ある日あるとき、親鸞は弟子の唯円に問うた。
「私の言うことを信じるか」
唯円は何の躊躇もなく答える。
「もちろん、信じますとも」
一点の曇りもなく答えた唯円に親鸞は穏やかな表情で重ねて問う。
「唯円房は私の言ったことに異を唱えることはないのだな」
唯円は当たり前のように師の言葉に頷く。
「謹んで承知いたしました」
親鸞は静かな、しかし、はっきりとした口調で語りだす。
「ならば人を千人殺して欲しい。千人殺せば、あなたは必ず極楽浄土に往生できますよ」
この親鸞の挑発的な言葉を聞いた唯円は明らかに動揺していた。言葉を震わせながら、こう言うしかなかった。親鸞の問いに唯円は逃げたというべきか。
「仰せではございますが、この私の器量からして千人はおろか一人さえ殺すことはできません」
親鸞の刺すような視線が唯円には痛かった。できれば、この場からすぐにでも立ち去りたかった。そんな唯円の心理状態を見透かしたように親鸞は口を開く。
「唯円房は私に異を唱えることはないと言ったばかりではないか」
親鸞の口調は相変わらず静かだった。親鸞は唯円の返答を待たずに語り続ける。
「唯円房よ!覚えておくが良い。どんなことでも自分自身の意志のまま思い通りに行動できると言うのであれば、往生のために千人殺せと言われれば、すぐにでも大量殺人にとりかかることができるはずでしょう。しかし、あなたはできないと言う。それはあなたに一人の人でさえも殺す業縁がないからです。殺さなければならない業縁がない以上、人は一人として殺すことはできません。自分の心が良くて正しいから殺さないということではないし、逆に殺さないつもりであつても、業縁が働けば、どんな人でも百人千人の人を殺してしまうことがあるのです」
※
大阪城は通天閣と並んで今でも大阪のシンボルである。東京の中心に皇居があるように大阪の中心には大阪城がある。私たちが大阪に到着したのはお盆を翌日に控えた暑い盛りの八月十二日の夜八時近くのこと。目的は石山合戦と呼ばれている織田信長と石山本願寺の痕跡を探すためである。大阪城や天王寺界隈を歩くのは明日にして、まずは串揚げと酒精で肉体を大阪モードに切り替える通過儀礼を敢行することにした。ホテルをミナミのど真ん中に予約しておいたのは、このためである。大阪経済の地盤沈下が言われて久しいが、大阪のすべてがごった煮となっているとしか言いようがない混沌と喧騒は相変わらず健在である。そのアナーキーな空間は石山本願寺以来のDNAを受け継いでいると言うべきかも知れない。ソースの二度付け禁止を唯一のルールとした串揚げをサカナに酒精をたらふく胃袋に流し込んだ後は、仕上げはかすうどんと相成る。牛のテッチャン(小腸)を高温の油であげることで余分な油を取り除き、二cmほどの小片に切った「油かす」を大量に浮かべたうどんである。コクと甘みと香りの三重奏がたまらない味である。『被差別の食卓』を読めば分かるように、わが国を代表するソウルフードである。
それは今から450年近くも前の出来事であった。元亀元年(1570)九月十二日夜半、石山本願寺の早鐘が鳴り響く。摂津の天王寺近辺に陣取っていた信長軍に向けて鉄砲が放たれる。本願寺が挙兵したのである。織田信長は野田・福島に陣取っていた阿波の三好三人衆討伐のために八月二十五日に将軍足利義昭とともに京を発し、二万の軍勢をもって有利な戦闘を繰り広げていたわけだが、この想定外の急襲に信長方は仰天する。この日を境にして本願寺は石山合戦と呼ばれる信長との戦争を十一年にわたって戦うことになる。
本願寺の石山退去に際して、石山本願寺は焼失してしまうが、この跡に豊臣秀吉は大坂城を築城する。しかし、大坂夏の陣で廃墟になってしまう。再築は徳川秀忠によって開始され、家光の時代に完成する。この徳川大坂城も、幕末の動乱に際して焼失。現在の大阪城は昭和六年に再築されたもの。平成七年から平成九年にかけて改修工事が行われている。天守閣を中心にして総面積106.7ヘクタールに及ぶ大阪城公園に石山本願寺の痕跡を私たちは探すことにした。結論から言えば、当時の遺構は何も残っていない。伝承ながらも石山本願寺が上町台地の最北端にあったことを伝えているのが「蓮如上人・袈裟掛けの松」。
