断片の昭和史(6) バー「メッカ」殺人事件

1953年(昭和28)7月16日、伊東絹子がミスユニバースコンテストで3位に入賞する。やがて「八頭身」美人という言葉が流行することになる。
同年7月27日、新橋駅東口の繁華街、十仁病院向かいのバー「メッカ」。客が冷えたビールを飲んでいると、さして広くない店の天井から赤い液体がカウンターの上にポタポタと落ちてきた。ハンカチを取り出し、それを拭ったホステスが脅えた声をあげる。
「血じゃないの!?」
驚いたマスターが物置になっている天井裏を覗き込む。そこには軍隊毛布で包まれた男の死体が横たわっていた。首と両足が電気コードで縛られている。全身に傷。鈍器で滅多打ちにされている。辺りは血の海。通報により警察が駆けつける。
被害者の身許は所持品から即座に割れた。証券ブローカーの博多周(当時40歳)。容疑者として「メッカ」のボーイ近藤清(当時20歳)、被害者の知り合いで元証券会社社員の正田昭(当時24歳)、正田の麻雀仲間の相川貞次郎(当時22歳)の三人を全国指名手配。7月29日に相川、8月4日に近藤が自首。しかし、正田の行方はつかめなかった。ようやく10月12日、麻雀仲間の通報により、潜伏先の京都で逮捕される。当初、正田は近藤が主犯であり、自らは無実であると容疑を否認したものの10月18日になって犯行の自供を開始。正田昭の「冷酷」の背景にある「青春の蹉跌」が浮かびあがってくる。
1929年(昭和4年)4月19日、大阪の弁護士の家庭に生まれる。兄三人姉二人という六人兄弟の末っ子。父の記憶はない。生まれて五ヵ月後に父は狭心症で逝った。女学校の体育教師をしていた母の手一つで育てられる。母は賢母で『意志の人』ではあったが、兄弟はみな「冷たい家庭」を感じていたようだ。子供と一緒に泣くということはなく、頑張れと言って励ますタイプであり、カネに対する執着も強かったらしい。夫の遺産をみな自分名義にして、銀行の貸金庫に預け、印鑑と鍵を肌身離さず持ち歩いていた。そんな母親に耐えられなかった長男は家庭内暴力を振るい始める。昭が「東京」を目指したのも、長男の家庭内暴力から逃れるためであった。大阪府立住吉中学校を経て一浪して1948年(昭和23)慶応大学予科(経済学部)入学。荻窪の次兄のアパートに住んだ。学費も次兄が出した。
中学時代に「親切、沈着、真面目、誠実」と評価されただけのことはあって、大学には真面目に通っていた。1949年(昭和24)2月頃、次兄が辻堂に家を買う。ここに大阪から母を呼び、次姉も含め四人での生活が始まる。
その年の7月のこと。7月5日に国鉄総裁の下山定則が行方不明になり、翌日轢死体で発見される。7月15日には中央線三鷹駅車庫から無人電車が暴走した。そんな暑い7月のある夜、二十歳の正田昭は友人に誘われ、藤沢のダンスホールに通い始め、そこで運命の出会いを果たす。彼女は19歳。美貌のダンス教師。華やかで自由奔放な彼女は一歳年下であるにもかかわらず、昭よりもはるかに「大人」であった。
昭は身長172センチ、面長で端正な顔立ちに伏し目がちでクールな視線は、この事件の後に日本で公開されることになる『理由なき反抗』のジェームス・ディーンにどこか似ている。そんな昭だが、彼女に出会うまでの学生生活は決して派手なものではなく、むしろ地味であった。交際を始めて、ほぼ一ヶ月が過ぎた8月頃、彼女から誘われるままに関係を持つ。以後、二人の関係は精神的にも肉体的にも深まっていく。昭には彼女しか見えなかった。結婚を約束する。
が、季節が変わった。1日に中華人民共和国が成立する10月になると、信頼していた友人から、あいつは誰とでも寝る身持ちの悪い女だと聞かされる。最初は信じなかった。だが、その友人自身も彼女と関係していたことを告白され、衝撃を受ける。即座に衝撃が虚脱感に変わった。すべてのことに興味を失った。勉強も頭に入らず、誰とも口をきく気になれなかった。動くことさえ億劫であり、夜も眠れなかった。昼間は家に引きこもり、夜になるとあてもなく徘徊した。いつの間にか刃物を携帯していた。全世界が敵だったから。
「おう きみの喪失の感覚は/全世界的なものだ」(吉本隆明分裂病者」)
