断片の昭和史(1) 日本共産党の迷走 再建を経て2.1ゼネストの挫折からコミンフォルムの衝撃へ

獄中18年 「非転向」の「転向」
昭和二十年(1945)八月十五日、ラジオから昭和天皇玉音放送が流れて戦争は取り敢えず終わった。昭和七年に治安維持法によって検挙され、「転向」することで半年後に釈放されたという経験を持つ高見順は記している。
「『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったらみんな死ぬわね』
と妻が言った。私もその気持だった」(『敗戦日記』)
八月三十日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥はコーンパイプを片手に厚木飛行場に降り立つ。厳密に言うのであれば、九月二日の米軍艦ミズーリ号上で降伏文書に調印したことをもって戦争は終わる。驚くべきことに八月十七日に成立した東久邇宮内閣はマッカーサー元帥の「民主化」の指示を待つことなく、連合軍の第一次本土進駐が始まった八月二十八日に言論・集会・結社の取り締まりの緩和を閣議決定する。これにより「結社」は許可制から届出制に戻る。政府はマッカーサーに対する「迎合」の準備を早くも始めていたのである。もっとも治安維持法は依然として法律としては生きていたし、東久邇宮内閣は思想取締機関の必要性を力説していた。しかしながら、そうであったとしても獄中の日本共産党員の「解放」を求める暴動は勿論のこと、デモも起こらなければ、そもそも民衆のなかから政治犯として獄中に置かれた日本共産党員の即時釈放を求める声すらあがらなかったのである。
戦前の日本共産党の「運動」は苛酷な弾圧にあったとはいえ、結局のところ戦中・戦後の現実的基盤において獄中にしか日本共産党は存在しなかったという程度の存在感を獲得するにとどまっていたということなのだろう。民衆は戦後の第一歩において日本共産党に何の期待もしていなかったのである。というよりも民衆からすれば日本共産党は戦中を通じて忘れられた存在に他ならなかったのである。日本共産党からすれば「革命」を担うべき政治勢力として「破産」したまま何の反省、何の総括もせずに戦後を迎えてしまったということなのである。
日本共産党を「獄中」から「解放」したのはマッカーサー元帥に他ならなかった。十月四日、GHQは「政治的、民事的及び宗教的自由に対する制限の撤廃」という覚書を発して、日本政府に治安維持法・国家保安法の廃止、政治犯の即時釈放、特高警察の廃止、天皇制批判の自由を要求する。十月五日から予防拘禁所の政治犯は外出が自由となった。しかし、徳田等は政府の決定を待った。十月六日、政府は徳田球一をはじめとした日本共産党員十六名の釈放を許可。十月十日、府中刑務所内の予防拘禁所から徳田球一を始め、志賀義雄、金天海、黒木重徳、西沢隆二、山辺健太郎、椎野悦朗、松本一三など十六名が晴れて釈放。また同日に豊多摩拘置所からは神山茂夫、中西功等が、宮城刑務所からは十月十七日に春日庄次郎、十月十九日に袴田里美がそれぞれ釈放されている。網走刑務所からは宮本顕治が十月九日に一足早く出獄していた。
日本共産党玉音放送から二ヶ月間にわたってマッカーサーのお墨付きなしには獄外に出ることすらできなかったにもかかわらず、今でも日本共産党は「ひどい弾圧のもとでも、平和と民主主義のために不屈にたたかいつづけた、日本でただ一つの政党」であることに胸を張っている。確かに早い段階から獄中にしか存在しなかったことによって日本共産党は「戦争責任」を負わないにしても、それは消極的な意味で「戦争責任」を負わないということにしか過ぎまい。そもそも、こうした日本共産党の物言いは政治責任を負うに足る地位をマッカーサー元帥に与えてもらうことによってしか築き上げられなかったという意味における「戦後責任」を隠蔽してしまうことになるはずである。