そう石山本願寺は明和五年(1496)に蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立したことが起源となっている。そもそも「大坂」という地名が最初に見られる文献が蓮如の御文章である。「蓮如上人・袈裟掛けの松」と言っても松の根が残っているだけであり、むしろ目を引くのは「南無阿弥陀仏」と刻まれた大きな石碑。これは昭和四年五月の天皇行幸を機に由井卯二郎なる人物が私費を投じて建立したものであり、歴史的根拠に基づくものではない。むしろ、石山本願寺の歴史は大阪の民衆の日々の暮らしの無意識の領域にしっかりと根を下ろし続けているのではないだろうか。
「勉強させていただきまっせ」
前夜、ホテルへの帰路、背後から、威勢の良い声がかけられた。飲食店から呼びかけられたのか、風俗店の客引きだったのか、酔いの回った身体では確認するのも面倒であったのだが、「〜させていただきます」という言い方ほど絶対他力の思想を雄弁に物語っている言い方は他にはあるまい。文字通り、自力を放棄することで何でもありの商売が可能になる。わが国の資本主義は本願寺によって育まれてきたと言っても過言ではあるまい。
石山本願寺の経済力、軍事力は、そこいらの戦国大名をはるかに凌駕するものであったようだ。石山本願寺の経済力はポルトガル人宣教師のガスパル・ピレラに「日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」と言わしめたほどなのである。御影堂と阿弥陀堂を中心にした寺院というよりも城塞と呼んだほうが正確な境内の外側には、西町、南町屋、北町屋、北町、清水町、新屋敷の六町と枝町で寺内町を形成していた。太田牛一の『信長公記』によれば「売買利潤、富貴の湊」に他ならなかったのである。ちなみに財力のなかった正親町天皇は本願寺の献金によって即位式をあげたという。この功績により本願寺は門跡に列することになった。また軍事力に関しては『朝倉始末記』には坊官の下間頼秀と頼盛の兄弟が天下の武士を攻め滅ぼして、本願寺の宗主を天子として、自分たちは将軍と仰がれて、四海を呑み込むのだと下克上の野心を抱いていたという内容の記述があるくらいである。武田鏡村の『織田信長 石山本願寺合戦全史』の記述に従えば守護不入などの寺内特権を有した「石山寺内町には、鍛冶屋・太刀屋・墨屋・桶屋・塗屋・竹屋・油屋・医師・薬屋・土器師・大工・仏具師・御厨屋などの職人たちとその家族、さらに生活必需品を扱う商人や、遠くは越後、加賀、越前などと交易する商人や運輸業者がいたようである」。加えて琵琶法師は頻繁に出入りしていたことが確認されていることからも、多くの芸能民も石山本願寺に集まって来ていたと想像することは、あながち的外れな見方ではあるまい。
実は私たちは大阪城を訪れる前に信長の足跡を天王寺界隈に捜し歩いていたのだが、石山本願寺の雰囲気を今に伝えているのは、大阪城の「蓮如上人・袈裟掛けの松」ではなく四天王寺ではあるまいかと今では思っている。私たちが四天王寺に着いたのは午前八時前。早朝と胸を張れる時間ではないにしても、かなり早い時間である。確かにお盆ということもあるのだろうが、既に参拝者でごった返していた。四天王寺は聖徳太子建立の寺院だが、西門が西方極楽浄土の入り口であるという浄土信仰の寺という性格を色濃くしていった。境内には親鸞の銅像もあるが、もともとは天台宗に属していた。しかし、敗戦直後の昭和二十一年、和宗総本山として全仏教的な立場から独立したという。私たちは石の鳥居として親しまれている西門から入った。この西門から松下幸之助が寄贈したという西大門まではズラリと屋台が並んでいる。大阪の寺院でいつも屋台が並んでいるのは、ここくらいであるようだ。親鸞の銅像が建っている見真堂を左手に西大門を潜り抜けると、阿弥陀如来を本尊とする北鐘堂があるが、三千円の回向料を払っての参拝者が列をなしていた。全仏教的な立場からして、何でもありは当然のことなのだが、何でもありによって形成されるカオスの部分に庶民は鋭く感応して、この寺に独特な活気を与えているように思える。時代を超えて石山本願寺に充満していたであろう民衆の熱気と恐らく同質のものなのではないかと私たちは考えたのである。
本願寺の挙兵を決断したのは光佐顕如、二十八歳。本願寺の若き第十一代宗主だ。去々年以来、本願寺に対して「難題」を吹っかけてくる信長に応じることはできないと挙兵に踏み切ったのである。次のような顕如の書状、まあ言ってみれば檄文が残っている。
