歴史ルポ④ 池波正太郎の歴史小説『応仁の乱』を歩く 河原者・善阿弥の痕跡を探して

江戸を舞台にした『鬼平犯科帳』も『剣客商売』もまだ書かれていない。小説家としての実力は認められつつあった。直木賞候補の常連であった。池波正太郎は昭和三十五年九月、『錯乱』によって直木賞を受賞するが、その二年前、『大衆文芸』に『応仁の乱』を二号にわたって発表する。この『応仁の乱』も直木賞の候補にノミネートされるが、受賞は逃してしまう。もっとも、応仁の乱を小説のテーマに選ぶことは作家として充分に野心的であったと言えるだろう。
応仁の乱は京都を灰燼に帰すほどの「暴力」が発動された。何しろ、京都にあって、応仁の乱の戦火を免れた建物は、三十三間堂六波羅蜜寺千本釈迦堂など数えるほどしかない。十年にも及ぶ大乱であるにもかかわらず、応仁の乱司馬遼太郎が指摘しているように「革命意識のない革命」に他ならなかったため、そこに激烈なるイデオロギーを担って歴史の表舞台を疾走する小説の主人公に相応しい「英雄」は見出せないのである。もちろん、南北朝から応仁の乱へと至る時代は「民衆」が怒涛のようにして歴史の表舞台に現れた時代であったから「英雄」は必要なかったといって良いのかもしれない。
いずれにせよ、争乱の発端からして複雑だし、しかもその終焉が曖昧であり、こうなると読者にカタルシスをもたらす「物語」を紡ぎだすには最悪の条件を抱え込むことになる。多くの歴史小説家は応仁の乱をテーマとすることを避けてきた。だが、こうした最悪の条件は、しばしば「新進」小説家の創造力を刺激する。池波が主人公に選んだのは、足利八代将軍にして、「東山殿」と呼ばれるようになる足利義政。形式的には室町幕府にあって最高権力者の位置にありながら、戦争を未然に防ぐことも、戦争を加速させることも、戦争を収束させることもできず、情況に流され傍観するしかなかった「将軍」。『応仁の乱』は、そんな足利義政の「内面」に深く切り込んだ原稿用紙三百枚以上に及ぶ歴史小説だ。
池波正太郎足利義政と「庭師」善阿弥との「出会い」から書き起こしている。それは嘉吉元年(一四四一)のこと。庭の池に落ちた幼少の義政を善阿弥が救う。義成と名乗っていた六歳になったばかりの義政を叱る善阿弥。善阿弥は血相を変えて集まってきた侍女たちも一喝する。しかし、侍女たちは黙っていなかった。善阿弥の一喝に反省するどころか、逆に大いに怒って、善阿弥を罵る。すると、どうであろう、「善阿弥はうなだれ、黙念と背を向け」、逃げるようにして「築山の蔭へ消えて行った」のだ。侍女たちは善阿弥の「卑しい生い立ち」を言い立てたに違いない。池波正太郎は記す。
「善阿弥は河原者であった」
河原者は中世の賎民である。
善阿弥の孫にして、やはり作庭の名手として活躍することになる又四郎が延徳元年(1489)六月五日に臨済僧の景徐周麟に次のように語ったと『鹿苑日録』に記している。
「それがし一心に屠家に生れしを悲しむ、故に物の命は誓うて之を断たず、又財宝は心して之を貪らず」
又四郎は「屠家」=河原者に生まれたことを嘆く。世間から卑賤視されていたから「悲しむ」のである。しかし、それがゆえに又四郎は「物の命」を大切にし、「財宝」に心奪われないことを生活信条にしているというのだ。だが、横井清は『東山文化』のなかで「一歩視点を変えてこの言葉の意味を考えてみると」、こうだ。
「『屠家』の人びとの多くが「物の命」を断たざるをえず、また「財宝」を貪らざるをえない境涯に身を置いていた“現実„を私たちにうかがわしめるのだ」
