豊竹呂勢太夫、豊竹咲甫太夫、竹本相子太夫、鶴澤藤蔵、鶴澤清志郎による義太夫節『関取千両幟』の衝撃

大阪市長の、というよりも今や国政進出の話題で持ちきりの橋下徹文楽協会に対して技芸員(要するに演者)が公開の場で面談に応じなければ大阪市から支出されていた補助金の凍結を表明したことは何かと物議をかもした。実際、大阪市補正予算案で、補助金を昨年度比25%カットの3900万円とし、7月26日には国立文楽劇場に乗り込み、近松門左衛門原作の「曽根崎心中」を鑑賞した。一方、文楽協会は面談に応じることは拒否しないが、非公開を条件にしている。これに対し橋下はあくまでも公開の場にこだわる。例によって文化人や進歩派知識人から「文楽を守れ!」という声が澎湃とあがった。日本が大東亜戦争に敗北して以降、日本の文化人や進歩派知識人は「〜を守れ」としか叫べない守旧派に転落していったが、橋下からすればこうした手合いを手玉にとることなど朝飯前である。橋下が文楽についてどう考えているかは次のような7月31日のツイートを読めばわかろう。

文楽界全体は大阪府市の税だけでなく、国の税で支えられている。税投入がなければ、ベテラン・若手の収入格差がどれだけあろうと自由だ。吉本興業さんのタレントさん、落語界、物凄い収入格差があってもそれは当然視される。しかし文楽は違う。伝統を守るために税投入されている。

そのような世界での収入格差には自ずと限界があるはずだ。高額収入者や、技芸員全体の収入確保のためにどんどん税を入れ続ける今の文楽界の構造に僕は問題意識を持ち、2つの問題提起をした。まずは自助・共助の範囲で収入格差を是正すること。これはベテランが少し我慢をして下されば十分に可能。

文楽協会のマネジメント責任を明確化するために、技芸員収入から一定のマージンを協会に払う仕組みにする。このようなことをやった上で、それでもどうしても成り立たないということになれば、公助、公の出番であろう。

こうした橋下の歯切れの良い発言は私に『ペイルライダー』や『許されざる者』のクリント・イーストウッドを彷彿させる。橋下という政治家の本質はリバタリアンなのであろう。そういう日本人離れした部分に民衆はシビレるのである。朝日新聞によれば大阪市は9月4日、「文楽協会に対し、10月中旬までに橋下徹市長との公開面談に応じない場合、今年度分の補助金3900万円を交付しないと文書で通告した」そうだ。
そうしたなか私は義太夫節に出会った。9月5日、国立演芸場で開催された「落語と義太夫節の夕べ」に足を運んだのである。古今亭菊之丞桃月庵白酒の落語と豊竹呂勢太夫、豊竹咲甫太夫、竹本相子太夫、鶴澤藤蔵、鶴澤清志郎による素浄瑠璃(人形が手で来ない太夫による「詞章」と三味線による「演奏」だけの)のコラボレーションが実現したのである。素浄瑠璃の演目は『関取千両幟』であった。私からしてみると義太夫節はテレビなどで承知していたもののライブでは初めての経験であったが、正直に言おう、私は圧倒されてしまったのである。正座した姿勢にあって、搾り出される大地を揺らがさんばかりの「詞章」は「語り」などという生易しいものではなかった。太夫は三味線に乗って絶唱し、絶叫することで魂の「物語」を情念として紡ぎだすのである。それが「くどき」である。「魚心」と「水心」という言葉がこれほどの生命をもって私を突き刺したのは、これが初めてのことである。豊竹呂勢太夫のハイトーンの痛切さに私は胸を締め付けられた。
『関取千両幟』は相撲の八百長を題材にしている。大阪の力士が恩ある若旦那が必要としている200両のため八百長を引き受けるが、本人は嫌で仕方がない。それを知った妻が夫のために身を売って200両をつくり、これを夫には知られずに懸賞金にかける。力士は懸賞金がかかったことをふれで知り、八百長をせずに相撲を取り、見事に勝って若旦那に義理を果たすが、そこには身を売った妻の悲劇があったというわけである。
三味線は鶴澤藤蔵。私はこの名前を覚えていた。何故なら次のような毎日新聞の記事を読んでいたからである。

橋下市長と懇談した文楽三味線の鶴沢藤蔵(とうぞう)さんは「こうして会えたのは一歩前進ではないですか。今の曽根崎心中(の演出)がいいという方もいますし、どちらがいいというものでもないと思います。橋下さんはどうやって(脚本や演出が)できたのか、ご存じないようだ。『面白いものを作ったらお客が来る』と言っておられますが、それもどうかな」と話した。http://mainichi.jp/ 「橋下市長:文楽を鑑賞『演出不足』と持論展開」

橋下徹が7月26日には国立文楽劇場に乗り込んだ際に報道陣に対応したのが鶴沢藤蔵だったのである。この鶴沢の三味線が刻みだす太夫の紡ぎ出す「物語」に寄り添いながらも、人間の喜怒哀楽を鋭角的なリズムの自己主張に私は圧倒され、打ちのめされる。あたかもローリング・ストーンズキース・リチャーズがギターを扱うように、あるいはフーのキース・ムーンがドラムを扱うように三味線を扱うのである。曲弾きというのだそうだが、相撲場の段で、それは披露された。三味線のソロプレイで相撲場が表現されるのである。バチを三味線の胴の部分に立てたり、バチを宙に飛ばしてのプレイが刻むリズムは、これが殆どロックンロールなのである。ジミ・ヘンドリックスのごとく歯で弾き始めないか心配になるほどの熱演であった。こうした曲弾きが見られるのも素浄瑠璃で、しかも演目が『関取千両幟』であったからこその僥倖であった。帰りの電車の中で私の頭を占拠していたのは間違いなく鶴沢藤蔵の三味線であった。義太夫節は日本に徹することで、しかも竹本義太夫以来、大阪の地に徹したことで世界に通じる「表現」に鍛え上げられていったのである。
橋下徹文楽協会に対する補助金を全面カットするかどうかは別にして、橋下徹文楽協会を槍玉にあげなければ、もしかすると義太夫節の出会うことはなかったかもしれない。橋下は政治家であるよりも前に「時代のトリックスター」であるのかもしれない。「確定した領土をもち国民を主権者とする国家体制およびその概念」(『ニッポニカ』)を国民国家と言うのだろうが、どんな国家であれベネディクト・アンダーソンが指摘しているように「想像の共同体」にほかなるまい。その共同幻想を支えているのが「想像の共同体」固有の「表現」なのである。義太夫節もまたそうした「表現」の有力なひとつである。しかも、権力の側ではなく民衆が創造し得た「表現」である。