断片の昭和史(2)「日本原人」小平義雄の連続強姦殺人事件

犯し、殺す。女の顔面を殴り、黙らせる。頸部を絞める。右手を前に、左手を後にして、両手で女の身体を少し上に持ち上げる。2〜3分待つ。女が洟をたらし、糞尿を垂れ流す。そうして仮死状態にしてから犯す。
敢えて目を覚ますまで待つ時もある。失禁に気づいた女に服を脱ぐように命じ、肉体に付着した糞尿を拭き取ってやる。抵抗などない。言いなりだった。女の両足を割って、その中心部に男根を突き刺し、犯す。“その瞬間”が「なんともいえないのです」。
殺しが目的ではない。殺すこと自体に興味はないし、殺す瞬間は厭なものだ。ただ犯(や)りたいだけなのだ。性欲がむらむらと湧いてきて、おさまりがつかなくなるだけのことである。
しかし、殺してから犯すこともある。“その瞬間”は女性の生死にかかわらずやって来る。“その瞬間”において「殺されてもいいと思う」し、「日本刀で後ろから首を斬られても構わない」くらい「なんともいえない」のである。小平義雄(当時42歳)は自らを「人面獣心」であると冷静に認識している。「腰から下は獣ですよ」と。小平義雄は「性獣」であった。
最初の犯行は1945年(昭和20年)5月25日のこと。戦争は終わっていなかった。再婚した妻と子供は疎開させていた。妻の不在が性欲を抑制しきれなくなったわけではないだろう。むしろ日本全土が米軍の空襲にさらされ戦場と化したことで、小平義雄に“戦場”が戻って来たのではないだろうか。1928年(昭和3年)、済南事件に際しての“体験”である。小平は海軍陸戦隊の隊員として日清紡工場の防備にあたっていたが、そこで激しい市街戦を経験する。中国兵6名を銃剣で刺殺するほどの“大活躍”をする。更に同僚とともに中国人の家庭に押し入り、父親を縛り上げ、娘を犯す。
小平によれば「強盗強姦は日本軍隊につきものですよ」「妊娠している女を突き刺し子供を出したり」もしたという。小平は1929年(昭和4年)に勲八等旭日章を手にすることになる。“戦時の功”において知った“その瞬間”を小平の肉体は再び求め始めようとしていた。小平には前科があった。前妻の義父を鉄棒で殺害、他の家族6人にも重傷を負わせ、懲役15年で服役中であったものの、紀元節の恩赦もあって1940年に仮出所していた。1944年に前科を隠して再婚。1945年2月には長男も生まれた。
小平は品川区の海軍第一衣糧厰女子寮でボイラーマンの仕事をしていた。被害者は女子寮の女子挺身隊員M・Mさん(当時21歳)。東条英機首相が「勤労を逃げる有閑娘、婦道に恥じよ」と発言し、女子挺身隊が結成されたのは1944年(昭和19年)1月19日。戦争による労働力の不足を補うため女性の勤労動員が行われた。M・Mさんもそんな一人であった。
小平が彼女と関係したいと思ったのは犯行の2〜3日前。盲腸の手術で入院していたため風呂に入ることができなかったので、身体を拭きたいからお湯をくださいとボイラー室に入ってきた。小平はお湯をバケツにいれ、ボイラー室を出る。閉めた扉の穴からM・Mさんの肢体の動作を覗き見る。最初は手拭いを上着の下に入れて拭いていたが、やがてズボンを下げ腿のあたりを拭きはじめる。小平の視角に飛び込んできた“腿のあたり”が小平の欲望を激しく刺激する。
再びM・Mさんがボイラー室にやってきたのが5月25日。母の疎開先で養生することになったとからと報告にきてくれたのだ。一緒に食事をする。それから自室に引き上げたM・Mさんを小平は追った。彼女は小平を部屋に入れた。
「何時の汽車で発つの?」
「今晩の九時頃です」
「もしそれがダメなら、明朝の8時半の長野行きが良いね」
小平は何気ない会話をかわしながら機会をうかがっていた。人気がないことを確認した上で小平が切り出す。
「私の言うことを聞いてくれないか」
「おじさん!冗談を言わないでよ」
逃げようとするM・Mさん。悲鳴。カーッと頭に血が上る。小平は躊躇なくM・Mさんの首を締める。女は気絶し、小平は射精していた。煙草をふかしながら覚醒するのを待った。彼女は目を覚ますと観念したのか、自ら衣服を脱いだ。犯す。それから殺した。死体は中庭の防空壕へ捨てた。