徳田球一と志賀義雄らの府中刑務所の獄中非転向組は十月十日付で「人民に訴う」を発表する。この「人民に訴う」は徳田を中心にして既に獄中において用意されていた文章であった。八月十五日以降、志賀の『日本革命運動の群像』によれば府中刑務所の役人に申し入れて自主管理を許されていた。そうした自由な獄中で「人民に訴う」は推敲されていったのである。「獄中十八年」の徳田と志賀にとって、敗戦と占領という、言ってみれば全国民的な危機に際して、一刻も早く国民大衆と接触し、生の現実と向き合うよりも、文章を書くことの方が重要であったのである。「獄中十八年」という長期にわたる時間が彼らに世間や社会とのズレをもたらしているなどとは一顧だにしなかったのである。その代わり「獄中十八年」を権威としてしまったのである。徳田、志賀が検挙されたのは満州事変も日中戦争も起こっていない昭和三年のこと。普通選挙法とワンセットで成立した治安維持法によって検挙されたわけだが、「統帥権」という「魔法の杖」(司馬遼太郎)が威力を発揮する以前のことである。徳田、志賀は明らかに「浦島太郎」であったのである。「人民に訴う」は、こう述べている。
ファシズムおよび軍国主義からの、世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことにたいして、われわれは深甚の感謝の意を表する」「米英及連合諸国の平和政策に対しては我々は積極的に之を支持する」
徳田、志賀の「浦島太郎」コンビは進駐軍を「占領軍」ではなくして「解放軍」と位置付けてしまうのである。十月十日の天候は雨であったため日比谷公園での開催を予定していた「自由戦士出獄歓迎人民大会」は田村町の飛行館五階講堂に会場が変更となった。二時半から開かれ四時五十分に閉会。その後、GHQまでデモ行進。そこで彼らがしたのは自由戦士として叛逆の権利を行使することではなく、代表団がサザーランド参謀長に面会して、政治犯釈放に関して謝辞を述べることであったというのである。それでデモは解散。ちなみに徳田の親米派ぶりは獄中でも発揮されている。マッカーサーが日本政府に覚書を突きつける以前の十月一日、フランス人ジャーナリストのロベール・ギラン、AFP極東支配人のJ・マルキュース、『ニューズウイーク』特派員のハロルド・R・アイザックの三人が米軍将校を偽装して府中刑務所を訪問し、徳田らと会見しているのだが、ギランは「徳田はアイザックの方にふりむいて、彼を腕のなかに抱きしめて、『これでぼくたちは安全です。救われました』といっていた。共産主義者アメリカ人を抱擁するのは、私がいままで見たことのない光景だった」と記している。
十二月一日から三日にかけて第四回「再建」党大会が開催される。第三回党大会が開かれたのが大正十五年十二月四日だから、実に十九年ぶりの党大会である。ここでも進駐軍を「解放軍」と規定する徳田、志賀の粗雑な情況認識は問題にされず、神山茂夫、金天海、黒木重徳、志賀義雄、徳田球一、袴田里美、宮本顕治の七人の中央委員と岩本巌、春日正一、蔵原惟人、紺野与次郎、志田重男、宋性徹、松崎久馬次の中央委員候補からなる中央委員会を選出、その後の拡大中央委員会で徳田球一日本共産党のトップたる書記長に選ばれたことからしても、中央委員会のメンバーの誰一人として進駐軍を無条件に「解放軍」と規定することに異論はなかったのだろう。「解放軍」の実態は東京大空襲、広島・長崎への原爆投下という無差別大量虐殺を民主主義の美名の下に敢行した「米軍」であるにもかかわらず、だ。やがて日本の保守政権は東京大空襲に象徴される無差別戦略爆撃を立案したルメイ将軍に勲一等旭日大綬章を授与してしまうことになるのだが、日本共産党もこれと似たような錯誤を「再建」の初っ端から犯してしまっているのである。
