出版の歴史から「美しい顔」を消さないために  第二回


ネットで無料公開は正しかったのか

TBSラジオで放送されている「荻上チキ・セッション22」は2018年7月3日に『美しい顔』を取り上げた。ブログ「miyearnZZ Labo」の「荻上チキ 芥川賞候補作 北条裕子『美しい顔』問題を語る」は、これを書き起こしたものである。
《でも、今回のひとつの騒動というのも、ある種それをむしろ物語を現実の方が追いかけたような形で模倣してるような状況になっていたりするわけですね。だから、そういうような「炎上騒動」みたいなことでくくられて語られて、たとえばこの作品が読めないとなると、文学的にはあまりにもったいなさすぎるぐらいの作品力であるということは前提にしてください。その上で、法律上は法的な当事者同士の対応というのあるでしょう。個人的には編集者がいろいろと付記をしたほうがいい。付け加えた方がいいという風には思いました。「参考文献はこうだ」とか。あるいは、インタビューの別立てのところで何かしら触れるっていうことはあってもいいでしょう。それは仁義の問題ですね》
《……そのどちらサイド云々の前に、まずそれぞれの本を読む。今回参考文献として挙げられている個別の作品、僕はどれも読んでますけども、どれもやっぱりルポルタージュや研究として他に無い、類を見ない著作であることはこれもまた間違いないわけですよね。だから結論として、全部読んでその上でいろいろ考えてみてください。おそらくそうすれば、「パクり/パクられ」という風な単純な言葉だけでは語れない、いまのような何かを喋りたくなるような情念みたいなものがふつふつと湧いてくると思うんですね。そうしたような体験というものを是非ともしてほしいなという風には思いました。少なくとも単純化だけはしてほしくないという風に思います》
荻上の発言は一読すれば頷ける。しかし、と私は思う。北条及び講談社からすれば「参考文献未掲載」と簡単に片づけられてしまったリストのなかに「3・11 慟哭の記録―71人が体感した大津波原発・巨大地震」(新曜社)が入っていたことが私には気になっていた。東北学院大学の震災の記録プロジェクトは、被災者の目がとらえた震災を文字記録に残そうとプロジェクトチームが各地を回り、岩手、宮城、福島の被災地全域のあらゆる年齢、職業の男女71人の証言を集め、これをまとめたものである。編者として金菱清の名が掲げられている一冊である。「参考文献未掲載」と言うが、北条が小説のなかで完膚なきまでに「3・11 慟哭の記録」の痕跡を消し去るに至るまで表現を昇華させない限り、北条は民衆が金菱たちに重い口を開いて語り出した言葉を蹂躙したことになるのではないか。もし、その可能性があるのであれば、インターネットで北条裕子の「美しい顔」を全文公開したことは果たして妥当であったのか。私は、そう思った。しかし、渡瀬昌彦常務を文芸部門の頂点に戴く講談社は7月4日、北条裕子の「美しい顔」を全文公開した。
講談社は7月3日付で「群像新人文学賞『美しい顔』関連報道について 及び当該作品全文無料公開のお知らせ」を発表した。これは日本の出版史に残るであろう威圧的な文章である。何よりも東日本大震災に実際に直面した様々な傷を肉体的にも精神的にも負う被災者の人々の心情など一顧だにしていない文章でもある。前回も引用したが、今回も再び引用しておくことにしよう。
《『群像』2018年6月号に掲載した第61回群像新人文学賞当選作、北条裕子氏の「美しい顔」における小誌の参考文献未表示の過失についてお詫びいたします。本件については7月6日発売の同8月号巻末に告知を掲載します。告知文面は別紙の通りです。
6月29日以降の一部報道により、本作と著者について中傷、誹謗等がインターネット上等で散見され、盗用や剽窃などという誤った認識を与える文言まで飛び交う事態となりました。
これらの不当な扱いによって、本作と著者およびそのご家族、新人文学賞選考にあたった多くの関係者の名誉が著しく傷つけられたことに対し、強い憤りを持つとともに、厳重に抗議いたします。
