YouTubeの「TrueView」が広告のあり方を変えるのか?広告を押し付けないというマーケティング・イデオロギーの誕生

インターネットという新大陸を母胎にソーシャル・メディアが生まれたことで、広告のあり方が大きく変わりつつある。1950年代から活躍していた広告マンに聞くと、昔は企業に飛び込み営業で訪れると受付に押し売り、獅子舞、広告代理店はお断りのような張り紙があったことも珍しくなかったそうだ。それでも何とか喰らい込んで出稿を獲得するのが腕の見せ所であったそうな。しかし、民放テレビが開局し、日本が高度成長の道を突き進むに従って、日本の広告費は上昇し、広告代理店の社会的な地位も向上していった。やがてTVコマーシャル自体が「流行」を担い、時代の最先端を疾走する「文化」にまで高まる。そんな時代の気分を例えば村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』は活写していた。私なんぞも何を勘違いしてしまったのか、コマーシャルの制作会社に入社し、PM(制作進行という名の肉体労働)をつとめていたこともあった。だって『エロス+虐殺』の吉田喜重が缶コーヒーのコマーシャルを撮るという時代だったんだぜ!確かに制作会社の給料は安かったが、「借受金」という形で制作費の一部を受け取ることができたので、映画の現場ほど貧しさを覚悟しなくて済んだ。何しろ企業のマスマーケティングに係わる予算はとんでもない大金が動き、広告クリエーティブの現場は「自由」を謳歌できる空気が流れていた。何しろ広告代理店はコマーシャルの制作はサービスで行っていたほどである。そのくらいマスマーケティングを展開するに際して駆使するマスメディアの手数料(=マージン)収入は広告代理店にとって美味しいものだった。マスマーケティングとは「ASCII.jpデジタル用語辞典」(http://yougo.ascii.jp/caltar/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8)によれば次のように定義されている。

大量生産、大量消費時代を象徴するマーケティング手法。すべての消費者を対象として大量生産・大量流通・大量プロモーションを単一製品について行なうこと。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのマス媒体を活用し、市場全体、一般大衆を対象に広告、流通を展開すること。これまで市場成長期には、最小のコストと価格を達成することで最大規模の市場を開発できる手法として有効とされてきた。しかし、インターネットの普及など、消費者の価値観が多様化、複雑化している現在では、マスマーケティングの効果は限定的との見方も強まりつつある。

新聞の1面総てを買い切る(15段広告)。あらかじめ雑誌の表4や表2見開きを確保しておく。テレビのゴールデンタイムに集中的にスポット広告を投下する。それは広告による「戦略爆撃」であった。購買者でも何でもない小学生が化粧品のコマーシャルソングを口ずさんだ。広告は誰彼となく「押し付けられた」。「押し付けられる」大衆も喜んで広告を受け入れた。テレ朝の『日曜洋画劇場』に流れる東條忠義のコマーシャルは、はっきり言う、その日放映される本編の凡庸な映画よりも、はるかに美しかった。
雲行きが変わり始めたのはバブル経済が崩壊してからだ。企業から宣伝部(や広告部)という名称が消えていった。「市場」に近い場所に宣伝費は移動していった。広告は投資であり、コストではないという言説が業界内に流布される。インターネットという新大陸メディアも生まれた。ターゲッティングという言葉が囁かれ始める。阪神大震災オウム事件が起きた1995年をピークにマスメディアの縮小が始まる。金融業界に象徴されるようにグローバリズムの荒波は業界再編をもたらした。ナショナルクライアントの数が減り始めた。しかし、それでもマスメディアに危機感はなかったのではないか。その間、インターネットという新大陸は着実に実力をつけていった。広告を押し付けられることに嫌悪感を抱く人々が増え始めていた。やがてリーマンショックが日本を直撃し、その傷も癒えないままに2011年3月11日を迎える。1945年8月15日に匹敵する時代のターニングポイントとなる日だ。東日本大震災福島第一原発の事故という人災もともなった。大量生産、大量消費を支えていた原発安全神話が崩れる。原発を押し付けられていたように広告も押し付けられていたのではないか。「インターネットの普及など、消費者の価値観が多様化、複雑化している現在では、マスマーケティングの効果は限定的との見方も強まりつつ」あるどころか単純なマスマーケティングはもはや通用しまい。テレビスポットの大量投下に生活者は簡単には釣られなくなった。広告代理店も、マスメディアも危機を迎える。そもそも広告代理店も、マスメディアもプレイヤーが多すぎるのだ。さすがにマスメディアが絶滅するとは考えないけれど、日本の人口減少(少子高齢化社会)を前提にすれば今後マーケットから退場を迫られるプレイヤーは当然出て来るだろう。一方、着実にソーシャルメディアは影響力を強めつつある。ツイッターYouTubeフェイスブックの登場は誰もがメディアを持てる時代の到来を告げた。しかし、そうしたプラッテフォームを支えるのは基本的に広告収入である。しかも、ここでは広告のあり方がマスメディアとは全く異なる。「ステマ」騒ぎを経て、押し付けない広告が新大陸では主流になるかもしれないと私は考えている。
例えばYouTubeの「True View」という手法。「True View」には「インストリーム広告」と「インスレート広告」がある。「インストリーム広告」は最初に5秒間コマーシャルが流れるが、これををスキップして見たい動画を再生することができる。ユーザーがコマーシャルを見たいと思えばコマーシャルを見た後で見たい動画の再生となる。「インスレート広告」はコマーシャルのメニューが出て来て、そこから見たいコマーシャルを一つ選んで見るか、コマーシャルを見ずに動画を再生するかを選ぶ。いずれもユーザーに広告をマストとはしないわけだ。こうした広告をパスすることもユーザーの選択肢として認め、広告を押し付けないというマーケティングイデオロギーはマスメディアを舞台にし、時間やスペースを売るという不動産業型の広告ビジネスからすると驚天動地の発想であろう。しかし、広告を押し付けないことのメリットも広告主にはある。日本では主に「インストリーム広告」が提供されているというから、これを例にとって説明すると、コスト面で言えば「インストリーム広告」の場合、媒体広告費が発生するのは、ユーザーがコマーシャルを見ることを主体的に選択し、コマーシャルを最後まで見たケースに限られることもメリットのひとつ。しかし、何よりも広告主にとって大きなメリットはコマーシャルの無駄撃ちが解消されることにある。というのは、YouTubeはコマーシャルを表示するにあたって、ユーザーの再生履歴や年齢、性別、エリアといった属性をもとに、ユーザーに関連性の高いコマーシャルを提供する。そのため広告を最後まで見るユーザーは15〜45%に及ぶらしい。更に動画の投稿者にとってもメリットはある。投稿者にも「True View」で得た利益は当然還元されることになる。
ある意味、YouTubeはソーシャル・メディアが究極のターゲットメディアになり得る可能性を切り開こうとしているのだ。ただし昨日のエントリで言及したことでもあるが、アメリカが中東での戦争を通じて精度を高めていったピンポイント爆撃との近似性をここでも指摘しておいて良いだろう。