進駐軍を「解放軍」と錯覚してしまった徳田+志賀は、「人民に訴う」のなかで「われわれの目標」として何よりも優先して「天皇制の打倒」を掲げている。これは日本の当面する革命をプロレタリア革命への強行的転化の傾向を持つブルジョワ民主主義革命であると位置付け、ブルジョワ民主主義革命の主要任務の第一に「天皇制の打倒」を掲げる、所謂「32年テーゼ」の直接的機械的な反映であろう。しかし、昭和二十年の段階において日本共産党が大衆から思想的に遊離することなく、大衆の素朴な、それだけに強靭な生活感情と正面から向き合っていたならば、「われわれの目標」は違った表現になっていたはずである。ここでも「浦島太郎」ぶりを遺憾なく発揮しまったというわけである。獄中非転向組は「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなった」(吉本隆明)ままであったのである。
よって日本共産党の指導層は戦後第一歩の、戦後革命期において政治的リアリズムを決定的に欠くことになったと言わねばならない。その点、マッカーサーの「上からの」というよりも、占領権力をもってした「外からの革命」は、政治的リアリズムに貫徹されたものであった。具体的に言えば、昭和二十一年一月一日、昭和天皇自身に「人間宣言」をさせることで神権天皇制を崩壊させるとともに、昭和天皇を「無血革命」のパートナーにしてしまうという離れ業をやり遂げ、「無血革命」を遂行するにあたっての民衆的基盤をあっという間に整えてしまったのである。間髪を置かず一月四日、軍国主義指導者の公職追放指令を発する。昭和二十三年五月十日までに二十万人以上が追放処分を受けることになる。 
2.1ゼネストの挫折と平和革命論
野坂参三が帰って来た。昭和二十一年一月十二日正午、博多港に上陸。午後六時四十分、博多発の急行に乗り込み、翌十三日に東京に到着。その日は夜を徹して徳田球一、志賀義雄らと討議。翌十四日に野坂名義で「共同声明」を発表する。「天皇制打倒という方針の正しさを認めることにわれわれの意見は完全に一致した」としながらも、「共同宣言」は、「天皇制打倒」を「天皇制廃止」と言いかえたうえで、こう続けるのだ。
天皇制の廃止とは、これを国家の制度として排除することであり、その上で皇室の存在がいかになるかということは自ら別問題である。それは将来日本の民主主義化が達成されるとき日本国民の意志によって決定されるべきものである」
何てことはない、「人民に訴う」が掲げた「天皇制の打倒」のハードルを下げているのだ。まるで一月四日になされた昭和天皇人間宣言に応えるかのように。野坂は十四日の朝、日本共産党で開かれた党員による歓迎会で、「愛される共産党にならなければならない」と語り、以後「愛される共産党」はこの党のキャッチフレーズの如く使われるようになる。
 野坂参三は英雄として歓迎された。一月二十六日、日比谷公園で「野坂参三歓迎国民大会」が開催され、約三万人が集まり、この日のために作られた『英雄還る』が声楽家四家文子によって歌われた。大会委員長を務めたのは山川均、司会は荒畑寒村日本社会党片山哲が登壇し、「憲政の神様」尾崎行雄からもメッセージが届けられた。「愛される共産党」が早速、実践されることになったわけだが、ここで野坂は「労働者、農民による人民戦線よりは広範囲に亘る」民主戦線樹立の方針を打ち出す。二月二十四日から三日間にわたって第五回党大会が開催されるが、政治報告にたった野坂は言う。われわれにとって一番の中心問題は暴力革命を避けることだと。平和的・民主的な方法によって民主主義革命を成し遂げ、さらに議会的な方法によって政権を獲得し、社会主義革命の方向にこれをもってゆく可能性が生まれたのだと野坂は言い切る。第五回党大会をもって日本共産党は徳田+志賀体制から徳田、野坂、志賀の三頭政治に移行する。「戦略やその理論づけでは野坂をおしたてつつ、組織や大衆指導の面では徳田の意思が支配していくという党の新体制」(小山弘健『戦後日本共産党史』)が発足したのである。徳田が伊藤律を中央委員に抜擢するのも、第五回党大会である。伊藤は大会後の第一回拡大中央委員会で書記局に名前を連ねる。第四回党大会から三ヶ月も経たないにもかかわらず、党員数は一〇八三名から六八四七名に急増していた。