「信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申すに付きて、随分扱いを成し、彼方に応じ候と雖も、その専なく、破却すべきの由、たしかに告げ来たり候。此の上は力及ばず候。然らば此の時、開山の一流退転なきよう各々身命を顧ず、忠節を抽んづべきこと有難く候。併せて馳走頼み入り候。もし無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候。穴賢々々」
これは九月六日に江州中郡の門徒に送られた書状だが、九月二日には濃州郡上の門徒にも、ほぼ同じ書状が送られている。もっと多くの顕如名義の書状が各地の門徒に送られたのであろうと推測することは、そう的外れなことではあるまい。しかし、「難題」の具体的な中身については現在に至るまで分かってはいない。信長と和睦を結び石山から退去することになる歴史の結果から遡って、信長が本願寺に石山退去を迫ったのだと考えるのは立証する文献がないだけに早計というものだろう。ともかく顕如からすれば「当時信長ほしいままの所業、かつ堪えがたき次第に候」だったのである。もっとも私からすれば本願寺が絶対に応じきれないという「難題」の中身など、どうでも良いのである。門徒衆にとって「生き仏」に他ならない顕如自身が信長による本願寺破却の危機を眼前にして蜂起を決意し、門徒衆に蜂起へのアンガージュメントを呼びかけたことで、親鸞が単独で切り拓いた「悪人正機」説に立脚した宗教=思想が予め胚胎していた「造悪」論の危険な可能性が天才オルガナイザーの蓮如による教線拡大期を経過して、「門跡」という地位=権威を獲得した顕如にいたって、妖しく開花しかかっていることにこそ関心があるというべきだろう。信長から「破却すべきの由、たしかに告げ来たり」という本願寺の危機に際して、顕如は門徒衆に「身命を顧ず」、本願寺の「戦争」に加担せよと命じているのである。もし、この要請を拒めば「長く門徒たるべからず」と。門徒から破門、追放すると言い切っているのである。
冒頭に掲げたのは『歎異抄』における親鸞と唯円の緊迫したやり取りの私流の「再現」だが、ここに同じく『歎異抄』の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の「悪人正機」説の源流をなす一節を重ねあわせてみる。千人を殺す悪を進んでなしたとしても、極楽往生の妨げにはならないのである。確かに親鸞は進んで悪をなすことを肯定はしていない。善人ですら往生できるのだから、悪人のほうが往生しやすいからといって悪を進んで実践するという考え方は「邪執」にしか過ぎないと退けている。親鸞によれば「薬あればとて、毒をこのむべからず」ということになる。次元が違うということなのだろうが、親鸞の宗教の核心部分は唯円に放たれた言葉にもあるように千人殺せるか、一人として殺せないかは善悪という道徳の問題ではなく、「業縁」の有無の問題にしか過ぎないのである。「業縁」とは、吉本隆明にならって言えば「必然の契機」に他ならないのである。「恣意的なきっかけ」ということだが、これさえあれば人は悪をなし、平気で人を殺すのである。そして、悪をなそうが、善をなそうが、そんなことに関係なく人は往生が可能なのである。信長軍と戦い、敵兵を数多殺すことで、本願寺を信長による破却から守ったとして、それで極楽往生が決まるということではないにせよ、本願寺を守る戦いに今ここで決起しないのであれば、「悪人正機」の宗教を切り拓き、これを伝えた親鸞に対する「報恩」(恩返し)のための「必然の契機」をみすみす逃してしまうことになるではないか。それでは門徒として失格である。「無沙汰の輩」は門徒から追放されて当然であろうし、そうした恩知らずには無限地獄が待ち受けているというわけである。これが顕如による些か屈折した動員の論理であったのではあるまいか。
