もしかすると憲法9条と憲法25条がゲンパツを推進したのではないだろうか?

岩波文庫に入っている『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』を読んだことがあるだろうか。広島の原爆で被爆した少年少女の手記105編からなっている。編纂に当たったのは自身も被爆者であった教育学者の長田新である。親本の刊行は朝鮮戦争の真っ最中である1951年のこと。私がこの本を読んだのは反核運動が盛んだった頃だから、1980年代の初頭だろう。私はアメリカの核に対してのみ断罪する反核運動の政治的な欺瞞性に反吐が出るような思いでいたが、新宿だか吉祥寺だかの飲み屋で知り合った女性が反核運動にいたく熱心であり、『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』を読むようにすすめられ『原爆の子』を私にくれたのである。内容的には悪い本ではなかった。GHQプレスコード=検閲による言論統制によって、アメリカの原爆投下による被害の実態が知られていなかった段階で、こうした本が刊行された意義の大きさも理解できた。しかし、だからといってアメリカの広島、長崎に対する原爆投下による無差別大量虐殺(間違いなく戦争犯罪である)を抗議することなしに、ヨーロッパでの核配備でアメリカにイチャモンをつける反核運動のお人好しぶりに逆に唖然としたものである。わが国で「反」を冠に運動を繰り広げる連中は今も昔もその程度の輩が多いのではないだろうか。
実は、反核運動の「元祖」のような存在として扱われて来た長田新原発推進派なのである。長田は『原爆の子』の序文で次のように書いているのだ。

原子力は一つの妖術―「悪をもたらす性質」としてのみ捉えるべきではなくて、それは「偉大な善をもたらす」他の一面をもっている。

よって原子力の平和利用、すなわち原発推進に向かって前進しなければならないと長田は考えていた。だから英語で言えば核も、原子力もnuclearだが、わが国では「悪をもたらす」nuclearを核と呼び、「善をもたらす」nuclearを原子力と呼ぶようになったのかもしれない。原子力発電の推進の一方の思想的なエンジンとなったのは戦争放棄を謳った憲法9条ではなかったのか。また、原子力発電所がその電力の恩恵を浴する大都市ではなく、例えば高度経済成長から疎外されたようなエリアに作られ続けたのは、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳った憲法25条に立脚してのことではなかったのか。原子力発電を「犠牲のシステム」と切って落とすことが私にはできないのである。
次に掲げるのは田中角栄首相の1972年10月28日の第70回臨時国会における所信表明演説の一節である。

戦後四半世紀にわたり我が国は、平和憲法のもとに一貫して平和国家としてのあり方を堅持し、国際社会との協調協和の中で発展の道を求めてまいりました。私は、外に於いてはあらゆる国との平和維持に努力し、内にあっては国民福祉の向上に最善を尽くすことを政治の目標としてまいります。世界の国々からは一層信頼され、国民の一人ひとりがこの国に生を受けたことを喜びとする国を作り上げていくため、全力を傾けてまいります

平和国家を堅持しつつ、「内にあっては国民福祉の向上に最善を尽くすことを政治の目標」とした田中は「電源三法」の生みの親である。「電源三法」をもって原子力発電所を電力の消費地ではない地方に建設することで、経済発展の恩恵が大都市部に集中するという「歪み」やそのことによって生じる「格差」を是正することが田中にとって「国民福祉の向上に最善を尽くすこと」に他ならなかったに違いない。ここには憲法9条と憲法25条の精神がともに反映されている。この二つの精神は田中角栄という土着型の「社会民主主義者」(と私は思っている)にとって密接不可分であったと思われる。
わが国にとって原発推進とは何であったのか?この点を掘り下げて考えてみる必要があるのではないだろうか。