報道の欺瞞を暴く『私』を、それまで生き生きと描いてきたがゆえに、ここでは震災後の現実を自分に都合よく表現することができない。仮に作者がこの場面を自分なりの表現にしてしまえば、その時点で語り手の『私』はリアリティを失い、作品は死ぬ。だからこれは、学生のレポートなどと同列に論じられる問題ではない。
作者がここで突き当たっている表現上の問題は、日本の近代文学史上でもそれほど例がない、きわめて根源的で解決困難なものである。
下敷きにした資料の言葉をなぞるしかない、という書き方になっているという意味で比較することができるのは、おそらく井伏鱒二が1966年に刊行した長篇『黒い雨』ぐらいである」
https://tanakasan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-08
私は柄谷行人の「反文学論」(講談社学術文庫)に収められた文章を「盗用」しながら次のように書きたくなった。
「先日喫茶店にいて、何気なく若い人たちの会話を聞いていると、『群像』の締め切りがどうの、『文学界』は何枚だのといった話をしている。新人賞のことを話しているらしいが、どうもそこに文学青年の雰囲気すらなく、一発山をあててやろうという野心しかないのが不快だった。たとえば、群像新人賞の北条裕子『美しい顔』を読むと、そういう光景が浮かんできて仕方がない。なるほど、そこには、選考委員をだまくらかすだけの技術はあるが、この技術の背後にはうそ寒いものしか見当たらない」
実は原文と違えたのは「北条裕子『美しい顔』」だけ。原文は「小幡亮介『永遠に一日』」である。歴史は繰り返すのである。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150602
中沢忠之の連続ツイートも紹介しておこう。
「『美しい顔』参考文献問題、双方の論点が出揃ったので、ここまで色々書いてきた私の考えをまとめて、自分なりに終りにしたい。出版社間の交渉については、双方の思惑があるだろうので考慮しません。『美しい顔』については、その参考文献とした作品に対する配慮のなさは、モラル・マナー上の問題があり作品の価値にも大きな瑕疵をもたらしている。ただし、それでも文学作品として評価すべきところがあると私は考えます。当該作の震災に対する向き合い方も一概に否定できるものとは思えません。他方、参考文献とされた作品の方々の発言は、その被災地との関係を作ることの難しさ・相当のリスクとコストをかけた表現についてのお話は一々納得できるものですが、表現修正の要求を(心情的には頷けるものの)残念に思います。
法的に争った結果の変更でないなら、原文で読まれ、議論されるべきと考えます。これは文学として評価されるためではなく単に表現のオープンネスの問題。最後に、芥川賞というショウのエントリーの保持はいまもって納得できません。これは『表現がよければ一次資料を軽視してよい』という発想を前提としたものだからです。渡部直己氏問題と同様文学の思い上がりを感じます」
https://twitter.com/sz6/status/1015819021378187265
中沢は「新潮社側の『類似箇所の修正要求』のどこが、『冷静』で『筋が通った』ものなのか、僕には理解できない。表現する者としてここは非常に慎重に判断すべき大きな問題のはず」ともツイートしているが、これには荒木優太が反応している。
「うーん、でも新潮社の『(2)については、『美しい顔』の単行本化が可能であれば、今回生じた複数の類似表現の修正を、石井氏に確認しつつ進めたい、との対応を頂きました』という言い分が正しいのならば、群像は一度は要求のんだわけでしょう。なのに、いきなりキレて出したら困惑すると思うけどなあ」
「小説表現に関する譲れないものがあるのならば(私はそれはそれでいいと思うよ)、『そこはのめません』と断固拒否すれば良かったのに(それもそれでいいと思うよ)、なぜ受け入れた上でのウェブ公開なのか(そこが筋悪だと思いますね)」
「そして、どうでもいいことだが、講談社の言い分よりも新潮社の方が筋が通っている気がするね(なんでお前キレてんだって感じ)。加えていえば、参考文献問題よりも渡部直己からの早稲田文学問題の方が深刻だと個人的には思っているので、参考文献で忘却されないで欲しいなと思いますね」
https://twitter.com/sz6/status/1015406357170667520
https://twitter.com/arishima_takeo/status/1015411888954343424
https://twitter.com/arishima_takeo/status/1015413010431524864