連日、アメリカのB29が500機近く東京に来襲していた。焼夷弾の雨が降り注ぎ、多くの人命を焼いた。3月10日の東京大空襲では無傷だった宮城も被災し、表宮殿・大宮御所が炎上する。東京陸軍刑務所に収監されていた62人のアメリカ人捕虜まで焼死する。民衆は本土決戦を覚悟していた。
第二の犯行は6月22日。衣糧厰はやめていた。被害者はI・Yさん(当時30歳)、主婦。I・Yさんは「頭を束髪にして、綺麗なモンペをはき、一見大家の奥さんふうの器量のいい女」だった。出会ったのは東武鉄道栃木駅。小平が声をかけた。
「バスで往復すれば東京には今夜中に帰れる農家が知り合いですので、そこに行って米を買いませんか」と。
小平の親切を主婦は疑わなかった。「ぜひ案内してください」と非常に喜んだ。「しめた!」と思った。真名子停留所で二人はバスを降りた。小平は近道があるからと主婦を栃木県上都賀郡真名子村の山林に連れ込む。少し歩いたところでI・Yさんが怪しみ始め、引き返そうとした。小平は後ろから飛びかかった。主婦を投げ倒し、顔を殴ってから犯した。途中で彼女が性的に反応してきたのがわかったので一緒に快楽を貪りあった。翌朝4時までに3回まぐあう。その後、首を締めて殺す。現金70円と腕時計を奪ったうえ、死体は近くの堀の中へ捨てた。
6月22日、昭和天皇は最高戦争指導会議構成員会議を召集し、戦争終結の努力をするように伝える。しかし、そんな昭和天皇の意思を民衆は知る由もない。本土決戦を覚悟していた。この日、鈴木貫太郎内閣のもと、15歳以上60歳以下の男子、17歳以上40歳以下の女子を対象に、義勇兵役法が公布される。
第三の犯行は7月13日。被害者はN・Mさん(当時21歳)、事務員。小平は妻子の疎開先に向かうため渋谷駅で切符を買う行列に並ぶ。N・Mさんは小平のすぐ後ろに並んでいた。雑談が始まる。そうしているうちに小平は劣情を催す。「1時間くらいのところになんでも買える農家がありますよ」と誘う。
「お願いしたいけど、買い出しをするだけのお金がないんです」
「おじさんが立て替えてあげるさ」
7月11日から主食の配給は一割減となっていた。一人一日二合一勺。根っこも木の葉も決戦食糧へ、だ。小平は“空腹”につけこんだ。「1億玉砕」「神州不滅」が叫ばれるなか、配給だけでは到底充たされない“食欲”が次々に小平の“性欲”の餌食になっていった。二人は浅草に出て、東武線に乗り換え金ヶ崎駅で降りた。近道があるからと栃木県上都賀郡清洲村の山林に連れ込んだ。取り敢えず正面から口説いてみた。女は拒絶する。実力行使するしかなかった。彼女の履いていたゴム長靴の先を右足で踏んで、右手で喉を突き、倒れかかるところを前から割り込んで“関係”を迫る。それでも「いやだ!いやだ!」と声をあげながら身体をゆする。おとなしくなったのは右手で尻のあたりを2〜3回殴りつけてからだ。ようやく男根をあてがうことができた。性交を終えて身体を離しても、N・Mさんは抵抗をやめなかった。小刀を取り出すではないか。小平は体当たりをして、小刀をもぎとり、彼女の巻いていた細紐を拾って、これを首に二重に巻き、馬乗りになって絞め殺す。小平は逃げる途中でグラマン機が10機編成で飛んでいくのを目撃する。7月12日夜半から13日未明にかけて宇都宮は大空襲を受け、市街地の大半が消失してしまうが、その空襲に加わったグラマン機であった。人びとを無差別に殺戮する空襲に加わった戦闘機と“その瞬間”を求めて殺しに走る小平が交差するという構図に時代の自画像を見ることができよう。死体は近くの堀の中へ捨てた。現金40円と腕時計を奪ったうえで。
この日、昭和天皇近衛文麿に対し、和平工作のためのソ連訪問を下令した。
第四の犯行は僅か3日後の7月15日。東京の警察官は空襲を警戒し、白服着用をやめ、夏も黒服を着用することになる。1万着が黒く染色された。被害者はK・Kさん(当時22歳)。出版社に勤務するインテリであった。とはいえ彼女もまた防空頭巾にモンペ姿。細面。きゃしゃな四肢。大きなリュックを背負って、池袋駅の切符を買う行列の中にいた。例によって小平は一緒に買い出しに行かないかと誘う。
「どちらに行かれるのですか」
「知り合いのところです」
「それなら安心ですね。私も500円を持って、入間郡の知り合いの農家にイモを買い出しに行くのですが、途中までご一緒しましょう」