今回の問題は参考文献の未表示、および本作中の被災地の描写における一部の記述の類似に限定されると考えております。その類似は作品の根幹にかかわるものではなく、著作権法にかかわる盗用や剽窃などには一切あたりません。
石井光太氏著『遺体 震災、津波の果てに』との類似点は弊社の調査により発見し、石井氏に事情説明に赴きました。以後、石井氏および同氏の代理人である新潮社に対して、著者とともにできうる限りの誠意を尽くして協議を行ってまいりました。
しかし、協議を続けている中で、6月29日の新潮社声明において、「単に参考文献として記載して解決する問題ではない」と、小説という表現形態そのものを否定するかのようなコメントを併記して発表されたことに、著者北条氏は大きな衝撃と深い悲しみを覚え、編集部は強い憤りを抱いております。
北条裕子氏の作家としての将来性とその小説作品「美しい顔」が持つ優れた文学性は、新人文学賞選考において確たる信により見出されたものです。上記の問題を含んだ上でも、本作の志向する文学の核心と、作品の価値が損なわれることはありません。
今後弊社としては、甚大なダメージを受けた著者の尊厳を守るため、また小説「美しい顔」の評価を広く読者と社会に問うため、近日中に本作を弊社ホームページ上で全文無料公開いたします。
なお、他の参考文献の著者および関係者の方々に対しても、誠意をもって協議させていただく所存です。
また本件に関する詳細な経緯説明も、追ってご報告させていただきます》

2019年6月16日現在、「本件に関する詳細な経緯説明」は私の認識では一切行われていないのである。こうした、噓を平気でつく広報を繰り広げるのが渡瀬昌彦常務取締役や乾智之広報室長にとっての広報なのだろうか。それは間違っている。言論やジャーナリズムを商売とする産業であれば手を染めることは絶対に許されないはずである。


全文公開に「異論」は存在した!


「雑誌の人格」(文化出版局)でお馴染みの能町みね子もインターネットで公開された「美しい顔」を読んだようだ。こうツイッターに投稿している。
《北条裕子「美しい顔」まだ読みかけのところで、例の剽窃箇所すら出てきてない状態なんだけど、この時点ですでに各選考委員が絶賛しまくっていることに納得がいかない。文章がヘタだと思う。文章がヘタでも内容や展開がよければ絶賛されるものなんだろうか。わからない》
「美しい顔」の場合、冒頭部分に置かれた「被災地は撮ってもタダか。被災者は撮ってもタダか。どのように持って帰ってもタダか。この男も、マスコミも、みんなそうだ」に始まり、性的な喩をもって展開される「告発の表現」についていけないと、能町のような評価になるのかもしれない。能町は、こうもツイートしている。
《「美しい顔」中盤まで読んだ(仕事の間に読んでるうえに元来かなり遅読です)。冒頭部はひどく稚拙な文体だったけど中盤で少しマシになってきた。ただ相変わらず、同じ意味の文を何度も繰り返す癖と、全然改行しないだらだらした文章になじめない。その表現が筆者の意図通り機能してるとも思えない》
東浩紀小谷野敦は全文公開される以前に「美しい顔」を読んでいたのだろう。
《話題の群像新人賞・北条裕子さん「美しい顔」。文学性の評価はそれぞれだと思いますが、ぼくはあまり震災を主題にした作品だと感じませんでした。作家さん本人も被災地に行ったことがないと言っているようだし、この作品の登場はむしろ、震災経験が物語の舞台にできるほど遠くなった現れなのかなと》(東浩紀
《まあ参考文献は忘れたんじゃなくて隠したんだろうし、もうその点で私はこの作者は嫌いだし、それ以前に読んだ時もうさんくささを感じた》(小谷野敦
東のツイートは鋭いと思った。そう「美しい顔」は震災を主題にした作品ではないのである。しかし、「被災地は撮ってもタダか。被災者は撮ってもタダか。どのように持って帰ってもタダか。この男も、マスコミも、みんなそうだ」という畳みかけるような表現が「予示」しているように「震災文学」としてしか消費されないのである。いずれにしてもツイッターなどを見ていると「テクスト論」派が「美しい顔」を評価していることが理解できよう。逆に山崎行太郎など昔気質の批評家の評価は厳しいようだ。山崎はフェイスブックで「美しい顔」について触れ、こう書いている。