異変は近江でも起きた。三万規模の一向一揆と合体した浅井・朝倉の連合軍が九月十六日南近江の坂本に進出、その後、宇佐山城を攻撃して、城将の織田信治(信長の弟)、森可成が討ち取られてしまう。信長は南北から挟撃されてしまったのである。九月二十三日、朝倉・浅井連合軍の挙兵を知った信長軍は野田・福島の包囲を解き、京を経て宇佐山城に在陣。しかし、朝倉・浅井連合軍は比叡山に逃げ込んでしまう。比叡山もまた、反信長の陣営に加わっていたのである。戦線は膠着状態に陥る。十月二十日、信長は朝倉義景に決戦を申し入れるも義景は、これを無視。信長軍は近江に釘付けとなる。こうして身動きの取れなくなった信長に更に衝撃が走る。顕如の檄に応じて願証寺を中心にして伊勢長島の一向一揆が蜂起したのである。長島は信長の領国のまさに咽喉元に位置する。四面楚歌という四文字は、この時の信長に最も相応しい言葉であろう。
名古屋から近鉄の普通電車に乗って三十分、私たちは長島に到着した。気温が三十三度は超えていたので駅前からタクシーに乗ることにした。三重県桑名市長島町。木曽川と長良川の河口に位置する海抜ゼロメートルの水郷地帯である。輪中の里として知られている。輪中とは河川の氾濫による水害から身を守るため堤防で村落を囲みながら確立していった自治を伴う円形状の村落共同体のこと。私たちが目指すは願証寺。輪中が形成されていったのは戦国時代からのことだから、輪中とは門徒衆の自治共同体であり、その中核を担ったのが願証寺であったに違いない。車窓からは田園風景が広がる。しかし、水稲の鮮やかな緑色に騙されてはなるまい。この田園風景は現在の長島を象徴するものであって、信長に刃を向けた一向一揆の時代は、必ずしも穏やかな田園風景が長島を象徴していたわけではあるまい。新田開発が盛んに行われるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。
戦国大名なみに十万人の兵力を擁していたと言われる願証寺は蓮如の第十二子にして、顕如の父にして第十代宗主証如の外祖父にあたる蓮淳が開いた寺である。蓮淳は石山本願寺の政治と戦争に深く係わってきた人物だけに本願寺の危機に長島願証寺が敏感に反応したのは当然のことであったろう。この長島の一向一揆は長島城を占拠、桑名の滝川一益と交戦し、滝川勢を撃退、更に木曽川を越えて尾張の小木江城を陥れてしまう。城主で信長の弟の信興は自刃して果てる。四面楚歌という言葉が相応しい窮地にあった信長は天皇、将軍による朝廷によって朝倉義景と和睦する。もちろん、この和睦は翌年には信長によって、あっさりと裏切られてしまうことになるのだが。
願証寺が視界に入った。田園風景の中に願証寺は異形の寺であった。どのように異形かと言えば、寺というよりも戦争に備えている城郭といった外観なのである。境内に「一向一揆殉教の碑」が建立されているのだが、これを死守しているような外観と言えば良いのだろうか。もっとも、信長による大虐殺を告発する石碑が建立されたのは近年のことであるし、現在の願証寺は寺縁により祐泉寺が名称変更したもの。もともとの願証寺跡は明治時代の河川改修工事によって長良川の川底に沈んでしまったのだという。それでも戦争を否認するのではなく、戦争に備えているとしか思えない外観は長島の一向一揆の信長に挑んだ戦争の激しさを今に伝えているとしか私には思えなかった。
信長の時代、本願寺の勢力が強く及び一向一揆の拠点となった地域では湿地帯ルネサンスとでも言うべき事態が起っていたのではないだろうか。石山本願寺にしてもそうだが、石山本願寺に呼応して決起した長島にしてもそうだし、近江の堅田にしてもそうだが、門徒衆の拠点となっているのは水上交通の「境地」であり、「節所」を抱えた湿地帯なのである。太田牛一の『信長公記』は長島について、こう述べている。
「抑、尾張国河内長島と申すは、隠れなき節所なり。濃州より流れ出づる川余多あり。岩手川・大滝川・今洲川・真木田川・市の瀬川・くんぜ川・山口川・飛騨川・木曽川・養老の滝、此の外、山々の谷水の流れ、末にて落ち合い、大河となって、長島の東北、西五里・三里の内、幾重ともなく引き廻し、南は海上漫々として、四方の節所申すは中々愚かなり。これに依って隣国の佞人凶徒など相集まり、住宅し、当寺を崇敬す」