https://twitter.com/arishima_takeo/status/1015390335160053760
講談社は「群像新人文学賞『美しい顔』作者・北条裕子氏のコメント」を7月9日付で発表した。全文を引用しておこう。
「この度、『美しい顔』という拙書において、参考文献未掲載と、参考文献の扱い方という二点において配慮が足りず、その著者・編者と取材対象者の方々へ不快な思いをさせてしまったことを心からお詫び申し上げます。
『美しい顔』はその執筆にあたり、主要参考文献を始めとする当時の報道やさまざまな映像資料に示唆を与えられました。すべての参考文献を読んでまず感じたことは、著者・編者の方々がいかに大変な苦労で現地に向き合い、膨大な時間とエネルギーを費やして作品を仕上げたかということでした。現地で傷ついた当事者に向き合い、長い時間をかけて信頼関係を結び、話を聞くということは気の遠くなるような粘り強さと対象への情熱が必要なことで、また取材対象者である被災された方にとっても重い口を開き話をするというのはとても苦しいことであったと思います。さらにはそれを書籍という形にして出版する際には葛藤もおありだったろうと思います。
私はその関係者の方々の思いや労力に対して抱いている敬意を表明するために、参考文献一覧を小説の末尾に載せたいと考えていました。しかし、この作品がもし新人賞を受賞し、単行本を刊行できるようなことがあれば、その時にそれをすれば良いと思い込んでしまっていたのは私の過失であり甘えでした。なぜ新人賞応募時に参考文献を明示しなかったのか、そのことを今とても悔いております。結果的に参考文献の著者・編者、さらには現地の取材対象者の方々に、敬意と感謝の気持ちを伝えるどころか、とても不快な思いをさせてしまうことになりました。大変至らなかったと反省しております。
また、参考文献の扱いへも配慮を欠いたことも猛省しております。いくつかの場面においては客観的事実から離れず忠実であるべきだろう、想像の力でもって被災地の嘘になるようなことを書いてはいけないと考えました。その未熟な判断が、関係者の方々に不快な思いをさせる結果となりました。大変な思いで綴られたご著書を軽率な気持ちで扱ったのだとお思いになられたとしても、いたしかたなかったと自覚しております。
私は自身の目で被災地を見たわけでもなく、実際の被災者に寄り添いこの小説を書いたわけでもありません。そういう私が、フィクションという形で震災をテーマにした小説を世に出したということはそれ自体、罪深いことだと自覚しております。
それでも私には被災地をテーマに小説を書く必要がありました。
なぜなら私には震災が起こってからというもの常に違和感があり、またその違和感が何年経ってもぬぐえなかったからです。理解したいと思いました。主人公の目から、あの震災を見つめ直してみたいと思いました。それは小説でなければやれないことでした。
例えばその違和感のひとつは、自分が東京からテレビで見ていた3.11と、当事者が現地で体験している3.11は同じものだろうかということ。現地にいる人と、こちらから『被災者』と呼んでいる人は同じ人であったろうかということ。
また、数え切れない喪失体験の連続であった被災地に対して、どう考えればよいかわからなかったというのもひとつです。それをわずかでも理解しようとする試みが、ひいては、人間が生きる上で絶対に避けては通れない喪失体験というものと、どう向き合って乗り越えていくかということを考えることになるかもしれないと考えました。
人間を理解してみたかったからです。小説の主人公を作り上げることでしか理解しえない、理解しようと試みることさえできない人間があると信じました。そしてその理解への過程、試みが、人の痛みに寄りそうことにもなると信じました。それが『美しい顔』という小説になりました。
しかしこのようにして自分が表現したかったことを表現するならば、同時に、他者への想像力と心配りも持たなければなりませんでした。大きな傷の残る被災地に思いを馳せ、参考文献の著者・編者を始めとした関係者の方々のお気持ちへも想像を及ばすことが必要でした。
私の物書きとしての未熟さゆえに、関係者の皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまったことを、改めて深くお詫び申し上げます」
http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/20180709_gunzo_comment.pdf