 インフレと食糧難が国民生活を直撃していた。四月七日には「幣原内閣打倒人民大会」が日比谷公園で開催される。「朝日新聞」は公園の樹木にまで人が鈴なり、赤旗、むしろ旗がつめかけたと報じている。何しろ七万人が集まったのである。五月一日には十一年ぶりにメーデーが開催された。東京では「宮城前広場」が中央会場となり、五十万人が埋め尽くした。五月十九日には食糧メーデーがやはり「宮城前広場」で開かれ、二十五万人が集まった。戦後はまさに「迫り来る革命」に直面していたと言えるだろう。党員数は更に膨れ上がっていった。街を歩いていると、どこからともなく「赤旗の歌」が聞こえてきた。
「民衆の旗赤旗は 戦士のかばねをつつむ しかばね固く冷えぬ間に 血潮は旗を染めぬ 
高く立て赤旗を その影に死を誓う 卑怯者去らば去れ われらは赤旗守る」
しかし、「迫り来る革命」を支える民衆の回路は分断されてしまう。象徴的に言うのであれば民主戦線の結成と労働運動の統一は不可分のものであるはずなのに労働運動の分裂を固定化してしまうのである。八月一日に右派の総同盟が結成され、八月十九日に左派の産別会議が結成される。日本共産党は民主戦線の結成による民主人民政府の樹立を唱えながらも、戦前・戦中期の敗北の検証を怠ったためにその実践過程において社会ファシズム論=社会民主主義主要打撃論から「自由」になれなかったということなのである。ちなみに社会ファシズム論の最大の批判者はよく知られているようにトロツキーである。
産別会議は国鉄総連がゼネスト体制を確立し首切りを撤回させたことから十月闘争に突入する。東芝電気全労組が十月一日にゼネストに突入したのを皮切りに日本新聞通信放送労組放送支部、全炭労が日本映画演劇労組、電産労組など産別会議系の労働組合は続々と闘争を開始。十月闘争が賃金水準を千円台に引き上げるなど一定の成果を収めたことを踏まえて、十一月二十六日には全官公庁共闘が結成され、十二月三日に賃上げを含む統一要求を政府に突きつけた。こうした労働争議の高揚を背景にして十七日、「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」が「宮城前広場」で開催され五十万人が集まる。徳田球一が吠えた。
「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない」
 明けて昭和二十七年一月一日、吉田茂首相はNHKラジオを通じて言い放つ。
「一般に労働問題の根本も、生活不安、インフレが目下の問題であり、これが解決は生産の増強以外にないのであります。然るに、この時にあたり、労働争議ストライキゼネストを頻発せしめ、市中にデモを行い、人心を刺激し、社会不安を激発せしめ、敢えて顧みざるものあるは、私のまことに心外に耐えぬところであります。然れども、私はかかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じませぬ」
 一月六日、産別会議と国鉄総連は吉田首相の「不逞の輩」発言に取り消しと陳謝を求める抗議文を発表。同日開催された日本共産党の第二回全国協議会で徳田は檄を飛ばす。
ゼネストを敢行せんとする全官公労働大衆諸君の闘争こそは、民族的危機をますます深めた吉田亡国内閣を倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」
