【文徒】2018年(平成30)7月19日(第6巻133号・通巻1307号)

Index------------------------------------------------------
1)【記事】金菱清が「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」を発表
2)【本日の一行情報】
3)【深夜の誌人語録】

                                                                                • 2018.7.19 Shuppanjin

1)【記事】金菱清が「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」を発表

河北新報が7月18日付朝刊社会面で「<芥川賞候補「美しい顔」>きょう選考会 異色の震災小説、評価は 東北も注視」を掲載した。
仙台市の出版社、荒蝦夷(あらえみし)の土方正志代表は『想像をはるかに超えた巨大災害を取り上げるのに5冊は少ないのでは』と驚く。『現場に行かずとも小説は書けるが、もっと準備して自分なりの考えを持っていれば、類似表現にはならなかっただろう』とみる。
仙台市で高校時代を過ごし、盛岡市に実家がある作家木村紅美さん(東京)は『震災は言葉を失わせるほどショックな出来事。現在進行形の生々しい問題で、直接の題材にすることは自分にはまだできない』と実作者としての実感を語る。
自身は震災後、小説を書けなくなり、沿岸部のがれき撤去のボランティアに通った。『経験していないことを想像力で書くことは文学の王道。被災地と距離があるからこそ書けたのかもしれない』と話した」
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201807/20180718_73012.html
木村の芥川賞候補作となった「雪子さんの足音」(講談社)は映画化がきまった。これは木村のツイート。
「じつは十日ほどまえ宮城の地元紙・河北新報から「美しい顔」について電話インタビューを受け、明日の朝刊に載るみたいです 私のコメントはほんの三言くらい(実際は記者さんと四十分も話しこんだ)で他愛もないのですけど・・・東北学院大の金菱清さんのブログはいつも何度も読み込んでしまいます」
https://twitter.com/waremokouko1/status/1019254734807445506
河北新報は、この記事の横に「<芥川賞候補「美しい顔」>自身の内面理解のために震災が舞台設定に使われただけ/被災者の手記編集 金菱教授に聞く」を掲載している。金菱は言う。
「類似は十数カ所あり、学生がネットで拾った情報を切り貼りしてリポートを書くのと同じレベルの流用だった。研究者が論文でやれば懲戒処分となるケースだが、文学作品なら許されるとの認識は理解できない」
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201807/20180718_73011.html
荒蝦夷が「本日の河北新報朝刊社会面。北条裕子『美しい顔』。東北被災地では『問題』ではなく既に『事件』とツイートしている。
https://twitter.com/araemishi/status/1019384267405578241
「AbemaTIMES」が掲載した「いよいよ芥川賞が発表へ 『美しい顔』に"無断で使われた"被災者たちの胸中、そして文学とルポの違いとは」は、石井光太のノンフィクション「遺体」で石井に取材を受けた人たちが発言している。医師の小泉嘉明の発言。
「北条さんにはベースがないもんだから、書きようがないんだよ」
元葬儀所職員の千葉淳の発言。
「石井さんは修羅場をくぐってきた方なんで、"ご遺体の頭を持ち上げて下さい"と言えば"はい"ってすぐやってくれる方で、この人は素晴らしいなと思ってお付き合いを始めたんです」
「北条さんが私の傍に付いて、私の言葉を聞いて書いたわけじゃなく、石井さんの作ったものを引用しているのだから、ちょっと解せないところあるよね」
仙寿院の芝粼惠應住職の発言。
「簡単に感動したからって使うっていうのは非常に安易すぎるし、被災者からすれば小説などには使ってほしくないっていうふうには思います」
「亡くなった人と遺族の気持ちを踏みにじることは絶対にダメだと言った。石井さんもそれは理解していましたので、"これで間違いないか?"って、何度も確かめて書かれている」
釜石市で書店を経営する桑畑眞一の発言。
「作品が良ければいいんじゃないかと思いますよ。それを無断で引用したことは悪いことなのかもしれないけど、あくまでも作品で判断されるべきだと思います。それ以上でもそれ以下でもないと思います」
「3.11 慟哭の記録――71人が体感した大津波原発・巨大地震」の編者である金菱清の発言。
