ソーシャルメディアと宗教について

宗教は間接的にも直接的にも、教養としても比喩としても、いまだかつて真理を含んだことはない。というのは、どんな宗教も不安と欲求から生まれたものであるからだ。 ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』

新興宗教、既成の、伝統的な宗教に対し、戦後になって教団として教勢を拡大して来た、どこかうさん臭さを兼ね備えた宗教を新興宗教とするならば、こうした新興宗教は真理を語るためにではなく、資金源を確立するために必ずと言って良いほど、新聞事業なり、出版事業に進出して来た。新興宗教はメディアビジネスにおける重要なプレイヤーである。新聞を出している教団の中には全国紙よりも部数が多いところまであり、しかも新聞社に印刷を委託していたりもする。また、ベストセラーリストには必ず新興宗教絡みの書籍が上位に顔を連ねる。新興宗教はニューメディアにも敏感である。衛星放送が使えるとなれば即座に飛びつくし、世間が電子書籍元年と騒ぎ出し、例えば「ガラパゴス」を大量に購入し、自らの宗教活動に取り入れる。マンガ以外の電子書籍が定着するかどうかは新興宗教がこれに本腰を入れるかどうかにかかっているだろうし、新聞にしても新興宗教の機関紙が紙を完全に捨てデジタルに全面的に移行したときが、紙の新聞の終焉ということになるのかもしれない。もちろん、紙のメディアが絶滅することはあるまい。何故かといえば紙のメディアの生命力に負うところが大である。電子書籍の歴史を振り返れば分かるように、紙の書籍に比べ電子書籍の方がこれまでのところ寿命が短いのだ。いずれにせよ、デジタルが「主」であり、紙が「従」となるという意味で、それはやはり一つの時代に終止符が打たれることになる。
印刷機によって大量生産される紙のメディアの起源はグーテンベルクにまで遡ることができるだろう。15世紀半ばに印刷所を設立したグーテンベルクは「従来の木や金属でつくった活字のかわりに、パンチを打ち込んで母型をつくり、それから鋳型をつくって、これに金属を流し込んで活字を製作した、といわれている」(「ニッポニカ」)。このグーテンベルクが何を印刷したかと言えば聖書である。活版印刷の誕生により、聖書を大量に印刷することが可能になり、しかも安く頒布することができるようになったことで、聖書が普及する裾野が一挙に広がり、民衆に聖書が解放されたことにより、ルターやカルビンが発言力を持つようになり、宗教改革の火蓋が切られる。プロテスタントが聖書を唯一の権威としたのは、グーテンベルクの恩寵というわけである。つまり、メディアのあり方が変わることに宗教は敏感なのである。
戦後、新興宗教が高度成長を遂げることになったのは日本国憲法の成立により、メディアのあり方が変わったからに他ならない。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障」(第20条)されたのはもちろんのこと、「検閲」が廃止され、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(第21条)が保障されたればこそ、紙のメディアを駆使して教勢を拡大することが可能になったのだ。紙からデジタルへという時代の流れも宗教のあり方を変容をもたらすことは間違いあるまい。しかし、私たちが見落としてならないのは紙からデジタルへという流れは決して単線的ではないということである。宗教をビジネスとして考えるのであれば、紙のコンテンツをそのままデジタルコンテンツに移行することによって、定価を紙の場合と同程度に設定すれば「利益」(「りやく」ではなく「りえき」!)体質を強化できるはずだ。そういう意味で新興であろうが、伝統であろうが、既存の宗教はデジタルに関心が高いはずである。それこそ「お札」や「お守り」など宗教につきもののグッズのデジタル化は可能であろう。「お祓い」なんぞもオンラインであってもできなくなかろう。その一方で新たな宗教が燎原の火のごとく広がる機会も生じているように思えてならない。その宗教を信じるにあたって、デジタルコンテンツを駆使することで価格破壊を行うことができるだろうし、ソーシャルメディアを想定するならば、従来型の宗教では想像もつかないような布教方法を確立することになるのではないだろうか。あるいは従来型の「信」の構造を根こそぎ変えてしまうような宗教が新たに誕生するやも知れぬ。ソーシャルメディアが潜在させる麻薬性を最も活用できるのが、マルクスによってそのアヘン性が喝破された宗教に他ならないということである。

宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸に対する 抗議である。 宗教は、なやめるもののため息であり、心ある世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。 それは民衆の阿片である。『ヘーゲル法哲学批判序説

最近、ツイッターの世界を何とはなしにウロウロしていると、デジタル共同体とも言うべき「繋がり」が生まれつつある。しかも、その「繋がり」を支えているのは近代的な価値観に修正を迫るような反近代的な価値観であったり、復古的な価値観であることがある。それは一見するとナイーブだし、建設的なルサンチマンとは無縁のようなつぶやきなのだが、よくよく観察してみると「現実の不幸の表現」として、あるいは「現実の不幸に対する抗議」として表出され、「悩める者のため息」として「繋がり」が形成されているということだ。私にはこうした共同性が新たな新興宗教の温床になるように思えてならないのだ。リアルにおける「力への意志」を放棄したならば神は蘇る、のである。ソーシャルメディアにおける「繋がり」の強度はリアルに比べて弱いとするのが一般的な見方なのだろうが、果たして本当に弱いのだろうか。リアルではなくデジタルならではの強度をそれほど甘く見るべきではあるまい。特にリアルというオフラインの「外部」を予め切り捨てて、その関係性(ここはタブーと言い換えても良いかも知れない)をデジタルの内部に完結させてゆくのであれば、間違いなく「繋がり」の強度は増すはずである。