《ほぼ文章の丸写し。私の基準では、これはアウト。私も、某所で、小説講座の講師を勤めているが、参考文献からの引用や、素材を参考にすることは問題ないが、文章の丸写しは駄目だと指導している。丸写しには、引用マーク(「・・・」)を使え、と。》
講談社が「美しい顔」の全文公開に踏み切ったことをツイートで問題視したのは、今年になってから「幻冬舎」騒動で一躍名を上げることになった作家の津原泰水である。
講談社の姿勢が謎過ぎる。「小説『美しい顔』の評価を広く読者と社会に問うため」の公開との事だが、では群像新人文学賞の審査員はなんの為に居るのだ?》
加えて言えば、全文公開するのであれば、「美しい顔」と受賞を争った候補作も同時に全文公開すべきではなかったのか。逆に他の候補作を全文公開できなかったのは群像新人文学賞の審査員の顔色をうかがってのことではなかったろうか。そういう政治が昔から編集者は好きであったのだ。
図書新聞」2018年7月14日号で岡和田晃の「反ポリティカル・コレクトネスの終焉」が発表された。岡和田はゲームデザイナーであり、文芸批評も手がけるという「異才」である。また、アイヌのモチーフによって「ヤマト」を攪乱し続けた反骨のアナーキスト作家・向井豊昭のよき理解者としても知られている。講談社から発表された高圧的な文章に簡単にラリってしまう輩よりも、私などは岡和田の『反ヘイト・反新自由主義の批評精神 いま読まれるべき〈文学〉とは何か』(寿郎社)を信用してしまうクチである。岡和田晃の「反ポリティカル・コレクトネスの終焉」は「美しい顔」について、次のように書いている。
《第一五九回芥川賞候補作となった北条裕子『美しい顔』(第六一回群像新人文学賞受賞作、『群像』二〇一八年六月号)は、3・11東日本大震災を『被災地に行ったことは一度もない』立場から描いた作品という触れ込みだが、遺体安置所の描写が、石井光太『遺体――震災、津波の果てに』からの、出典もとを明示しない無断引用になっていると、『朝日新聞』ほか大手新聞が報じている。通常、この時評では大手文芸誌の新人賞受賞作はできるだけ取り上げることにしているが、『美しい顔』に評者はどこか引っかかりを感じて、言及を避けていた。今回、不安が嫌な形で的中してしまった格好である。
評者自身も被害にあった経験から言うが、無断引用か、はたまた盗作かというのは、された当人には自明だが、対外的な立証は難しい部分がある。ただ、『美しい顔』に関しては、そもそも『引用』元をはっきり明記したほうが完成度は上がったに違いない、と自信をもって言える。応募時点で3・11から七年もの年月が経過しているのだから、震災に相応の距離感は生じているはずで、距離そのものを批評的に思考すべきだった。そのような視点が採られなかったのは、本作がどこまでも『抒情』の産物として書かれ、受容されたからだろう。今こそ、『これからは抒情との戦いだ!』(向井豊昭)という言葉を想起すべきではないか》
「美しい顔」が「抒情」の産物であればこそ、経験の無さを補うべく、他の作品の「抒情」を丸ごと借りて来てしまったのかもしれない。参考文献を明示しなかったことが問題なのではなく、この点にこそ問題がありはしなかったのか。


新潮社は挑発に乗ることなく大人の対応


新潮社が発表した「『群像』8月号、『美しい顔』に関する告知文掲載に関して」は、講談社が7月3日に発表した高圧的な物言いが印象的な「群像新人文学賞『美しい顔』関連報道について及び当該作品全文無料公開のお知らせ」に比べれば抑制のきいた良い文章である。
《5月7日発売の「群像」6月号で上記の問題が生じたことを認識した講談社から、5月14日にまずは石井光太氏へ、両作品を比較した類似箇所のリストの提示、それを元にした事情説明と謝罪がありました。また『遺体』の版元であり、石井氏の代理人である弊社には、5月29日に同様の事情説明と謝罪がありました。29日の協議で、代理人である弊社が講談社に要望した主な点は以下の5点です。