このような記述からも分かるように長島は河川によって守られていると同時に河川によって水上交通の発達した地域であり、そのことによって市場経済を発展させていった「河内」の寺内町であったのである。当然のことながらアジールとして封建領主の介入を拒み続けたことであろう。伊勢を平定した信長という権力も例外なく拒絶していたわけである。寺内町の経済力を背景にして、軍事的にも信長の「政治」を拒絶できるほどに発展を遂げていたと考えるべきだろう。そうでなければ寺内特権を確立できまい。大坂ほどではないにせよ、長島もまた「売買利潤、富貴の湊」に他ならなかったはずである。その原動力となったのは、稲作を主とした農民ではなく「隣国」=外部からやってきた、あるいは外部と自在に繋がっていた非農業民であり、自由民に他ならなかった。信長からすれば平気で悪をなす海賊などの「佞人凶徒」であったのである。信長にとっては制海権を握る「海賊」に守られた職人や商人も、芸能民も、また山伏などの宗教者も、水路や街道を縦横に駆使し交通に携わる人々も「隣国」からやってきた「佞人凶徒」に他ならなかった。蓮淳よりも以前、蓮如の時代に本願寺に大きく貢献した琵琶湖の湖上権を湖賊として握る堅田の門徒衆にも長島と同様である。井上鋭夫の『一向一揆の研究』によれば、堅田門徒は山間より浦辺へおりてきた「人間の足に相当する仕事」をなしてきた「ワタリ」や「金掘り」の「タイシ」で構成されていたそうである。「ワタリ」や「タイシ」は中世の賎民である。そういう意味で日本の市場資本主義は湿地帯に「外部」から集まってきた非農業民の門徒によって牽引されてきたのである。そもそも親鸞の宗教は、それ以前の仏教が救済の対象から排除していた「海・河に綱をひき、釣をして、世をわたるものも、野山に猪を狩り、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商いをし、田畠をつくりすぐる人」(『歎異抄』)も等しく救済=解放の射程に入れたものであったではないか。いずれにせよ、殺生も盗みもその一つだろうが、日常の生活において恒常的に悪をなすことさえも厭わなかった長島の「佞人凶徒」=民衆にとって顕如の檄文は、些か屈折を孕んだ動員の論理としてではなく、「造悪」論を肯定する「必然の契機」として、心の深い部分に突き刺さったはずである。信長との戦争に積極的に加担することこそが極楽往生が保証される最大の近道であると民衆は短絡したのである。「進者往生極楽 退者無无獄」なのである。こうした短絡を無知と退けてはなるまい。無名の門徒衆=民衆にとっては「必然の契機」に救済の論理を見出したのである。
ところで信長もまた湿地帯ルネサンスを母胎にして軍事力、経済力を高めてきた戦国大名であることを忘れてはなるまい。信長の祖父信定は尾張において最大級の市場として繁栄していた津島の商人の経済力に着目して、この地を支配下に置くや彼らは被官させるとともに彼らから莫大な戦費を調達して、織田家の基礎をつくったのである。信長もまた湿地帯ルネサンスを背景にしているとしか思えないような得体の知れない連中を取り込むことで勢力を拡大していったのである。長島の一向一揆との戦争において前面に立った滝川一益も、そんな一人である。信長と本願寺の戦争は湿地帯における覇権争奪戦に他ならなかったのである。悪を積極的になした門徒衆は、そうした戦争の政治的意味など知らずとも往生を確信して死を恐れることなく散っていったのである。そして、安土城は信長の創造した湿地帯ルネサンスの傑作なのである。
元亀二年(1571)五月十二日、織田信長は岐阜から津島に着陣。十六日に願証寺を三方より兵を繰り出して攻撃するも戦況は進展しない。そこで信長は願証寺近辺に火を放ちながら退却を開始。ところが一揆勢に鉄砲と弓で追撃される。柴田勝家が負傷。氏家卜全が討死。天正二年(1574)七月十三日、信長は津島に着陣、翌十四日に五明に野陣。七月十五日、九鬼水軍を動員して、六百艘に及ぶ船団で一向一揆の掃討戦を開始。一揆勢は四散して長島・篠橋・大鳥居・屋長島・長江に篭城。各砦は信長軍に完全に包囲され、大鉄砲で攻撃する。八月三日に大鳥居、同四日に篠橋が陥落。九月に入ると遂に長島城を開けて降伏。
しかし、信長は許さなかった。信長は一揆勢の降伏に対して「根切り」=大量虐殺で応じた。男も女も撫切にせよ!長島から船に乗って退去する一揆勢に鉄砲を並べて一斉射撃を行う。銃撃を逃れた者に対しても際限なく川に切り捨てていった。また中江・屋長島に篭城していた男女二万人に対しては、逃げられないように幾重にも柵をめぐらしたうえで四方より火をつけて焼き殺した。「業縁」が働けば人は百人千人どころか、二万人三万人を殺してしまうことができるのである。長島の大虐殺を知った顕如に『歎異抄』の親鸞の言葉をどう響いたのだろうか。阿弥陀の本願による救済の論理は信長の「悪」に届くのかどうかである。
