沖縄の歴史を少しだけ振り返って見た

私たちは沖縄に米軍基地を押しつけてきた。沖縄の人々に言わせれば「私たち」はヤマトにほかなるまい。ヤマトは沖縄に米軍基地を押しつけてきた。国内に反米軍基地の機運が1950年代半ばに高まると、沖縄がアメリカの施政権下におかれていることを良いことに岐阜や山梨に駐留していた米軍を沖縄に押しつけた。一方、アメリカが沖縄の海兵隊の一部を山口県岩国基地への追加移転を打診したところ、政府は直ちに拒否を決めた。2月13日山口県知事と岩国市長が上京し、玄葉外相に追加移転反対を伝えるや即座に「岩国への追加的な移転をお願いするつもりはない」との返答を受けた。2月14日には衆院予算委員会野田首相も「日米間で協議しておらず、岩国にお願いするつもりはない」と述べた。沖縄の人々に、こうした光景はどう映ったことであろうか。
そもそも私たちは沖縄という名称さえも沖縄に押しつけたのではなかったか。しかも沖縄であることを押しつけながら、一度は沖縄を切り捨てたのではなかったか。
沖縄はかつて琉球王国であった。尚巴志によって琉球が統一されたのは1429年(永享元)のこと。首里城が造営された。薩摩藩琉球に侵略したのは1609年(慶長十四)のこと。薩摩藩の「附庸」となったが、それでも王制は維持されたし、18世紀には様々な文化が花を開く黄金時代を迎える。アメリカもまた琉球を国家として認めていた。1854年2月(嘉永七年正月)神奈川条約を結んだペリーは、その足で那覇に向かい琉米条約を締結する。続いてオランダやフランスも琉仏条約・琉蘭条約を結ぶ。
1868年、大政奉還が行われ、明治維新が実現する。日本は以後、近代国家を目指すことになるのだが、この段階で私たちは琉球に「日本」を押しつけ、「沖縄」という名称を押しつける。琉球処分と呼ばれているが、実質的には「琉球併合」であった。1871年(明治4)に維新政府は近代国家に相応しい中央集権制に移行するため廃藩置県を断行する。その際、琉球王国の領土は鹿児島県の管轄とされたが、それでは物足りなかった。「王国」の解体に着手する。1872年(明治5)、敢えて琉球藩を設置し、琉球国王であった尚泰華族に取り込むことで琉球藩王に押さえ込む。琉球藩は外務省の管轄となった。明治天皇の詔には、こうある。

今、琉球近く南服に在り、気類相同く言文殊なる無く、世々薩摩の附庸たり、而して爾尚泰能く勤誠を致す、宜しく顕爵を予ふべし、陞して琉球藩王となし、叙して華族に列す。

しかし、琉球処分はそれでは済まなかった。琉球もまた清国との冊封関係を継続していたし、明治の年号を使わなかったし、藩王の上京を拒んだ。明治7年(1874)、台湾に暴風で漂着した琉球人54名の虐殺を理由に、維新政府は征討軍を派遣し、イギリスの調停で日清互換条款に調印する。琉球人が「日本国の属民」であることを清国に認めさせる。

茲に台湾生蕃曾て日本国の属民等を将て、妄りに害を加ふることを為すを以て、日本国の本意は、該蕃を是れ問ふが為め、遂に兵を遣り彼に往き該生蕃等に向ひ詰責をなせり。

琉球藩の管轄を内務省に移行もした。それでも琉球藩王の状況を拒否した。1879年(明治12)3月12日、内務大丞松田道之は160名の警官と400名の兵隊を率いて首里城に乗り込む。松田は「「其藩ヲ廃シ更ニ沖縄県ヲ被置候条此旨相達候事、但シ県庁ハ首里ニ被置候事、明治十二年三月十一日、太政大臣三条実美」と読み上げた。4月4日、琉球藩は廃止され、沖縄県が誕生する。最後の国王尚泰は東京在住を命じられる。日本は武力の威嚇をもって琉球国を滅ぼし、沖縄県を押しつけた。日本を、天皇制を押しつけたということだ。
47都道府県のうちアメリカとの地上戦の戦場となったの沖縄だけであった。大東亜戦争においてである。1945年(昭和20)1月、大本営陸海軍部は、アメリカ軍が秋までに本土に侵攻するという判断から、本土決戦に備える「帝国陸海軍作戦計画」を決定し、同月20日には昭和天皇の裁可を得ることなるが、結果的に本土決戦を沖縄だけに押しつけたと言って良いだろう。アメリカは3月26日慶良間島に上陸し、4月1日から沖縄本島に上陸作戦を開始した。日本軍は主力部隊を首里を中心とする浦添高地一帯に配置、そのため米軍は簡単に上陸を完了する。アメリカ軍は4月7日ごろから、日本軍の主力部隊に総攻撃を開始する。両軍の激突は40日以上に及び、両軍とも甚大な損害を被った。日本軍の場合は主力部隊を失ってしまう。遂に5月22日、首里を放棄し、島尻まで撤退し、ゲリラ戦を展開する。そこには戦火に追われた一般県民も避難して来ていたため、軍であろうと民間であろうともアメリカ軍の激しい攻撃にさらされることになった。日本軍の牛島満司令官が「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」と残し、摩文仁の軍司令部壕において自決したのは6月23日未明。アメリカ軍が沖縄戦の終了を宣言したのは7月2日。この間、戦死者は日本軍が9万4136人、アメリカ軍が1万2281人。一般県民の犠牲者は9万4000人に及ぶと推定されている。沖縄県知事も自害した。
沖縄を占領したアメリカ軍は日本本土とは別の統治機構をつくりあげる。沖縄を日本から切り離した。アメリカは琉球という呼称を復活させる。1951年(昭和26)4月1日に琉球臨時中央政府を設立。1951年9月8日に締結した公式名を「日本国との平和条約」とするサンフランシスコ講和条約も沖縄を日本から除外するものであった。アメリカは沖縄を手放さなかった。日本は抵抗することなくサンフランシスコ体制を引き受けた。それは沖縄を切り捨てることを意味しなかったか。1952年4月1日に琉球列島米国民政府の下部組織として琉球政府を正式に発足させる。立法機関は立法院と称し、一院制で選挙によって選出された。行政府はアメリカ(琉球列島米国民政府)によって現地住民の中から任命される行政主席が代表した。治安裁判所・巡回裁判所・上訴裁判所からなる琉球民裁判所が置かれた。形式上は三権分立の形式を取っていたが、琉球列島米国民政府の長が必要とあれば直轄統治できる権限を有していた。沖縄では通貨としてドルが使われ、日本人が沖縄に行くにはパスポートが必要であった。
琉球政府を母胎にするかどうかは別にして、琉球独立という選択肢もあり得たはずだ。しかし、琉球の民衆は本土復帰を求めた。立法院では会期ごとに日本復帰決議が行われ、沖縄返還の原動力となった。1972年5月15日、沖縄県として本土復帰を果たす。しかし、アメリカ軍基地は沖縄に残った。日本は沖縄の経済が基地に支えられていることを免罪符に基地を沖縄に押しつけたまま日本に復帰させて今年で40年である。