①発端となった「群像」の誌面で、何らかの回復措置を講じて頂きたい。
②参考文献掲載は当然のこととして、実際に複数の類似箇所が生じていることに関しては、今後の『美しい顔』の単行本化の際、参考文献を記載すれば済む話ではなく、類似箇所の中でも、特に酷似した箇所の修正が必要と考えている。
③『遺体』は、石井氏が取材をした被災者に、掲載の許諾を取るなど丁寧な手続きを経てまとめた作品。石井氏との信頼関係があったからこそ話し、文章化を許可して下さった内容のはずが、単なる参考の域を超え、酷似する箇所まで生じてしまっている。石井氏を信じて取材に応じてくださった被災者の方々への対応を考えて頂きたい。
④北条氏自身からは、未だ何の説明もない。ご本人から書面などで説明頂きたい。
講談社は、類似箇所が生じてしまった経緯、類似箇所に対する認識も含めて、今回の件についての社としての見解をまとめて頂きたい。
この弊社からの要望をもとに、5月29日以降、講談社と協議を進めました。講談社には前向きに弊社の要望を検討頂いたことで、問題は徐々に解決に向かいました。
①については、7月6日発売の「群像」8月号に告知文掲載の対応を頂きました。内容についても、講談社、石井氏、弊社の間で協議を済ませた内容となりました。
②については、『美しい顔』の単行本化が可能であれば、今回生じた複数の類似表現の修正を、石井氏に確認しつつ進めたい、との対応を頂きました。
③については、まずは「群像」告知文にて対応頂きました。一方で、『遺体』の主たる登場人物である2名に対し、手紙または面会の上で説明をする機会を頂きたいとの、講談社側から示された対応等については、積み残しとなりました。
④については、6月13日に石井氏と弊社にあてた北条氏の謝罪文を受け取りました。
⑤については、何度かのやり取りを経た後、6月27日付で、「群像」編集長から石井氏へあてた『お詫びと経緯のご説明』という形で、見解とお詫びを頂きました。
協議が進んだ結果、「群像」8月号が発売される7月6日を見据えつつ、北条氏と講談社、石井氏と弊社の間に残された着手すべき課題は②と③の積み残しとなりました。この時点で、こうした協議を続けなければならない課題はありましたが、講談社と弊社との間で大きな見解の相違はなかったという認識でした。「版元間かみ合わぬ議論」「新潮社は反発」との一部報道も後に見受けられましたが、そのような状況ではなかったと認識しております》
講談社の「群像新人文学賞『美しい顔』関連報道について及び当該作品全文無料公開のお知らせ」についても、次のように述べている。
《しかしながら、7月3日、突然、講談社より「群像新人文学賞『美しい顔』関連報道について及び当該作品全文無料公開のお知らせ」と題したリリースが発表されました。そしてその中で、『6月29日の新潮社声明において、『単に参考文献として記載して解決する問題ではない』と、小説という表現形態そのものを否定するかのようなコメントを併記して発表されたことに、著者北条氏は大きな衝撃と深い悲しみを覚え、編集部は強い憤りを抱いております』と記されるなど、弊社に怒りの矛先を向けた内容でした。
この講談社のリリース内容に、弊社はただただ驚くとともに困惑するばかりでした。弊社のコメントを再度お読み頂ければお分かりのように、「小説という表現形態そのものを否定する」記述などどこにもありません。また、講談社が怒りの矛先を向ける「単に参考文献として記載して解決する問題ではない」という弊社の見解も、5月29日以降の協議ごとに講談社側にはお伝えしてきたもので、今回のコメントではじめて弊社が表明したものではないことは、これまでの経緯からご理解頂けると思います》


民衆から経験を搾取することの是非


「新世紀ゾンビ論」の藤田直哉は新潮社の対応をツイッターで次のように評価している。