私たちは願証寺にタクシーを待機させておいた。長島城から移築されたという大手門があるという蓮生寺、長島城跡も見学しておこうと考えていたからだ。長島の住民が誇り高いのは、昔から日本刀を持っている農家が多いからなんです。蓮生寺の大手門は移築に際して規模を縮小していた。これでは、かつての長島城をしのべまい。長島城跡は長島中部小学校となっていた。遺構も何もなく、ただ看板がかつて長島城がここにあったことを伝えるのみであった。道中、自然とタクシーの運転手とも話が弾んだのだが、この運転手の言葉使いはやけに丁寧だし、礼儀正しいのである。聞けば、この長島の人々は非常に誇りたかく、自分は外からやって来たのだが、みなさんから大変親切にされて、いろいろと学ぶことができた結果だという。運転手が提案した。
「お客さんたちは色々と長島の歴史をしらべているようですけれど、「輪中の郷」をご覧になられませんか」
「輪中の郷」の入るとすぐに長島の一向一揆について解説しているパネルがあった。完全武装の信長軍と鍬や鍬を手にした貧弱な一揆勢との攻防が描かれている。このパネルを見ていると事務所から、人が出てきて、「お時間はありますか」と言う。私たちは頷いた。かくして、この館員氏の解説が始まった。
こうした絵は江戸時代に描かれたものだが、必ずしも史実を性格には伝えていないのではないのだろうか。信長軍が完全武装して描かれているけれど、当時の願証寺に結集した門徒衆の経済力からすれば、信長軍に充分対抗できる軍備を備えていたはずである。少なくとも鍬を武器にして戦ったわけでは決してないのである。また、長島を完全に殲滅してしまったのであれば、信長や滝川一益は、その経済力や軍事力を活用できなくなってしまう。比叡山の焼き討ちにしても、坂本に火を放ったことは確かだが、根本中堂までは焼かなかった可能性が高いと言われているし、長島も同様のことがあったのではないだろうか。比叡山の焼き討ちにしても、長島の一向一揆殲滅にしても、信長の戦争の徹底性と宗教勢力が領民を守る領主として不適格であることを宣伝するためのものであったと考えられるはず。あまりにも多くの戦争を抱えていていた信長にとって、自らの損害を抑制し、民衆の支持を獲得するためにも、こうした「政治」的アピールは必要だったと思われる。
何しろ、突然のことだったので、メモを取らずに聞いていたため、正確な再現はできないのだが、私の記憶に従って再構成すると、話の主旨は、こういうことであった。「信長による長島の一向一揆大虐殺の幻」について熱く語ってくれたのである。私たちも実は、その可能性はあると思っていた。長島の一揆勢の主力部隊は鍬などの農機具を武器とする農民ではあるまい。『信長公記』はこの一揆勢について「本願寺念仏修行の道理をば本とせず、学問無知の故栄花を誇り、俗儀を構え」ていると描写しているが、こういう「佞人凶徒」の集団が完全武装することなく、ほぼ素手で信長軍に立ち向かっていったと考えるほうが無理のある見方というものである。また、信長の大虐殺についてであるが、周知のように石山本願寺との十年以上に及ぶ戦争は本願寺の石山退去を条件にして、本願寺の潜在的な軍事力を温存したまま和睦を結び終結させている。そうすることで大坂の経済力を無傷のまま手にいれようとしたものと推測できるだろう。長島に関しても完膚なきまで破壊してしまっては、それこそ三度に及んだ戦争から何も嘗中に納められなくなってしまう。そもそも信長は戦争の革新者ではなかったのか。秋山駿が『信長』のなかで述べているように信長は将をどこまでも守り、将を落ち延びさせるために一般の兵士が死んでいくという源平合戦型の戦争にピリオドを打ち、将に切腹させることで一般の兵隊を解放する戦争へ革新していったのである。確かに一揆の場合は解放しても再び蜂起する可能性もある。だから「根切り」に及んだ。もちろん、通常の戦争に比べれば長島の一向一揆との戦争において虐殺は免れなかったことであろう。しかし、その規模はこれまで思い込んでいたよりは小さかったのではないか。信長は敗北した門徒衆に対して宗教のセーフティネットを用意していた?