二人して武蔵野鉄道に乗り込むことに成功する。その途中、K・Kさんにイモではなく米が買えると持ちかける。米の誘惑には勝てなかった。二人は清瀬駅で降りる。国道を4㌔ほど歩いたあと、こちらが近道だからと、東京都北多摩郡清瀬村の雑木林に連れ込む。まもなくして襲いかかる。
「言うことを聞かないと殺すぞ」
両手で首を締めながら脅す。下半身を覆っていた衣服を剥ぎ取り、強姦し、殺害。現金500円と縮緬洋服を奪う。彼女は物々交換のために縮緬洋服を持参していた。
7月16日、アメリカはアラモゴードで原爆の実験に成功する。
7月17日、米英ソ三国の首脳がポツダム会談を開いた。
7月18日、ソ連政府は近衛文麿特使の派遣を拒否する。小平は妻が疎開する富山の妻の実家を訪ねる。仕事も富山で得た。不二越鋼材東富士製鋼所で守衛の仕事を始める。
7月26日、トルーマンチャーチル蒋介石の米英中三国首脳がポツダム宣言を発表し、日本に無条件降伏を要求する。
8月6日、広島に原爆投下。8月9日、長崎に原爆投下。8月15日、玉音放送
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」
小平は動かなかった。富山に身を潜めたまま8月をやり過す。
8月26日、特殊慰安施設協会(RAA)が設立される。アメリカ兵のための「性の防波堤」が内務省の肝煎りで発足したのだ。
8月30日、連合国最高司令官マッカーサーが厚木に上陸。
9月2日、降伏文書に調印。
小平が動き出す。9月21日に不二越鋼材東富士製鋼所を退社。富山の薬をかき集め東京で一儲けを企む。しかし、薬は思うほど売れなかったようだ。そうであれば、やることは一つ。国家は戦争を終えても、小平の“戦争”は終わっていなかった。ベルトから下の“欲望”が次なる“戦場”を求めた。
第五の犯行は昭和天皇マッカーサー元帥をアメリカ大使館に訪問した翌日の9月28日であった。被害者は出版社経理事務員のM・Yさん(当時21歳)。東京駅で友人を待っていたM・Yさんに声をかける。
「池袋から武蔵野電車で行くと、知っている農家があって、そこへ行けば、いつでも米やイモが買えるんです」
また同じ手口だった。しかし、これが最も効果的であった。誰もが飢えていた。特に東京の食糧不足は絶望的な様相を呈していた。
「東京の場合は、主食のほとんどを都外からの移入に頼るため、食糧不足は絶望的な様相を呈した。米に限らず食糧の公的な流通機構はほとんど壊滅状態にあり、実質的には大部分が『ヤミ』による調達で露命をつないだ」(『東京百年史』6)
M・Yさんは小平についてきた。清瀬駅で降り、前回の犯行と同じ道を歩き雑木林に入った。さすがに変だと思ったのか、女性はどうしても帰ると言いだしたので
「オレの言うことを聞け」
と怒鳴る。首を締めようとすると、彼女は自ら裸になった。水溜りがあったので衣服を濡らしたくなかったようだ。“籠かつぎ”の体位を選択してやった。ところがすぐ側で栗拾いをしている子供の声が耳に入った。あわてて声が出ないように首を締める。そこで殺すつもりはなかったが、強く締めすぎ死んでしまう。彼女を本格的に犯したのは、それからのこと。
マッカーサー元帥を頂点とするGHQは本格的な国家改造に着手する。10月6日、五大改革を指令する。婦人の解放、労働者団結権、教育の自由主義化、専制政治からの解放、経済民主化である。治安維持法が廃止され、財閥が解体され、陸軍省海軍省が廃止され、農地改革が始まる。時代は物凄い速度で変わろうとしていた。そこに「上からの革命」を見た政治学者もいた。12月6日、近衛文麿が青酸カリによる服毒自殺を遂げる。
「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ、戦争が終れば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」(『昭和7廃墟からの出発』)
戦前も、戦中も、戦後も「性獣」でありつづけた小平義雄もまた「運命の子」ではなかったのか。
第六の犯行は12月30日。富山に行き、薬代の清算も済ませていた。妻の弟が経営する運送会社を手伝っていた。妻子も東京に戻し、親子3人で渋谷区羽沢町に居を定める。それでも小平は“その瞬間”を求めた。人々の生活は逼迫していた。食糧も燃料も不足していた。巷には浮浪者が溢れていた。11月29日付朝日新聞は「石炭飢饉」について報じた。