東京駅で新幹線「のぞみ」の始発に飛び乗り、冬の京都に降り立った私たちは、車中で飲んだ酒精の温もりを体内に残して―懐炉がわりにして!―まず銀閣寺を目指すことにした。足利義政を語るには、銀閣寺を欠かすことはできまい。不思議なことに応仁の乱によって焦土となった京都だが、東山文化が花開くのも、戦争期を含めた、その前後なのである。応仁の乱後に造営に着手された銀閣寺は東山文化の象徴であり、銀閣寺をつくった足利義政は政治的には無力であったが、東山文化の最大の荷担者であった。ドナルド・キーンは『足利義政』のなかで
「義政が人々の記憶に残ることになったのは、美の規範を打ち出したことによってだった。それは後世の日本人に伝えられ、日本の文化に不可欠なものとなった。今日、人々が「日本人のこころ」と言う時、それは義政によって最初に育まれた日本人の美意識の数々を指しているように思われる」
とさえ評価している。
しかし、あらかじめ断っておかなければならないが、池波正太郎の『応仁の乱』は銀閣寺に係わる表現を欠如した小説なのである。私たちは、そのことに引っかかった。銀閣寺に係わる表現を欠如しているからといって、小説のモチーフとして銀閣寺を欠如していることにならないのではないか。むしろ、『応仁の乱』は『銀閣寺』と名づけられてしかるべき小説ではなかったのか。
銀閣寺の参詣は午前九時からだが、この日、私たちが銀閣寺に到着したのは、まさに午前九時。しかも大寒の時期に重なったこともあって、観光客もまばらである。私たちは銀閣寺をじっくり鑑賞することができた。銀閣寺ばかりではあるまい。時間をかけて京都の神社仏閣を堪能したいのなら、この時期の京都をお薦めしたい。ディズニーランドと化した名刹に辟易しなくて済むのである。総門を潜り、左右の視界を遮る生垣のある通路を進み、中門の手前で拝観料を払って庭園に入ると、いよいよいぶし銀の「銀閣」と対面することになる。加えて円錐形に砂を盛った向月台、一面に砂を敷きつめたが目に飛び込んでくる。ただし、向月台、銀沙灘がつくられたのは江戸時代になってからである。私たちは東求堂をじっくり観察した後、上下二段に大別することのできる庭園をゆっくりと歩き始めた。上段は枯山水庭園、下段は池泉回遊式庭園となっているわけだが、ここは眺める庭園ではなく、歩く庭園として作庭されたことが良く分かる。池の回りを歩けば分かることだが石組が実に様々な表情を見せてくれる。中村直勝によれば、銀閣寺の庭園は「仏様、如来様、菩薩様の為の物でなく、人間のためのものである」ということになる。
銀閣寺はもともと足利義政応仁の乱後に自らの隠遁の場として構想された。即ち東山山荘として造営がはじまり、少なくとも十の独立した建物からなる。具体的に言えば、常御所、会所、禅室、山上亭、持仏堂、観音殿、亭橋、泉殿、竹亭、舟舎であり、義政が日常生活を営んでいたのが常御所、来客を応対していたのが会所ということになる。ただ、常御所、会所ともに現在は残っていない。十三代将軍足利義輝三好長慶銀閣寺近辺で戦い、その戦火に巻き込まれて大半の建物が焼失してしまったのである。そうしたなか奇跡的に残ったのが今も見ることの出来る観音殿(=銀閣)と持仏堂(=東求堂)である。東山山荘は足利義政の死後、臨済宗相国寺派の禅寺として奉献され慈照寺となったのである。現在のように銀閣寺と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのことである。