「輪中の郷」からの帰路、タクシーの運転手が語った言葉が今も耳に響いている。
「長島は伊勢湾台風で全町が水没してしまうという大惨事を経験しています。死者が381
人も出た。しかし、こうも考えられるかもしれません。堤防が決壊して全町が沈んでしまうという大惨事で381人しか死ななかったのは、人間の生命力の凄さを物語っているのではないでしょうか。長島の一向一揆についても同じことが言えるのかもしれませんよ」
天正七年(1579)五月二十七日、「安土宗論」が安土城下の浄厳院で信長の面前で行われる。事の発端となったのは安土で法談していた浄土宗の僧に法華宗の信者二名が不審をかけたところ、僧が若輩者の信者二人ではなく法華宗の僧と宗論を行って返答しよう明言したことによる。そして、それぞれ四名ずつの僧侶が浄厳院に集まって宗論を戦わせることになったのだ。その結果、浄土宗が勝利して、日蓮宗が敗北する。その結果、法華宗の信者二名は処刑され、法華宗は信長に詫証文を書かされることになる。
「安土宗論」は公平な土俵のうえでなされた宗論とは言い難い。舞台となった浄厳院からして、浄土宗の寺院に他ならない。しかも、浄土宗保護を打ち出した信長が開基させた寺なのである。しかも信長は近江と伊賀の浄土宗寺院約八百を浄厳院の末寺にしてしまっている。「安土宗論」は最初から浄土宗側が勝つべく信長によって仕組まれた宗論だったのである。判定に携わった一人に宗論の記録を残した因果居士がいるが、因果居士は浄土宗側に宗論が有利に進むよう予め信長に言い含められていたのである。信長の意図は二つあったと思われる。一つは法華宗を懲らしめるためである。信長は法華宗を「徒者」と捉えており、決して良い感情を法華宗に抱いていなかったのである。何らかの形で懲らしめる機会を窺がっていたのである。もう一つは浄土宗を広く、そして強くアピールするためである。信長は何故、そこまで浄土宗を保護しようと考えたのだろうか。信長が浄土宗の熱心な信者であったわけではない。恐らく、これは一向一揆に対する政策として構想されたはずである。信長が浄土宗との距離を狭めて行ったのは、石山合戦の最中においてである。天正元年(1573)三月二十五日に信長は浄土宗総本山の知恩院に陣を取ったのを契機にして、六月には戦勝祈願の謝状を出しているし、九月には諸堂修復料を寄進、また十月には百貫文の土地を寄進している。
断るまでもないが、浄土宗は法然を開祖とするが、親鸞は法然の弟子の一人であった。親鸞はこう言い切っている。
「善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候か』(『歎異抄』)
親鸞にとって念仏に帰依するということは法然に帰依することに他ならなかったのである。浄土宗の信仰を受け入れることは、門徒衆にとって決してハードルの高いことではなかったはずである。信長は、この点に目を付け、浄土宗に接近し、浄土宗保護の政策を行ったと推測できないことはない。浄土宗に帰依せよ。然らば許す。そんな局面が長島の一向一揆との戦争においてもあったのではあるまいか。私は信長が善人だったから大虐殺を行わなかったと言いたいのではない。信長の政治的才能をみくびってはならないはずである。