《冷静な対応。特に、被災した当人たちとの信頼関係の問題や、書くのがどれだけ大変なことかに力点が置かれている箇所が重要。『3・11慟哭の記録』の場合も同様で、参考文献や修正という「出版業界の法や慣習・仁義」の問題としての手打ちよりも、そっちが注力すべき問題》
藤田は今年の5月に震災文芸誌『ららほら』を創刊している。『ららほら』には金菱清も寄稿しているが、藤田は『ららほら』を創刊するにあたって、『ららほら』のホームページで「『ららほら』の立場から、『美しい顔』について考えたこと」を公開した。
《被災地に取材に来たカメラマンを、かわいそうな人間を消費するポルノグラフィを撮影しに来た人として描き、その欲望に呼応してかわいそうな被災者を演じていく目立ちたがりの若い女性の共犯関係を描いた箇所がある。端的に言って、カメラマンは災害のカタストロフに興奮し、かわいそうな被災者でオナニーしている、と描いているし、被災者は被災者で物語を演じて同情などをせしめる詐欺師みたいに描かれている。
「公」の名の下の抑圧により発せられない声を発することこそが、文学の使命であると考えた場合、この作品を擁護しなくてはいけないのではないか? 理屈としてはそうなのかもしれないが、どうもぼくにはこれが「本当の言葉」のようには感じない。これは倫理的というよりは、美的な判断だ。
作者の演技的な人格における「本当の言葉」は確かにあるが、震災という未曽有の経験に即した「本当の言葉」という、ぼくらが耳を澄ませようとしている特異な声とは程遠い、ステレオタイプな声でしかない。もちろん、こういう皮肉の面白みや問題提起の価値は認めるし、才気ある文体であることも否定しない。が、個人的には、『ららほら』とは正反対の方向を向いている震災後文学だと感じる》
ネットを検索しているなかで当時、出会ったのが「ビッグストーンブログ」がエントリした「小説『美しい顔』について。」である。次のような記述には同感したものである。
《新潮社のコメントには、冷静な筆致で好感を持った。怒り丸出しの版元のコメントとは格が違うと思ったのが、正直なところである》
《越えてはならぬラインを越えているな、というのが率直な感想であった。出版元が強調する「作品の根幹に関係ない」は免罪符にならないだろう。また「被災地に行っていない」云々が問題でもない。枝葉末節も含め「その人の作品」たることが大事である》
ブログ「illegal function call in 1980s 」の存在を知ったのは大月隆寛ツイッターによってである。「illegal function call in 1980s 」は「新潮社のコメントを読む ― 北条裕子『美しい顔』に寄せて」や「或文学的態度表明」をエントリしている。やはり講談社の発表文に違和感を抱いている。今後も講談社がこうした文章を連発するならば、大衆という神から見放されることになるだろう。
《文体や声が確立している書き手ならば、他人の文体は自ずと咀嚼して取り入れることになる。そのようにして取り入れられたものは「わが文体」であります。また、自己が確立しているから他者との境界を明確にする意識の働きが生まれる。このときの、咀嚼に代わる作家作法のひとつが引用です》
《企業対応として講談社が明らかにすべきは、今回の行為に関して担当編集者はグルであったのか、語調をやわらかくして申せば、認識、黙認、追認をしていたのかどうかです。そのことを抜きにむやみに強い調子をひけらかすから、あのような威勢、空威張りだけのプレスリリースになります。
http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf
過失を認めることと強い調子の間には甚だしい飛躍がある。平たくいえば、ただの脅しではありませんか。それも足元が揺らいでいることにも気づかないで嵩上げをした台座の上からの》
仲俣暁生フェイスブックで次のように述べていた。正鵠を射た発言ではなかろうか。
講談社は基本方針がぐらつき過ぎてる。
1)新人作家を守る。
2)作品は最善のかたちで発表する。
3)新人作家が執筆時に参考にした著作の扱いと原著者への説明に誠意を尽くす。
4)ネットの誹謗中傷には毅然と対処する。