「表現の類似性ではなく、文学の本質性が問われている」
https://abematimes.com/posts/4565077
金菱清がブログ「新曜社通信」に署名エントリとして「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」 を発表した。
「作者の北条裕子氏からいただいた私(金菱)への手紙によれば、震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)「自己の内面を理解することにあった」とある(私信のため詳細は省く)。つまり、小説の舞台がたまたま震災であっただけであり、その意味においては、安易な流用の仕方も小説特有の「自由な」舞台設定と重なる。そして主人公の口を衝いて出る言葉を通して「雄弁」に震災を物語ろうとする。受賞の言葉にも、私信にも、執筆動機として震災の非当事者としての私的な自己理解の欲求が述べられ、おそらく次の小説の舞台装置があるとすれば、震災ではないだろうことは容易に想像がつく。つまりその程度の位置づけでしかない」
講談社の『その類似は作品の根幹にかかわるものではなく』というコメントは、言い方を変えれば、類似程度は文学的価値に比べれば、些末な問題であるとも聞こえてくる。根幹ではない私たちの軽い震災記録とは一体何かを考えざるをえない」
http://shin-yo-sha.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-4c87.html
野間文芸新人賞の選考委員でもある 星野智之は自らのフェイスブックに、「新曜社通信」同エントリから次の部分を引用していた。
「当事者もどう震災を理解してよいのか考えあぐねている場面に多々巡り会う。小説家だけが言葉を書く特権性を持ちうるのだろうか。否、市井の人々こそ言葉を書き綴ることの文学性を持ち合わせていると痛感する時がある。私は当事者が自らの意思で書き綴る手紙と、そこから読み取れる深い沈黙の意味を、ライティング・ヒストリーと呼んでいる」
そのうえで星野は、こう書いている。
「文学に関わる人は、この金菱さんの文章は読んでおいてほしい。
私が『眼魚』になったのは、これが原因のひとつだと思う。
そして、いろいろな人に、『小説、書いたら?』と言っているのも、これと重なるものがある 」
https://www.facebook.com/tomoyuki.hoshino.54/posts/1489907357782246
ちなみに私は7月9日付文徒で次のように書いている。
「いずれにしても北条裕子は金菱清の言い分を木っ端微塵に粉砕しない限り、『美しい夏』は文学としての生命を絶たれてしまうことになるのではあるまいか。ちなみに金菱清が背負っているのも『文学』なのである。柳田国男の『遠野物語』が文学であったように金菱清の『3.11慟哭の記録』や『呼び覚まされる霊性の震災学』『私の夢まで、会いに来てくれた』も文学なのである 」
仲俣暁生フェイスブックに金菱の同エントリから次の部分を引用していた。
「受賞の言葉にも、私信にも、執筆動機として震災の非当事者としての私的な自己理解の欲求が述べられ、おそらく次の小説の舞台装置があるとすれば、震災ではないだろうことは容易に想像がつく。つまりその程度の位置づけでしかない 」
そのうえで、仲俣はこう書いている。
「本日付の金菱さんの新しいコメント。私信の中身は容易に想像がつく。北条裕子が真の作家なら、舞台を火星かどこかに移して同じ話を書き直してから本にすればよいと思う。まったくの架空の話として」
https://www.facebook.com/NakamataAkio/posts/10216706944366844
私は7月2日付文徒で書いた。
「被災地を訪ねることなしにノンフィクションやフィールドワーク、報道を参考にして、自らの創造力と想像力をもって震災文学を書きあげることには何の問題もあるまい。問われるべきは、『類似』の程度であり、北条裕子の作家としての倫理であり、講談社の版元としての見識ということになろうか」
宮崎市の貧困なる外商専業の書店人」を名乗る閑古堂は、同じく「新曜社通信」同エントリを引用してツイッターに投稿している。
「薄皮一枚でかろうじて繋がり未だ傷の癒えない人々にとって、否応なく小説の舞台設定のためにだけ震災が使われた本作品は、倫理上の繋がり(当事者/非当事者の溝)を縮めるどころか、逆に震災への『倫理的想像力』を大きく蹂躙したのだと私は述べておきたい」
https://twitter.com/1969KANKODO/status/1019349934997245952
「イサの氾濫」(未来社)の木村友祐もフェイスブックで金菱清のエントリに早速、反応していた。