義政の祖父にあたる足利義満が建てた金閣寺銀閣寺を見比べてみよう。南北朝を統一した義満の金閣寺が「晴向」であるのに対して、銀閣寺は「奥向」であるとは、良く指摘されることだが、金閣寺こと鹿苑寺にあっては、金箔の施された舎利殿=「金閣」が美と権力の頂点として君臨し、官能的にして贅沢な輝きを放っている。その絶対性に庭園が奉仕している。世界は「金閣」に従属しているのだ。一方、銀閣寺がたたえているのは、どこまでも内向的な、そして果敢ない美しさである。しかも観音殿=「銀閣」だけが突出することはなく、「世界」を構成する「部分」にしか過ぎない。遂に銀箔を施すことのなかった「銀閣」は庭園や「自然」と調和することで美しいのだ。「晴向」御殿の一切ない、足利義政の私的空間として構想された東山山荘においては「銀閣」と庭園が「平等」なのである。「美」のためであれば、「銀閣」はすべてを許容してしまう。それは足利義政の芸術的な立場であると言ってよいだろう。銀閣寺の庭園は西芳寺(苔寺)を模して作庭されたと言われている。上下二段構えになっているのも、西芳寺を倣ってのことだろう。確かに義政は西芳寺の庭園をこよなく愛し何度も足を運んでいる。
私たちも西芳寺へと向かうことにした。苔寺という通称を持つだけあって、西芳寺を訪れる誰もが苔の美しさに目を奪われることだろう。五十種類以上に及ぶ苔が起伏に富んだ庭園を覆っている。事前に往復葉書で拝観を申し込んでおかなければならないこともあって、存分に苔むす庭園を味わえる。そうして時間を重ねてゆくと、ビロードのような輝きさえ見せる苔の絨毯は、吉永義信がしてきしているように、この庭園の美しさにとって、あくまでも二義的存在に過ぎないことが次第に分かってくる。吉永は『日本の庭園』のなかで書いているように「やはり庭園の地割と石組のよさが、この庭園を名庭園として価値づけ」ているのだ。苔が美しいのは自然的な条件を最大限に活用した複雑な地割によってであろうし、何よりも圧巻なのは、一見無造作に配置されているかのように見える枯山水の巨石を駆使しての石組の圧倒的な力強さであり、ある種の緊張感を鑑賞者たる私たちに強いる。
文正元年(1466)八月十日、池波正太郎の小説『応仁の乱』によれば、足利義政は善阿弥を連れて西芳寺にいる。雷鳴が近寄り、伽藍が「鬱蒼たる樹林の下に、深く、暗く、沈み込んでいった」。次のような義政の独白には「荒涼としたひびきがあり、それが谺のように善阿弥の胸底に」しみとおる。
やがて「黒い空に溶けた山肌を引き裂いて雷鳴がとどろき、沛然と雨が叩いてきた」。不吉な時代の到来を予言するかのようなシチュエーションのなか義政に「今年七十四歳になる」善阿弥が「乾いた、重苦しい声」で問う。
「公方様┉┉」「うむ?」「この庭の草や木も、われら人間と同じく戦乱の炎に焼かれ、死に果てるのでござりましょうか」
「善阿弥。お前は合戦が怖いか?」「恐ろしゅうござりまする」「死ぬのがか?それとも、お前が精魂をこめて造った、京や奈良や寺の館にある庭が焼け果てるのを恐れているのか?」「私めの造りましたものが未来永劫、焼け果てぬとならば、死ぬことは恐ろしゅうござりませぬ」
「善阿弥!」「はい」「わしも┉┉わしもな、いざとなれば、お前たち庭ものの中へ入り、石を運び、草を刈っても、生きぬいて見せるつもりだ」
西芳寺奈良時代行基によって創建されたと伝えられているが、暦応二年(1339)に夢窓疎石によって復興される。庭園も夢窓疎石の作庭によるものだが、言うまでもないことかもしれないが、疎石自身が石組、立石の肉体労働に従事したわけではない。そうした肉体労働に従事させられたのが河原者に他ならなかった。
河原者は無税の河原に住み、平安時代末の源左大弁経頼の日記『左経記』に河原者が牛の腹綿から牛黄という貴重な薬を取り出したという記述があるように斃牛馬を解体し、皮革を扱っていたことが分かる。死という「禁忌」に伴うケガレを清める役割を担っていたわけだが、こうした河原者は作庭や井戸掘りにかかわる土木作業などにも動員されることになる。作庭にともなう土木作業の重労働もまた「禁忌」に向きあわなければならないマジカルな労働だったのである。平安末期には作庭のマニュアル書とも言うべき『作庭記』が成立しているが、この書は四神相応観や神仙思想が重視されていて、ベースには陰陽五行説が置かれている。むろん、様々な「禁忌」についても言及している。