自殺も考え遺書も書く。後の母親の証言によれば、この頃であったかどうかははっきりとした記憶はないものの、昭はファンデーションを塗り、アイシャドーを引き、口紅をつけ、赤い靴下をはき女装したいたこともあったという。母親は二人の結婚に反対していた。昭は彼女を家に連れて行き、母親に紹介したが、あなたが昭を堕落させたのだと、母親は二人の結婚はおろか、二人の交際さえ認めようとしなかった。
11月。湯川秀樹ノーベル物理学賞に決まった。昭は仲違いしていた彼女と和解する。彼女に対する猜疑心を拭い去ることはできなかったが、別れることもできなかった。こう言うべきだろう。愛情の深まりに比例して猜疑心も嫉妬心も深まっていった。彼女に映画やパーティの約束をすっぽかされた。出るな!と反対した劇場のアトラクションにダンサーとして出演する。心配事が絶えなかった。ヤミ金融光クラブ」を率いた東大学生の山崎晃嗣が11月24日に青酸カリを服用し自殺を遂げる。昭の生活は堕落していった。麻雀を覚えたのは1951年(昭和28)の春頃だったか。半年もすると賭け麻雀が日常化していた。金遣いが荒くなった。育英資金も使った。アルバイトで稼いだ金もあっという間に消えた。初めて喧嘩もした。家に帰らないで友人の下宿、雀荘を泊まり歩く。1952年(昭和27)になると、彼女は1月、5月、11月とみたび妊娠するが、自分の子であると確信できず、中絶させる。仲違いと仲直りの繰り返し。しかし別れられない。就職試験のシーズンがやってくる。一流企業の日産自動車を受けた。その際、身体検査で肺結核が発覚。不合格。昭の生活は更に荒れる。キャバレーで豪遊し、遊廓に入りびたる。家の権利書を担保に入れ、大金を引き出し、たちまち浪費してしまう。
1953年(昭和28)1月、昭は彼女に対する不満を爆発させる。それでも諦められない。鎌倉に住む彼女の姉の仲介で再び交際を開始。だが、放蕩からは抜け出せない。三月には、外交官としてイタリアに赴任していた次兄から送られてきた10万円を手に、家を飛び出す。大学の卒業式も欠席。そもそも単位不足から追試験を5月に受け、何とか卒業証書をもらう。就職は身体検査のない三栄証券に決定。彼女の叔母がお得意となってくれた。彼女の叔母は昭に成績をあげさせようという好意から株の信用取引を依頼。現金10万円と株券1700株を預ける。ところが運用に失敗し、10万円を損失。生活態度や勤務ぶりが不良であると、6月25日付で三栄証券をクビになる。
昭は彼女の叔母から預かった株券を下して、下部ブローカーの博多周に換金してもらい、損失を取り返そうと思ったが、その金も結局使い込んでしまう。就職し、彼女の叔母の資産をしっかりと運用し、メチャクチャな生活に終止符を打ち、彼女と結婚する。そんな甘いシナリオが壊れた。これで彼女との関係も遂に終わりとなるのだろう。出口なし、か。博多周に殺意が向けられる。博多が「身近な大人」だったから。
「彼女が浮気をする相手の人はみな社会人で金もあり、押しの利く人他とでした。その点から「大人」の人に対して憎しみを持っていたのです。特に金の自由になる人とかその他に自信たっぷりに生きる人とか…博多周はそのカテゴリーに入る人だったのです」
博多周。その顔つきや物の言い方からして嫌いだった。博多の昭に対する口ぐせは「大学出はしょうがない」であった。
7月20日、事件の一週間前。「外務省関係の人が三千ドルばかり邦貨で融通してもらいたいと言っている」と詐りの電話をいれる。同月23日、再び博多に「先日の話だが株券を担保に融通してくれないか」と電話をかけ、27日にバー「メッカ」で会って話をするよう約束を取り付ける。同月25日、相川貞次郎に三田の喫茶店「リオ」で会い、博多を「やっつけるのを手伝ってくれ」と持ちかけ、承諾を得る。
同月26日午後2時半頃、相川と「メッカ」に行き、ボーイの近藤清も仲間に引き入れる。相川を実験台にして、殺しの手順を相談。死体をおさめるためのトランクを購入。浅草でストリップを見てから、犯行に用いる目的で電気コードを買う。夜になっていた。藤沢駅で彼女が舞踏研究所を始めるというポスターが目にとまる。彼女に「大人」のパトロンができたと思い込み、自らの破滅を求めて犯行の決意を固める。