「重く受けとめた。想像力で書かれるフィクションが、現場の、生身の人間に対する想像力を欠いていたとしたら? これは、小説を書くだれもが考えなければならないこと。また、震災から7年たって、小説の言葉は一体何ができたのか。それも考えさせられる。痛い」
https://www.facebook.com/yusuke.kimura.794/posts/1591830344278831
フィルモアイーストの角田菜穂子も金菱の議論を踏まえたうえで「明日の芥川賞発表に向けて」をエントリした。
「今よりもずっと死が身近だった時代の文学は、その『何か』を描くことを突きつめていたような気がします。私は文学とは、ずっとそういうものだと思っていました。ですから、今回の『美しい顔』騒動に対しては、自分が抱いていた文学への幻想を打ち砕かれてしまったという幻滅した思いがあります」
http://fillmore-eastjp.com/2018/07/post-29.html
詩人の河津聖恵のツイートを私は既に紹介しているが、河津は日比嘉高による「『美しい顔』の『剽窃』問題から私たちが考えてみるべきこと」から「小説の言葉は奪うが、奪ったままにはしない。小説がそこで行うのは、奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく作業だ。」というフレーズを引用しながら、「しかし収奪された側の要請のない編集や意味付与は、やはり再収奪では。。」と呟いたうえで、次のように連続ツイートをしている。北条裕子には是非とも読んでもらいたいツイートである。蛇足ながら言えば河津の「新鹿」は、中上健次がまるで乗り移ったかのような凄みを感じさせる詩集である。
「私も紀州・熊野を旅したフィールドワーク詩集で、彼地で聞き取った人々のことばをいくつも引用している。それはその人たちの生がそのことばにおいて輝いていたからである」
「ポスト震災文学というカテゴリーは、ありえないのではないか。震災にことばが向かい合うのは、震災という甚大な喪失と引き換えに、ようやくこのエゴイズムの社会が思い出しえた生のかけがえのなさだ。それは様々な意味で立ち戻ることなのだから、ポストという謳い文句とは無縁なのだ」
「私も『美しい顔』を読んだけれど、よく出来た小説と思いつつ、残念ながら震災という甚大な喪失と引き換えに生まれたことばとは思えなかった。しかしそれは今の小説の問題ではないか。あの未曾有な震災にたいして、ポスト震災と自ら称する手つきでは、死者や被災者の沈黙には永遠に拒まれるだろう」
「あと、『美しい顔』の描写は漫画的で、今若い世代が小説を書く時に、頭に描くデッサンは漫画なのかも知れないと思った。そのことも震災と向き合うには、不向きだったかも知れない。別のテーマを選ぶべきだった」
「でも、だから『人間を理解したかったのです』と謝罪コメントにあったのだろう。わたし、ではなくて」
「しかし私は、一番の問題は、この小説をポスト震災小説などという商品に仕立てた人々にあると思う。商品だからモラルなんか知らない、売れればいいと考えていたのでしょう。その証拠は、絶賛する評者たちのことばの、異様な貧しさである」
「作者自身はそうした『ポストモダン』の商魂に、ある意味で乗りつつ、じつはすかいに見ているのかも知れない。この小説のヒロインと同様に」
https://twitter.com/kiyoekawazu/status/1017671071409946624
https://twitter.com/kiyoekawazu/status/1017674650120122369
https://twitter.com/kiyoekawazu/status/1017676965350801409
https://twitter.com/kiyoekawazu/status/1017678884366532608
https://twitter.com/kiyoekawazu/status/1017679415596146689
https://twitter.com/kiyoekawazu/status/1017682213620465664
https://twitter.com/kiyoekawazu/status/1017686258967986176
河津のツイートは金菱清の「『美しい顔』に寄せて――罪深いということについて」と、まさに共振しあっているではないか。「はじめての沖縄」(新曜社)を上梓したばかりの社会学者・岸政彦のツイート。
「文学的価値についてはわかりません。でも、俺は素朴に、たとえば自分がいま必死になってやってる沖縄戦の聞き取りの語りのディテールが、どこかの知らない作家に勝手に流用されたらブチ切れると思うけどね。
法的に剽窃に当たるかどうかは関係ない」
https://twitter.com/sociologbook/status/1016485802535088128
周知のように岸も小説を書く。初めて書いた「ビニール傘」(新潮社)が芥川賞候補になっている。

