「権力」と「自由」について

「権力」は至るところに存在する。「権力」は無数に存在し、「権力」は連関しあっている。
人が二人、集まるだけで様々な「自由」への欲望が生まれ、様々な「権力」が生まれる。「自由」も、「権力」も人間の社会における関係性を土壌としているのだ。
「権力」はそこかしこに無数に存在するし、「自由」もまた「権力」に寄り添うようにして存在する。この事実に目を向けなければなるまい。「権力」は国家権力や政治権力に矮小化できないのである。他者に自分の意志を貫徹することが「権力」であり、自分の意志が「自由」なのである。
そうであれば「権力」が何を源泉としているかといえば、それは「自由」であると答えなければなるまい。「権力」は「自由」として誕生し、やがて「権力」へと進化するのだ。「自由」と無縁であった「権力」など殆ど存在しないと考えて良いだろう。
こうも言える。「自由への闘争」の結果、「権力」が私たちの前に立ちはだかるのである。フランス革命がそうであったし、ロシア革命がそうであったし、明治維新にしてもそうであろう。「権力」を打倒する「革命」は解放の美辞麗句を理想として、あるいは理念として、更には道徳・倫理としてさえ、そのショーウィンドウに陳列するが、行き着く先は「自由」を弾圧し、抑圧し、排除する「権力」なのである。
解放の美辞麗句はことごとく死語と化するのだ。アジアを欧米列強の支配から解放しようという大東亜戦争大日本帝国が殺したのはアメリカやイギリスの鬼畜ではなくアジア人であった。アメリカの戦争にしても、同じようなものであろう。「権力」は「自由」を源泉にしているがために「権力」による「自由」に対する侵犯は苛烈をきわめる。ニーチェは次のように言い放っている。

世界を「人道化する」とは、私たちがこの世界においては支配者であるとますます自負することにほかならない―   『権力への意志

「権力」は打倒されることがあるが、「自由」が建築されることはないのである。「自由」に幻想を膨らませれば膨らますほど、その「自由」が進化する「権力」は強大なものになる。「自由」は「権力」としてしか完成されないのである。その時点で「自由」に共鳴し、共感し、ついには共振し、その運動に関与してしまった民衆は裏切られるのである。何度も何度も民衆の「自由への渇望」から脱落した権力者によって裏切られてきた。彼の「自由への渇望」は「権力の意志」へと裏切られた民衆の側からいえば変質してしまうのだ。いや、「自由」の一部は常に、既に「権力」なのである。「自由」には必然的に脱落の装置が組み込まれているのだ。しかし、だからといって民衆は「自由」から逃走すべきではない。民衆の「自由からの逃走」は「権力」の思う壺なのである。「自由」は再生産されつづけ、その限りにおいて「権力」も再生産されつづけるのだ。この事実から目を背けてはならないのだ。
そう「自由」は過程にしか生命を保てないのである。「自由」の結果が「権力」であるのならば、どこまでも結果を拒否しつづけるのであれば、私たちに「自由の女神」は微笑みつづけるのだ。「非権力」の領域は「自由」を求め続ける過程にしかあり得ないのである。その過程は誰に対しても開かれている、過酷に、苛烈に誰に対しても平等に開かれている。そういう意味では、どこにもユートピアなどありはしないのである。まさに非場所なのだ。