「石炭がなければ汽車や汽船が動かなくなるということは、これは誰にでもわかる。汽車が止まれば大事な米や魚や野菜などの食糧、日用品物資などの輸送が出来なくなる。従って何はともあれ石炭は輸送方面に廻さなければならない」
その日、小平は栃木へ買い出しに向かった。浅草駅で母の疎開先である日光に行こうとしていたB・Hさん(当時19歳)にいつものように米が安く買える農家があるからと誘う。金ヶ崎駅で降り、いつものように近くの山林を通るのが近道だと騙して、栃木県上都賀郡西方村の山中に入る。暗くなったから帰ろうと言い出したB・Hさんを殴りつけ、両手で首を締めながら強姦。その後、息を吹き返したところをマフラーで絞殺。
敗戦から1年が過ぎていた。「その年の1月1日、天皇は「神」であることをやめていたが、性獣」であることをやめなかった小平義雄が第七の犯行によって社会にあぶりだされる。1946年(昭和21年)8月17日午前9時半ごろ、東京は芝の増上寺境内の裏山の草むらから全裸の女性死体が発見される。首に手拭いのようなものが巻きつけられていたことから、他殺の線が濃厚になった。更に付近一帯を調べたところ、午後3時過ぎ現場から10数メートル先の草むらからも半ば白骨となった女性の死体を発見。白骨化した女性の身許は遂にわからなかったが、最初に発見された遺体の身許は割れた。8月18日付の新聞に報じられると、相撲の行司として有名な式守伊三郎夫人が警察に問い合わせて来た。三女のM・Rさん(当時16歳)が8月6日から行方不明となっていた。やがて母親によって遺体が娘に間違いないことが確認される。母親によるとM・Rさんは就職口を探しに出かけたまま行方不明になってしまっていた。その就職口を世話してくれるのが小平であることを家族は承知していた。
被害者が仕事を世話してくれるという小平と品川駅の構内で知り合ったのは一ヶ月ほど前のことだった。二人は約束を交わす。しかし、M・Rさんは病気になってしまう。約束を果たせなかった。しかし、二人は住所を交換しており、小平が家に訪ねてきた。せっかく良い仕事を斡旋しようと思っていたのに約束の日に現れなかったので心配になって訪ねることにしたと語る小平を母親も信頼した。進駐軍に勤めているという小平はアメリカ軍兵舎でM・Rさんを働けるようにしてくれるというのだ。実際、小平は3月から芝高浜町のランドリー兵舎で雑役夫を勤めていた。
小平はM・Rさんと8月6日午前10時に品川駅東口で待ち合わせる。しかし、その日、M・Rさんは自宅に帰って来なかった。心配になった母親は教えられた住所に小平を訪ねた。小平によればその日も彼女はとうとう姿を現さなかったという。母親は引き上げるしかなかった。
こうした経緯を知った捜査本部は8月19日、小平を愛宕署に連行。家宅捜査ではM・Rさんの持ち物であったパラソルを発見。翌日、小平は犯行を自供。
8月6日、午前10時、M・Rさんは約束通り品川駅東口に現れた。小平は巧みに嘘をつく。今日は米軍兵舎に出入りする証明書がない。丸の内のアメリカンクラブで紹介状をもらってあげるから、その前に腹ごしらえをしようというのだ。
増上寺境内の裏山で二人は弁当を並んで食べる。小平が豹変する。
「言うことを聞け」
「イヤだ」
横っ面をひっぱたいた。無理矢理下着を脱がせる。犯す。小平は終わってズボンをはく。マゴマゴしていたM・Rさんの首を締める。首が太かったので10分くらいは力を抜かなかった。そのせいか死顔は黒ずみ、酷いものだったと小平は供述した。
逮捕された小平は増上寺でもう一つの遺体も発見されたことから、余罪も厳しく追及される。次第に一連の強姦殺人を次々に自供するに至る。検察は10件の殺人事件で起訴したが、小平自身は、ここで取り上げてきた7件しか認めず、残りの3件は証拠不十分で退けられる。また小平は、この連続強姦殺人事件以外にも30件に及ぶ婦女暴行を行っていて、これらの件については認めている。
「戦争の時はわしよりむごいことをした連中を知っていますが、平和なときにわしだけひどいことをした者はいないと思います。全く人間のすることじゃありません」
そして小平は続ける。
「人面獣心です。腰から下は獣ですよ」
哲学者・鶴見俊輔は小平義雄を「日本原人」と呼んだ。
1949年(昭和24年)10月5日、死刑執行。