JR西日本前社長の無罪確定を朝日新聞はどう伝えたか!?その報道と隠蔽を検証する

新聞が客観的であるとは限らない。新聞が公正であるとは限らない。新聞が不偏不党であるとは限らない。新聞が正確であるとは限らない。報道とは必然的に隠蔽を孕むものだ。昔も今も、その構造にさしたる変化はないのである。私にとって新聞を読むということは新聞批判に他ならない。1月26日付朝日新聞は社会面で100人以上が死亡したJR西日本宝塚線脱線事故で業務上過失致死傷罪を問われていた同社の前社長が第一審で無罪となり、神戸地検控訴を断念した結果、無罪が確定した件を取り上げた。記事のタイトルは「遺族、届かぬ思い」。リードの書き出しは「司法に託した遺族らの願いは届かなかった」。このタイトルとリードからもわかるように遺族の「感情」に読者を共鳴させようという狙いが明らかな煽情的な記事である。ということは検察の控訴断念に朝日新聞は不満なのであろう。冒頭、次男を亡くした遺族の発言を踏まえて次のように書いている。

検察の控訴断念は、無罪判決よりもショックが大きかった。年内に始まる見込みの井出正敬元会長(76)ら歴代社長3人の裁判への影響も懸念する。

この地の文章は次男を亡くした遺族の「心情」を朝日新聞の記者が汲み取ってのものであろう。もし遺族が明確に「無罪判決よりもショックが大きかった」と発言しているのであれば、この一文をわざわざ挿入せず、遺族の発言として「」に入れて掲載すれば良いだけのはずである。この地の文は

検察の控訴断念は、「遺族にとって」無罪判決よりもショックが大きかった「と私には思えた」。年内に始まる見込みの井出正敬元会長(76)ら歴代社長3人の裁判への影響も「遺族は」懸念する「が私も同感だ」。

と読まれるべきだろう。要するに記者としての理性を放棄し、読者の感情に訴えることだけに腐心している記事である。もちろん、遺族の心情に寄り添うことも大切だろう。しかし、それだけでは被告とされた元社長の人権は完全に無視してしまうことになるし、何よりも一審で無罪となり、検察が控訴を断念したことの意味は隠蔽されたままである。そういう意味では郷原信郎の次のようなツイートは朝日新聞の報道において何が隠蔽されているかを明らかにしてくれる。

JR西事故における山崎前社長は、決して「既得権者の不正」ではありません。むしろ歴代社長のうちで唯一、被害者遺族に真摯に向き合った人です。だからこそ、肉親を命を奪われた遺族の3割が公判で「無罪意見」を述べたのです。検察は、無理な起訴に逃げるのではなく重大事故、組織事故における刑事司法の限界を真摯に説明し、理解を求めることで、被害者・遺族の悲嘆と無念に正面から向き合うべきでした。それこそが、検察の社会的責任だと思います。

朝日新聞の記事を読む限り、遺族の3割が公判で「無罪意見」を述べた事実は一言たりとも触れられていない。遺族の7割の心情に則ることで残りの3割を少数派として切り捨てることで朝日新聞の記事は成立しているのだ。同時にそれはJR西日本の前社長が「歴代社長のうちで唯一、被害者遺族に真摯に向き合った人」であることを無視することであり、その人格は著しく貶められることになる。これが朝日新聞にとっての公正であり、不偏不党であるらしい。ちなみに他の新聞にも目を通してみると1月26日付読売新聞には3割に属する次のような遺族のコメントが紹介されていた。

「個人の責任を問うべきではないと思っていたので、私は控訴断念の判断はよかったと思う」

むろん、この遺族にしても事件を起こしたJR西日本の社会的な責任を免罪しているわけではない。次のように続けて語っている。

「裁判結果にかかわらず、償いは終わっていない。説明会などの対応はしっかりと続けてほしい」

そもそも元社長の起訴は本来、妥当なものであったのだろうか。検察が起訴しなかったことを7割の遺族の心情に共感して記事を書いてしまったために検察の控訴断念に問題があるかのように記事をまとめてしまったためにこの点から朝日新聞は逃げてしまっている。というよりも起訴したことに問題はなく、控訴しなかったのは検察の正義の敗北であると朝日新聞は確信しているのかもしれない。果たして検察の「正義感」に問題はなかったのか。郷原によれば起訴したのは検察の「歪んだ正義感」を振り回した結果だと次のようにツイートしている。

社会の利益を害する意図的な問題行為であれば、個人責任の追及も不可避です。しかし、JR西の事故の問題はそれとは性格が異なる。確かに、JR西の体質、事故後の法的責任回避の姿勢には重大な問題がある。しかし、それは、検察が刑事司法の刀で斬り込む問題ではない。検察が、その本来の領域を超えて「歪んだ正義感」を振り回すと、西松事件の発端とする小沢事件のような問題、領域を超えた判断を行うと尖閣船長釈放のような問題が起きます。

何故に「歪んだ正義感」に振り回され、検察本来の領域を逸脱してしまったのだろうか。読売新聞の記事はこう書いている。

神戸地検が前社長を起訴したのは、106人もの乗客が犠牲になった事故の重大性や遺族の強い処罰感情などを考慮したためだ。

検察は社会の空気に流されてしまったのだろう。読売新聞によればもともと立証のハードルは高く、検察内部には起訴に反対する声もあったのだ。今回の事故では過失が運転士にあることは明白であったが、前社長が統括したダイヤ改正によって事故の危険性が高まったことを業務上過失致死傷罪の根拠にしたが、公判で駅間の走行時間は長くなり、運転に余裕ができたという新事実を突きつけられてしまう。いずれにせよ、社会の空気に流されてしまう検察は社会にとって危険な存在である。また、遺族の強い処罰感情を背景にして、そのような空気を醸成し、社会を覆い尽くすほど増幅したのは新聞やテレビの感情に訴える報道であったことも忘れてはなるまい。また今回は読売新聞が朝日新聞に比べて落ち着いた記事を書いていたが、それが読売新聞の本質でないことも断るまでもあるまい。感情的なのはマスメディアの生理なのである。