 一月九日、全官公庁共闘の拡大闘争委員会が運輸省でスト戦術対策委員会を開き、スト決行の期日を二月一日に決定。十一日、全官公庁共闘の「スト態勢確立大会」を「宮城前広場」で開催。ゼネスト宣言後、雨の中を四万人が首相官邸に向けてデモ行進。十五日、産別会議、総同盟、全官公庁共闘をはじめ三十組合、四百万人が結集する全国労働組合共同闘争委員会が結成され、2.1ゼネストが計画されることになる。十八日、全官公庁労組拡大共闘委員会が二月一日午前零時をもって無期限ゼネスト突入を宣言。二十五日、中労委が斡旋に乗り出すも吉田首相は風邪を理由に欠席。二十八日、宮城前広場で「吉田内閣打倒 危機突破国民大会」が開催される。革命前夜の様相を呈していた宮城前広場は人民広場と呼ぶに相応しかったという。同日、中労委による第二回斡旋による政労交渉では、今度は斡旋案を共闘側が拒否。これにより2.1ゼネストは政治闘争へと純化されることになる。同日夜、共産党社会党が秘密連絡会議を開く。ここで徳田は「たとえ米軍の機関銃の前に死のうとも断じてゼネストを決行する」と強い決意を述べたと言われている。二十九日、吉田首相は社会党連立政権を打診するが社会党は拒否。三十日、中労委の仲介による政府と共闘の直接交渉は夜半に及ぶが決裂。2.1ゼネストは必至となる。三十一日、徳田球位置は共産党本部前にて声明を発表。
ゼネストを先頭とする、この大闘争こそが生産増強のムチとなり、同時に反動勢力を一掃する強力な力を結集することになるのである。全人民が、この点を見失わざることを望むと同時に、この労働者の一大闘争に合流し、自己の一切の要求をかかげて、闘争されんことを望むものである」
同日午後四時、マッカーサーは衰弱した現在の日本ではゼネストは公共の福祉に反するとして連合国最高司令官の権限に基づき中止を命令する。伊井弥四郎全官公庁共闘議長はGHQに出頭させられ、強制的にNHKラジオの前に立たされる。ゼネスト中止の放送を要求されたのだ。午後九時二十分、伊井は涙ながらに語った。
「声が涸れていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私は今、マッカーサー連合国最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の思いで組合員諸君に語ることを御諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。一歩後退二歩前進」
次のような風聞が人口に膾炙されるようになる。ゼネスト中止の放送を最後まで迷った伊井がNHKの放送室に向かう狭い廊下で何故か徳田球一とバッタリ出会う。徳田はおとなしい口調ながらも伊井にはっきりと言う。
「ストをやめると放送しなくてはだめですよ」
伊井によれば、徳田球一はこの一言を残して神出鬼没のように姿を消したという。「迫り来る革命」が「裏切られた革命」に転化した一瞬である。伊井は占領政策に違反したとして懲役二年が言い渡される。日本共産党は昭和二十四年一月の総選挙で四議席から三十五議席に大躍進を遂げ、2.1ゼネストの挫折を忘れてしまったかのように「占領下における平和革命」の幻想に酔いしれる。
コミンフォルムの紙爆弾が炸裂
昭和25年(1950)一月六日、コミンフォルムの紙爆弾が破裂した。その機関紙『恒久平和人民民主主義のために』がオブザーバー署名の論評「日本の情勢について」を掲載、日本共産党指導者野坂参三を名指しで非難して次のように述べているとブル新は報じた。
日本共産党指導者野坂氏はブルジョア的態度をとっており、帝国主義者の召使である。野坂氏は日本共産党中央委員会の報告で、日本が占領下にある間に人民民主主義政権を樹立することが可能であると述べているが野坂氏の理論は日本人民を誤らせるものである」(一月八日付「朝日新聞」)
 日本共産党からすれば寝耳に水の話であったろう。ヨーロッパの共産党社会民主党を母胎として生まれたのと違って、最初からコミンテルンによってつくられた党であり、徳田球一宮本顕治の「非転向」とはコミンテルンへの忠誠を獄中においても貫徹したということしか意味しないだけにコミンテルンの後身たるコミンフォルム日本共産党からすれば親にして教師とも言うべき絶対的な存在として認識されていたはず。そのコミンフォルムが自分たちの頭ごなしに、しかもブル新を介して根底的な批判を加えてくるなどとは思いもよらなかったのである。日本共産党は、この論評を「敵の挑発行為」であり、「今までも度々あった同種のデマ」として黙殺しようとする。