バー「メッカ」に着いたのは7月27日12時15分頃。相川は当日になって来なかった。十一時半に新橋駅で近藤と一足先に合流し、電気コードなどを渡してから、博多と落ちあって「メッカ」に赴いた。
博多はトイレを背に向けて坐った。レジにいた近藤が冷たい水を運んでくる。窓を閉め、ラジオのボリュームを大きくしたのも近藤だ。ポケットに忍ばせていた電気コードが上手く取り出せない。トイレに立った。電気コードを取り出す。背後から博多に迫り、首に電気コードをかける。思いっきり締め上げた。近藤が博多の正面に立ち、手に持った樫の棒で顔面を殴る。絶命する博多。現金40万円とスイス製の高給時計を奪い取る。二人して死体をバンド席に運ぶ。近藤が天井裏に入って、死体を隠した。
「ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ」(吉本隆明「その秋のために」)
正田昭にとって、今までの、生まれてから今日に至るまでのすべてにおける「解決点」がこの殺人であった。昭はまさしく「青春の殺人者」であった。当時のマスコミはアプレゲール犯罪の典型として、この事件に熱狂する。
1955年(昭和30)7月、精神鑑定を受けるため入院していた松沢病院でパリ宣教会のカンドゥ神父の手によって洗礼を受ける。昭はカトリックに入信する。1956年12月、東京地裁は死刑判決。死刑を宣告された瞬間、昭は顔色一つ変えなかったそうだ。1
960年(昭和35)12月、東京高裁は上告棄却。1963年(昭和38)1月、最高裁により死刑が確定する。同年8月、『群像』新人賞において最終選考に残った小説『サハラの水』が同誌に掲載される。獄中で小説を書くことが認められたのは正田昭が初めてのことであった。ただし、既決囚が小説を執筆することは禁止されていたため『サハラの水』は正田にとって最初で最後の小説となった。もっとも正田はそれでも筆を折ることなく「死刑囚の心理を示す資料」という形をとって『黙想ノート』を1967年(昭和42)にみすず書房より上梓。これは『サハラの水』をはるかに超える文学的水準に達していた。
1967年(昭和42)から処刑される前日までの2年4ヵ月にわたって加賀乙彦との間でなされた往復書簡は加賀の手によって『ある死刑囚との対話』としてまとめられる。
「今、私を取り巻く存在の闇は“信じる”という一語が指向する、より大きい闇にまで広がっており、それら凡ての闇が全き光に包まれるはずの《あの日》についてさえ、勿論何もいえぬとしても、“久遠の未来に広がる闇”から“私ひとりの内面の闇”に立ち帰り、死が<明日>であるとしてもなお<今日>、この闇の中で試みるおこないから、もし生きがいが生まれるとしたら、私の場合ソレは、司祭がたの仕事に従事することにある、とこの頃深く思われるようになりました」(『ある死刑囚との対話』)
1968年(昭和43)11月にマルコ伝、翌年にはルカ伝の翻訳を完成させる。
「しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである」(吉本隆明『マチウ書試論』)
1968年11月には日記形式の『夜の記憶』を聖パウロ女子修道会から刊行。死刑確定直後の1963年2月5日の日記にこう書いていた。
「僕は今、ひっそりと独房の片隅で静かに微笑み続けている。人々は空想するだろう。大都会の一隅、巨大なコンクリートの城の、とりわけて、頑丈な死刑囚の仄暗い独房で、死刑囚の生は虫ケラの如く醜く死臭にみちたものであろう、と。確かに、此の小室は暗い。それに何と寒いことだろう。今朝がた、すこし差しこんでいた日光は、もはや明日まで望むべくもない。なるほど、この光景を他から空想すればいかにも圧倒的な死の凶兆しか見い出し得まい。ところが…僕は絶望していないし、泣いているわけでもない。恐怖感も抱き得ないほど不感症なのだろうか。
どういたしまして。僕はただ、さっき飲んだサイダーが如何にも旨かったので、絶望しないのだ」
正田昭は自らの獄中の表現活動において、被害者の博多周とその家庭について、何ひとつ語っていない。その罪が余りにも大き過ぎてペンによっては書きあらわし得なかったからなのか、それとも―。
12月9日が正田昭の命日となった。刑が執行されたのは昭和44年のこと。