講談社は、この文章を果たして発表すべきだったのか。何しろ北条裕子と「群像」編集部では弁明が異なってしまったのである。この問題に関心を持つ人々を混乱させてしまう可能性もあろう。
これが「群像」編集部の見解。
「小誌二〇一八年六月号P.8〜P.75に掲載した第六十一回群像新人文学賞当選作『美しい顔』(北条裕子)において描かれた震災直後の被災地の様子は、石井光太著『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)に大きな示唆を受けたものです。主要参考文献として掲載号に明記すべきところ、編集部の過失により未表記でした」
https://gunosy.com/articles/R3xnz
これが北条裕子のコメントでは、こうなる。
「私はその関係者の方々の思いや労力に対して抱いている敬意を表明するために、参考文献一覧を小説の末尾に載せたいと考えていました。しかし、この作品がもし新人賞を受賞し、単行本を刊行できるようなことがあれば、その時にそれをすれば良いと思い込んでしまっていたのは私の過失であり甘えでした。なぜ新人賞応募時に参考文献を明示しなかったのか、そのことを今とても悔いております」
両者の弁明が異なるのは、編集部は編集部の過失とすることで、北条を守ろうしたからなのだろうと容易に察しがつく。むろん、それは善意だが、読者に対して、社会に対して、嘘をついてしまったことになるのではないか。そもそも、この問題において、ここまで多くのプレスリリースを講談社は発表する必要があったのか私は甚だ疑問に感じている。
私が北条のコメントで気になったのは「客観的事実から離れず忠実であるべきだろう、想像の力でもって被災地の嘘になるようなことは書いてはいけないと考えました」という件。こう書くのであれば「美しい顔」を書くにあたって被災地に足を運ぶべきだったのである。北条には「新潮」8月号に掲載された木村友祐の「生きものとして狂うこと―震災後七年の個人的な報告」を是非ともお読みいただきたい。パリで6月21日に行われた講演の記録である。
「『イサの氾濫』のときもそうでしたが、あまりに圧倒的かつ手に負えない現実を前にして、どのようにフィクションにできるのか、つまり、どうすれば『嘘のないフィクション』に仕立てられるのか、という難問と格闘しなければなりません。『嘘のない』とは、『見た現実を矮小化しない』ということです」
北条は果たして、この難問と格闘し切ったと胸を張れるだろうか。木村はこうも言っている。
「小説は、文学は、だれに寄り添うのか、ということです。目の前で、または見えないところで悲鳴をあげているだれかに寄り添うのが文学ではないのか。それは人間ばかりではなく、生きものすべてに、と言いたいのですが、まずは、そんな声なき人々がどこかにいると想像し、外に出て声を聴きに行く、つまり、表現もふくめて、つねに外部に出て行くところに文学があるんじゃないのか」
北条裕子の「美しい夏」には「声なき人々がどこかにいると想像し、外に出て声を聴きに行く」姿勢が欠けていたのではなかったのか。私はそう思う。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/
「焼け跡のハイヒール」の小説家・盛田隆二のツイート。盛田は編集者出身の作家である。
「戦争小説を書く時、戦争体験記を参照します。行軍が何日続いたかなど事実を書くのは問題ないけど、兵士の心象まで引き写したらアウトですよね。
『美しい顔』の作者が『遺体が蓑虫のように並ぶ』という『遺体』の表現を引用した時、著作権問題とは別に、心が痛んだはず。その倫理が問われていますね」
https://twitter.com/product1954/status/1014331826628804609
「〈盗作〉の文学史」の栗原裕一郎のツイートで終えることにする。
「北条さんの謝罪文と、講談社の突っ張りおよび『美しい顔』全文無料公開の兼ね合いはどうなっているのか。いろいろちぐはぐに感じる」
https://twitter.com/y_kurihara/status/1016527188642783234
そう、まさに「ちぐはぐ」なのである。
講談社 創業 110 周年記念企画として「大江健三郎全小説」15 巻の刊行が7 月 10 日より開始された。第 1 回配本は第 3 巻と第 7 巻。第 3 巻には57 年間も封印されてきた「政治少年死す」が収められている。
http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/20180709_Ooe%20.pdf
今回の「盗用」問題が起きなければ「美しい顔」が大江の「政治少年死す」の嫡子の座をものにしていたかもしれない。