これだけでよかったはず。新潮社の「参考文献では済まない」というコメントにブチ切れて「小説という表現形態そのものを否定する」云々と開きなおったのは、あとから開示された経緯を見る限り余計なことで、あそこですべてがおかしくなった。
芥川賞のノミネートを辞退し、時間をかけてリライトした完全版を単行本にすれば、これほどの酷いことにはならなかった。いまの編集部が危機管理のノウハウに欠けており、作家と作品を守れなかった》
さすが仲俣である。2013年3月末で終了した総額20億円に上る補助金事業「緊デジ」の審査委員を務めた仲俣が電子化された書目のPDFファイルに著者や出版社のクレジットは一切なかったことを問題にして以来、私は一貫して仲俣を信用しているのである。私と真逆の評価をしていたのが講談社の乾智之広報室長であったことも付記しておこうか。乾もまたかつて「緊デジ」には深く関与していた。PDFファイルに著者や出版社のクレジットを入れることを拒んだ勢力の中心人物のひとりであったと言われている。


石戸諭が金菱清をインタビュー


ジャーナリストの石戸諭は新潮社の発表した文章を読んで次のようにツイートしていた。
《「美しい顔」問題。新潮社の説明を読む。6月13日に石井光太さん宛に北条氏と講談社から謝罪文があり、さらに講談社は単行本段階で類似表現の修正も進めたいという話があったことが明かされている。講談社も例の「挑戦的」な無料公開予告リリースとは異なり、問題を認識していたのではないかな〜》
石戸は、こうもツイートした。
《作家は被災地に行ってない「私」が小説を書くことを「罪深い」という。僕はそれが罪深いとはまったく思わない。シーンを想像から作り上げて、リアル以上のものを書くことは小説家の役割でしょう。問題は、個々人の思いが詰まった言葉を奪うことにあるでは?という記事です》
かくして石戸諭は「ヤフー!ニュース個人」に「芥川賞候補『美しい顔』は『彼らの言葉を奪った』被災者手記・編者の思い」を発表する。この記事の中で『3・11慟哭の記録 71人が体感した大津波原発・巨大地震』(新曜社)を編んだ金菱清は次のように語っている。
《学生のレポートで参考文献をただコピペするのではなく、コピペしたものの表現を一部だけ変えたものをよく見かけます。私はこういうことはしてはいけないと学生に指導しています。「美しい顔」のディティールはそれと同じです。
『慟哭の記録』は被災者、個々人が感じたとてつもない不条理に対する怒りや憤りを綴った手記です。その中には「美しい顔」で描かれたマスコミ批判も含まれています。彼らが発した言葉は彼らのものです。
少なくとも10数箇所にわたり手記に類似した描写が見つかりました。私が読んだら「あぁこれは〜〜さんの手記だ」「ここは〜〜さんのエピソードを使ったな」とすぐわかるものです。
私がこの小説に批判的なのは、彼らの発した言葉に対する敬意を欠いているからです。単に小説のネタとして、彼らの言葉を使っただけではないでしょうか》
「美しい顔」をインターネットで全文公開したことについても金菱清は次のように語っている。
《私からはコメントのしようがない、に尽きます。
事実として言えるのは、被災者本人にしか書けない、帰属しない言葉を利用して彼女が作品を書き、その事実を伏せていたということだけです。
その態度と作品の質だけが全てでしょう。私は敬意が欠けていると思ったということです》
金菱清は石戸諭のインタビューに対して別に強い口調で応じているわけではない。しかし、その怒りの重量をこの段階で北条裕子は、「美しい顔」は、講談社は真摯に受け止めねばならなかったはずである。HONZ副代表の東えりかが次のようにツイートしている。
《ノンフィクションを素材にする場合、小説家は作品に敬意を持たなくてはならない。参考文献としてつければ赦されるのか。作家も編集者も未熟だし勉強不足だ。候補にしたことも問題だと思う》
ジャーナリストの今井一も石戸の記事を読んでツイートしている。
講談社は「甚大なダメージを受けた著者の尊厳を守るため…」などと書いている。彼女は反省していないのか?