                                                                                                        • -

2)【本日の一行情報】

◎「うる星やつら」生誕40周年を記念して8月から「うる星やつらPOP☆UP STORE」が開催され、高橋留美子の故郷である新潟県を皮切りに全国を巡回 する 。
https://youpouch.com/2018/07/16/519032/

◎米モード誌「Vogue」とその編集長Anna Wintour(アナ・ウィンター)がNike及びJordan Brandとチームアップし、同ブランドのアイコニックなモデルAir Jordan 1とAir Jordan 3を大胆に表現したそうだ。Annaはオフィスでもサングラスをかけている!日本の編集長もここまでやる必要があるということだろう。黒衣では編集長失格の烙印を押される時代である。
https://hypebeast.com/jp/2018/7/anna-wintour-vogue-nike-air-jordan-1-3-sneakers-awok-release

祥伝社の女性マンガ誌「FEEL YOUNG」で連載中のかわかみじゅんこ の「中学聖日記」が有村架純主演で連続ドラマ化され、10月からTBS系で 放映される。かわかみはフランス在住。祥伝社の前社長もまだフランス在住のはずだ。
https://eiga.com/news/20180716/1/

◎7月18日付東京新聞埼玉版が掲載した「本1冊売るたび1円寄付 朝霞の書店、市へ」によれば東武東上線朝霞駅ビルにある一進堂の「CHIENOWA BOOK STORE」 は書籍一冊または文房具一点が売れるたび、一円を市に寄付する 独自の地域貢献プロジェクト「1 Book for Asaka」に取り組んでいるそうだ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201807/CK2018071802000159.html

◎「ZOZOTOWN」を運営するスタートトゥデイの前澤友作のツイートが大反響だ。
「【大きな願望】プロ野球球団を持ちたいです。球団経営を通して、ファンや選手や地域の皆さまの笑顔を増やしたい。みんなで作り上げる参加型の野球球団にしたい。シーズンオフ後に球界へ提案するためのプランを作ります。皆さまの意見も参考にさせてください。そこから一緒に作りましょう!」
https://twitter.com/yousuck2020/status/1019054130017341440
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1807/17/news088.html

◎JCJ賞が決まった。朝日新聞社の「財務省による公文書の改ざんをめぐる一連のスクープ」、高文研「日本ナショナリズムの歴史」全4巻(梅田正己著)、しんぶん赤旗「米の核削減、日本が反対 核弾頭の最新鋭化も促す」「『沖縄に核』日本容認 09年、米の貯蔵庫建設提案に」その他続報、沖縄タイムス「沖縄へのデマ・ヘイトに対峙(たいじ)する報道」、日本テレビ放送網「NNNドキュメント18 南京事件Ⅱ 歴史修正を検証せよ」。
https://www.asahi.com/articles/ASL7K4Q3JL7KUTIL02L.html

主婦と生活社で「すてきな奥さん」編集長、「CHANTO」創刊編集長だった山岡朝子が「ハルメク」編集長に就任して早や一年が経つ。産経ニュースが「出版不況でも読者増やす雑誌『ハルメク』 シニアの心つかむ秘訣」を掲載している。
「読者が大きく増えたのは、山岡さんが着任した昨年から。それ以前は健康をテーマにした特集が中心でライバルとなるシニア誌との差別化に苦しみ、新規読者の開拓は月平均で5500人前後と横ばいだった。山岡さんはスマートフォン特集を組むなど読者ニーズを掘り起こし、昨年には8700人と急増させた」
https://www.sankei.com/life/news/180718/lif1807180011-n1.html

集英社は、西日本を中心に豪雨で配送に大きな影響が出たとして、「週刊少年ジャンプ」32号をホームページ上で7月31日まで無料公開に踏み切った。
https://www.asahi.com/articles/ASL7K5Q03L7KUTFL013.html

                                                                                                        • -

3)【深夜の誌人語録】

志が高ければ高いほど、頭は低くなるし、言葉は優しくなるものだ。