例えば、石にかかわる「禁忌」には、もともと立っていた石を臥せたり、逆にもともと臥せていた石を立てたりすると、その石は霊石となって祟る。また高さが四、五尺ある石を東北に立てると、その石は霊石となり悪魔が入ってくる足がかりとなってしまうので、その家に人が永く住み着くことができないといった具合に様々な「禁忌」を列挙している。恐らくは石立僧のもとで、もっぱら「禁忌」にかかわる作庭の肉体労働に従事していた河原者だが、だからこそ芳賀幸四郎が『東山文化の研究』のなかで言うように「その豊富な見聞と経験の蓄積の上に、やがてその中から作庭の名人が生まれることは自然のことだった」のである。池波正太郎は小説のなかで善阿弥に次のように語らせている。
「私どもは、何とかして、たとえ蜘蛛の糸ほどの細い道でもよい、それを見つけ出して青い空の下へ浮かび上ろうともがきぬいていたのでござります。いえ、今もって、河原者のほとんどは、そうおもっておりましょう。そう念願しつつ、一日を食べることに全身の力をつかいつくしてしまう明け暮れでは、到底、その細い道に足も手も指もかからぬと申してよろしいのでござりまする。なれど私ども庭師となった者は、さて、どういうめぐり合せなのでござりましょうか……石を運び、土をこね、樹を植える労働に従いながら、数多くの宏大な寺院や館の庭を見ているうちに……左様でござります、何時の間にか、庭仕事の人夫をすることが、何よりも楽しみになってまいったのでござります」
やがて山水河原者と呼ばれるようになる彼らは旧来の「禁忌」を転覆させて乗り超える創造の論理すら獲得することになる。また、同書は善阿弥の孫にあたり、祖父同様に庭師として高い評価を得た又四郎の「禁忌」乗り超えのエピソードを紹介している。これによれば「方庭または方島に一樹を植えれば困の字になるといってこれを忌む風」があるなか、又四郎は「ある女人の宅の方庭にこの禁忌を承知の上でわざと桜樹一株」を敢えて植えた。一人の僧侶が詰ったが、「又四郎はあべこべに陰陽和合の詭弁を弄して」、その僧を黙らせてしまったのである。花は陽であり、女性は陰であり、陰陽相応しているから「禁忌」には触れないという論理によって。
横井清の『東山文化』では、この『鹿苑日録』に登場するエピソードは又四郎のものではなく、名もなき河原者のものであるとしているが、「築庭上の伝統的鉄則を故意にふみにじって少しも意に介さないその偶像破壊的な態度と、迷信的な禁忌にこだわらない自由人的な合理的な物の考え方こそ注目されるべき」(芳賀幸四郎『東山文化の研究』)ことに間違いはあるまい。恐らく善阿弥は、その「自由な表現」において足利義政の寵愛を一身に受けたのであろう。しかし、現在、善阿弥によって作庭された庭園は一つも残っていない。私たちは『蔭凉軒日録』において「泉石の妙手」善阿弥を賞賛する言葉を噛みしめるだけである。
「前夕に睡隠に往き、小岳を築くを見る。善阿の築く所、その遠近峯〓、尤も奇絶たるなり。これに対するに飽かず。忽然として帰路を忘るなり」