                                                                                                          • -

2)【本日の一行情報】

集英社の「週刊少年ジャンプ」7月14日発売33号は「創刊50周年記念特大号」。「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が復活する。鳥山明井上雄彦によるスペシャル対談も掲載される。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1807/09/news044.html

◎「週刊少年ジャンプ」の創刊50周年を記念した「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ 週刊少年ジャンプ創刊50周年記念バージョン」の在庫がAmazonで復活。
https://corriente.top/post-69440/

◎7月17日から森アーツセンターギャラリーで開催される「週刊少年ジャンプ展VOL.3」とのコラボカフェ「JUMP 50th anniversary cafe」が、7月14日から展覧会場に隣接する「Cafe THE SUN」にて9月30日までの期間限定でオープンする。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1807/09/news045.html

ペネロペ・クルスがシャネルのアンバサダーに就任した。超ミニである。
https://news.walkerplus.com/article/153482/image877946.html

プレミアリーグで活躍するサッカー日本代表吉田麻也の自叙伝「吉田麻也 レジリエンス−負けない力」がハーパーコリンズ・ジャパンから刊行された。英語版もイギリスで出版されている。
http://www.sanspo.com/soccer/news/20180709/jpn18070905010002-n1.html

集英社は、歴史大河小説「チンギス紀」の刊行を記念して、朝日新聞社LDH JAPANの両社と協力し著者の北方謙三と、EXILE/EXILE THE SECONDで活躍する橘ケンチとのトークライブイベントを、8月20日(月)19時から、東京・丸ビルホールにて開催する。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000564.000009214.html

コンデナスト・ジャパンの「WIRED」日本版の副編集長に小谷知也が就任した。小谷のキャリアは次の通り。
1972年千葉県生まれ。
1995年、中央大学法学部政治学科卒業後、主婦と生活社に入社。その後、2001年にエスクァイア マガジン ジャパンへ入社。「エスクァイア日本版」シニアエディターとして、映画、音楽、写真、デザイン、建築、都市などにまつわる特集を手がけた後、2009年に独立。「BRUTUS」「GQ JAPAN」「T JAPAN」「HILLS LIFE DAILY」等のライフスタイル・メディアで編集・執筆に携わる一方、「WIRED」日本版に2011年の立ち上げから参画。HPC、人工知能ブロックチェーン、自律走行車、生命科学など、さまざまな領域の記事を企画・編集・執筆。2018年7月より「WIRED」日本版副編集長に就任。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000480.000000930.html

◎2017年度の「朝日広告賞」の広告主参加の部で元SMAPの3人の再出発を印象づけた「新しい地図」の新聞広告が最高賞に!
https://www.asahi.com/articles/ASL763H59L76UCVL009.html

◎「dマガジン for Biz」はNTTドコモが提供している法人向けサービス。契約したお店のWi-Fiスポットにスマホタブレットを接続すると、電子雑誌の読み放題サービスを利用することができるというものだ。「withnews」が「『なんで私にこの雑誌?』も解消 美容室とデジタル読み放題の相性」を掲載している。
「東京都葛飾区亀有に本店がある美容室『プラチノ・ヘアクリニック』では、それまで雑誌に月額1万5千円ほどかかっていたのが3分の1ほどに減ったそうです。
『金額が下がって、読める雑誌の数は増えました。あとは最新号が出るたびに本屋さんまで買いに行く手間や、処分する手間も省けて助かっています』とオーナー」
「美容室にとってメリットが大きいサービスのように思えますが、契約数で最も多いのはカーディーラーだそうです」
https://withnews.jp/article/f0180709002qq000000000000000W00o10101qq000017640A

講談社が7月9日付で「個人情報を含むパソコン紛失のお詫びとご報告」を発表した。
「6月中旬に弊社社員が東京都内でノートパソコンを紛失いたしました。その際、当該のパソコン内のデータとして、個人情報 66 名分が含まれていることがわかりました。まことに申し訳ありません。
弊社は警視庁に遺失物届けを提出するとともに捜索を継続しておりますが、現在までに当該端末の発見に至っておりません。なお当該のパソコンはパスワードでロックされており、直ちに情報が流出することはないと考えられます。現時点で個人情報の漏洩、悪用等の事実は確認されておりませんが、以上の経緯を本リリースにて告知させていただきますとともに、あらためてお詫び申し上げます。
弊社といたしましては、今回の紛失事案を重く受け止め、個人情報の厳格な管理をより一層徹底するとともに社員教育を進め、再発防止に努めてまいります」
http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180709pc_loss%20.pdf
こうしたリリースを出さなければならないほど「個人情報 66 名分」は重要なものであったということなのだろう。仕事は家に持ち帰ってすべきではないのである。こういうことがあったことを思い出す。
http://corporate.pia.jp/news/%E3%80%90%E3%81%B4%E3%81%82%E3%80%91PC%E7%B4%9B%E5%A4%B1%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8A%E8%A9%AB%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%81%94%E5%A0%B1%E5%91%8A_20150717.pdf

電通は、青山学院大学と「スポーツ分野における教育研究に関する包括協定」を締結した。
http://www.dentsu.co.jp/news/release/pdf-cms/2018071-0710.pdf

◎マガジンハウスの女性誌「anan」2110号(7月11日発売)は映画「銀魂2 掟は破るためにこそある」を16ページにわたって特集した。映画の原作は集英社の「週刊少年ジャンプ」連載のマンガである。
https://mainichi.jp/articles/20180709/dyo/00m/200/006000c
マガジンハウスと集英社源平合戦を繰り広げていた「昭和」が懐かしいなあ。

                                                                                                          • -

3)【深夜の誌人語録】

吠えてばかりいる犬に番犬はつとまらない。