「われわれがもし外国電報を信ずるなら同志スターリンは、すでに、二十たび死んだであろうし、同志毛沢東は、十たびあやまりを犯したこととなるであろう」(一月九日付『アカハタ』)
 しかし、論評がデマでないことが判明する。そこにははっきりと書かれていた。
「野坂の『理論』が、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものであることは明かである。本質上野坂の『理論』は、反民主的な反社会主義的な理論である。それは、日本の帝国主義的占領者と日本の独立の敵にとってのみ有利である。したがって、野坂の『理論』はまた、同時に、反愛国的な理論であり、反日本的な理論である」
論評に徳田球一は反発する。「コミンフォルムの若僧が何をぬかすのだ」と。一月十一日、論評の評価をめぐっての対策を決めるべく政治局会議が開催される。この会議で徳田は激高したと伝えられている。顔を真っ赤にして、テーブルを叩きながら、「われわれは自主独立でやって来たんだ。日本には日本の事情がある。堂々と論評に反撃しようではないか」と言ったという。これに対して志賀義雄と宮本顕治の二人は論評の無条件受け入れを主張、戦後、日本共産党が再建されて初めて政治局は原則問題で意見が割れたのである。ここに府中刑務所をともに出獄した徳田と志賀は袂を分かつことになる。採決の結果、徳田派が制し、一月十二日午後一時に伊藤律から「『日本の情勢について』にかんする所感」が発表し、「日本の情勢について」の内容は「日本人民」にとって受け入れ難いものだと所感は結論付ける。しかし、所感の内容が堂々たる反撃になっていないことも明らかであった。
「論者が指摘した同志野坂の諸論文は、不十分であり、克服されなければならない諸欠点を有することは明かである。それらの諸点については、すでに実践において同志野坂等と共に克服されている。そして、現在はその害を十分とりのぞき、わが党は正しい発展をとげていると信ずる」
 当時のブル新を舞台にした商業ジャーナリズムは所感が論評の「是認」と「弁解」にしかなっていないことを鋭く指摘している。
「こんどの共産党の声明は二・一ゼネストマ元帥によって禁止されるまでの段階、また去年の夏季攻勢が失敗についで、国際的な批判の結果とはいえ同党の戦略戦術のうえに今後重要な意味を持つものであるが、それは一言にしていえば批判の『是認』であってこれに日本共産党の『弁解』がくっつけられているといった形である」(一月十三日付「朝日新聞」)
 そうした「弁解」すら、国際共産主義運動は許さなかった。コミンフォルムの論評を支持する中国共産党は一月十七日付『人民日報』に社説「日本人民解放の道」を掲げ、所感を批判し、論評の受け入れを迫る。
「(所感をもって論評に同意しないことを表明したことが)本当であるとすれば、日本共産党政治局の見解ならびに態度が正しくなく、かつ適当でないことは極めて明らかである」
 日本共産党の第十八回拡大中央委員会は「コミンフォルム機関紙の論評に関する決議」を満場一致で採択。野坂参三自己批判させるとともに「今後こうした誤びゅうをおかさないように、そして国際プロレタリアートの期待に酬いることに努力する」と全面的に屈服してしまうのだ。所感派は「是認」と「弁解」の所感であっても、論評を受け入れないという、ただそれだけの一点ではあっても、その一点を「自立」の萌芽する契機を自らの手で葬ってしまうのである。