浅薄、傲慢、下劣……いろんな言葉を北条裕子とかいう著者に浴びせたい》
新曜社通信」が「東北学院大学 金菱清『美しい顔』(群像6月号)についてのコメント」を掲載した。金菱はこう主張している。
《小説「美しい顔」(以下、本小説)において『3・11慟哭の記録』(以下、慟哭)との類似箇所が見られたわけですが、当初情報として類似箇所は何かを知らされていないなかで、本小説を拝読しました。では、50万字にものぼる慟哭の文字量のなかからどのようにして10数箇所の類似箇所が判明したのか。その作業は実はまったく難しくはありませんでした。
といいますのも、本小説を読みますと、慟哭を詳細に照らし合わせるまでもなく、すぐにああ、これは慟哭の手記のこの方やあの方からモチーフを採ったものだとわかるレベルでした。その意味では、内容の成熟度に関わらず、学生のレポートでもネットから情報を採って自分の文章として加工してくる手法と大差がありませんでした。一般的に教育の世界では、こういうことをしないようにと学生に教えています。ですので、その程度の執筆のルール違反の問題だと考えています。それは小説だけ例外として看過するわけにはまいりません。慟哭の記録は単なる素材ではありません。
それよりも、今回問題になっている表現の一言一句ではなく、ことの本質はその当時の『人間の体温』や『震災への向き合い方』にかかわるものだと感じました。
慟哭の中でも最も多くの箇所が参照されている手記は、まさにその当時避難所で物資も情報もない中で、無神経に取材にやってくるマスメディアに向けられた「怒り」を表したものであったわけです。このモチーフは本小説でも踏襲されていると感じられました》
このように書く金菱清に対して、講談社は「小説という表現形態そのものを否定するかのようなコメント」だと批判できるだろうか。あるいは金菱清や金菱たちに手記を提供した被災者に対して、講談社なり、北条裕子は「名誉が著しく傷つけられたことに対し、強い憤りを持つとともに、厳重に抗議」しようとでも言うのだろうか。北条裕子は被災者から自らの経験を語るのに必死になって言葉を紡ぎ出した手記から、経験そのものを「搾取」したことになりはしないのか。金菱の立ち位置からすれば、「美しい顔」は「盗作」や「剽窃」などという軽々しい言葉では片づけられない表現に依拠した小説なのである。金菱清の指摘に大きな衝撃を受けるべきは誰なのか。深い悲しみを覚えるべきなのは誰なのか。
元テレビプロデューサーで、BuzzFeed Japanで動画統括部長をつとめる福原伸治は、こう反応している。
《とても重い重い言葉。「表現する」とはどういうことかという重い問いでもある》
フィルモアイーストの角田奈穂子は一時、削除していたブログを復活させた。
《金菱先生のコメントを読んで、出版に関わる人間としての姿勢を厳しく問われました。胸に刻み、できうる限りの真摯な姿勢で取材と原稿に取り組まなければと思い知らされました。下記の記事も時間の経過もあり、書き直したい部分は多々あります。とくに震災から7年の歳月が経っても、未だ、いえ、もしかすると、よりつらく、哀しく、苦しい思いをしている被災地の方々への配慮が足りなかったことは反省しています。東京で安穏と暮らしているにもかかわらず、被災地に近い人間だから、という傲慢さがあったことは否めません》
「俺俺」で大江健三郎賞を受賞している星野智幸は「美しい顔」も「3・11 慟哭の記録」もともに読んでいないことを認めたうえでフェイスブックに次のように投稿している。
《盗作・引用の問題で揺れている『美しい顔』について、引用されたとされる『3・11 慟哭の記録』を学生たちと共に聞き取り・記録集としてまとめた、東北学院大、金菱清さんの、疑義。
「果たして、本小説の作家や出版社、あるいは今回の件で報道するメディアの方々はこのような未だ言葉にも出せず、一人で黙して涙している人々に対して、フィクションであれなんであれ言葉を与えることになったのでしょうか?
そのような向き合い方をされているのか問いたいと思っています。」
両方とも読んでいない身としては、判断する立場にないが、文学の原則として、金菱さんの意見には深く共感、同意する。
また、盗作・引用の境界は曖昧であり、どこで線を引いてどのように判断すればよいかは、さまざまなケースが起こるたびに、出版界があれこれ迷うながら、その線引きを探ってきた。私がデビューしてからのこの20年ちょっとの間にも、たくさん起こった。文芸家協会が見解をまとめた冊子も、10年ぐらい前だったか、会員に配布されている。
もちろん、正解はないから、いつでも異論のある中での対応とはなるだろうが、私の印象では、今回の講談社の対応は、過去の出版界の積み重ねてきた経験と知見を、あまり考慮していないものに感じられる》
過去の出版界の積み重ねてきた経験と知見をあまり考慮していない対応は、「美しい顔」にとどまらなかった。今年に入ってからも、絵本や図鑑においても、江戸川乱歩賞の発表においても、自民党のタイアップ広告の是非をめぐって女性誌『ViVi』が大炎上を遂げた件でも過去の出版界の積み重ねてきた経験と知見をあまり考慮していない対応に終始したのである。
(つづく)