所感がコミンフォルム論評の「是認」であるとすれば、さしずめ宮本顕治が論評受け入れ後に発表した論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」のなかの次のような言い回しは「盲従」ということになるのではないだろうか。宮本からすればコミンフォルムには「世界革命運動の最高の理論と豊富な実践が集約されている」のである。
「われわれはとくに、同志スターリンに指導され、マルクスレーニンスターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを、銘記しておく必要がある。このソ同盟にたいする国際共産主義者の態度は、つぎの、同志毛沢東の言葉に、よく表現されている。『ソ同盟共産党は、われわれの最良の教師であり、われわれは教えを受けなくてはならぬ』」
 このような「盲従」しかスターリンは許さなかったのである。今では周知の事実となっている通り、論評の筆者オブザーバーはスターリンその人であったのである。しかしだからといって、日本共産党の主導権が主流派の所感派から反主流派の国際派に移行したわけではなかった。両者の対立は四月二十八日から開かれた第十九回中央委員会総会において徳田が提案した「五十年テーゼ」をめぐって激化する。激しい議論が渦巻くなか、伊藤律からGHQの弾圧が迫っているという内報がもたらされる。徳田球一は国際派を除外して非公然組織の旗上げを準備する。日本共産党はここに分裂が決定的となったのである。
五月三日の憲法三周年記念日に際して、マッカーサー元帥は声明を発表、日本共産党が「公然と国際的略奪組織の手先」となっていることを警告し、同党の非合法化を示唆するとともに日本国憲法の擁護を訴える。六月六日、マッカーサー元帥は吉田茂首相に日本共産党二十四名の公職追放を命令する。レッドパージが開始されたのである。徳田球一を始めとした所感派は巧みに地下に潜る。
GHQからすれば日本共産党コミンフォルムの論評を受け入れ、野坂が右翼日和見的誤りを自己批判することは同党が議会主義=日本国憲法体制を否認し暴力革命を示唆するに等しいことだったのである。そもそもスターリン直筆の論評は日本共産党に「暴力」こそを、求めていたと言うべきだろう。ヨーロッパにおいては「冷戦」が固定化する一方で朝鮮半島においては「熱戦」が避けられそうもない情況において、戦争を有利に運ぶためにも日本共産党の協力は不可欠であったのである。竹内好は『展望』の昭和二十五年四月号に「日本共産党に与う」を発表している、竹内の日本共産党は「人民に尻を向けてコミンフォルムの顔色を窺ってばかりいた」という指摘は鋭い。しかし、その竹内をしてコミンフォルムの論評は「日共が人民を正しく指導(代表といってもいい)しないことを責めている」と言わしめてしまうのである。ソビエトスターリンを「善玉」とする思考から「進歩派」と呼ばれる知識人も自由になれなかったのである。それこそ八十年代の反核運動に至るまで、そうした思考が罷り通り続けることになるのである。
六月七日、マッカーサー元帥は更に十七名に対して追放を指令。これにより『アカハタ』幹部は全滅。同日、日本共産党は椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部を確立。六月二十五日、朝鮮戦争が勃発。七月十四日、法務府特審は徳田、野坂、伊藤等九名を団体等規正令第十条違反として最高検に告発、これに基づいて九氏に逮捕状が発せられる。八月末に徳田球一が中国に密航。十一月に野坂参三が続き、北京に日本共産党在外指導部を結成。後に北京機関と呼ばれることになる。十月七日付の非合法機関紙『平和と独立』は無署名論文「共産主義者愛国者の新しい任務―力には力を以って闘え」を発表。遂に武装闘争を呼びかけるに至る。
「国内の支配階級が公然と武力によって、民族を奴隷化し人民の生命までも奪っているのが現実であるにも関わらず、人民の武装闘争の問題を提起して、これを真剣に準備せねばならぬことを、今なお人民に語らないとすれば、それは民族と革命への裏切りといわれても仕方がないであろう」