腹が減ってきた。日も暮れようとしていた。私たちが向かったのは松鮨。池波正太郎がこの鮨を食べることだけを目的にして京都に通ったという伝説の鮨屋である。池波が通っていた頃は三条木屋町にあったが、現在は三条木屋町の現代的な喧騒を避けるかのように蛸薬師通にひっそりと佇んでいる。六人程度しか座れないカウンターだけの鮨店だが、店の内部は殆んど当時のままであるという。ここの鮨の特徴は「京の江戸前」ということである。このことは何を意味するかと言えば、池波が『散歩のとき何か食べたくなって』で述べているように「東京ふうでもなく、大阪ふうでもなく、京都ふうでもない独自の鮨」であるということだ。食べ方も指で掴むのではなく、桶に入れられる鮨を箸でつまみ、横に寝かせて醤油をつけて口に運ぶ。決して、これは強制ではないが、そのようにして食べることを前提とした美しさをこの鮨は持っている。主人に勧められるままに蛸、サヨリ、平目、鯖など、旬の味を私たちは次々に堪能した。食後には、寺町通りのサンボアに立ち寄った。これまた池波が贔屓にしたバーである。今回の旅は池波正太郎を味わうことも目的にしているのだ。躊躇なくドライ・マーティニを注文した。強い酒精にくつろぎながら、私はふと思った。もしかすると松鮨の鮨と善阿弥の庭園は似ているのではないかと。松鮨の鮨は江戸前の常識を乗り越えたところで私たちを魅了するが、善阿弥の庭園は石立僧の常識を乗り越えたところで足利義政を魅了した。ともに前衛的なのである。前衛とは伝統を母胎としながら、伝統を食い破ることで生まれるのだ。
二杯目は何にするか。シングルモルトラフロイグをロックで頼むことにした。バーは男にとって、考える場所のひとつである。良いバーの条件とは、ひとりであることの自由を保証してくれることだ。アルコールの勢いに乗って足利義政に思いを馳せる。
確かに足利義政は政治的に無力であったろう。そのことをもってして彼が政治的に無能であったと断定してしまって良いのだろうか。これは室町幕府の制度的な特徴と言うべきなのだろうが、将軍は自らが自由に動員できる直轄の「武力」を持たなかった。独裁とも言える体制を確立しながら、義政の父である第六代将軍足利義教が嘉吉の変で、赤松満祐によって、いとも簡単に謀殺されてしまうのは、将軍が「暴力」を独占も寡占もしていなかったからに他ならない。室町幕府は、有力守護大名の連合体に他ならず、微妙なパワーバランスの上に将軍が乗っているに過ぎなかったのである。守護大名との間の権力関係に綻びが生じたならば、制度的には将軍が最高権力者ではあっても、名目的な地位に形骸化してしまう危険性を孕んでいたのである。そうした危機が義教謀殺によって現実的なものになる。しかし、守護大名もまた室町幕府の権力構造を反映していたと考えるべきだろう。幕府管領職をつとめるような畠山家や斯波家に内紛が生じたのも、守護大名からして、微妙な権力関係を内包していたためだろう。このような歴史的文脈において、「下克上」の撃鉄も引かれることになる。足利義政は将軍職が政治的に無力となりつつあることを自覚しながら、それでも決して政治を捨てることはなかったのだ。義政に政治的な無能者のレッテルを貼るのは当たらないということだ。もし、義政が政治を捨てていたならば、源実朝の運命を辿っていたのではないだろうか。父義教同様に謀殺されていたことだろう。池波正太郎もこれに近い認識を持っていたはずである。池波は小説のなかで義政に次のように語らせている。
「そのときはすでに、わしは将軍職という網の目に絡められ、閉じこめられた小魚のようなものだった。あれから十余年になるが、今日の騒乱の芽は、そのときから勢いにまかせて伸び、育ち、必死につみとろうとしたわしの手を何度もはらいのけ、そのたびに波紋をひろげていったのだ」
そして、こうも書く。
伊勢貞親を憎むことにおいては共同の利害をもつ細川と山名の反目を、このさい、貞親の排撃運動によって協力させ、そこに生まれ得るかも知れない両者の融和に┉┉義政は、儚い期待を托したのであった」
足利義政は亨徳二年(一四五三)に改名して義政となった。それ以前は義成を名乗っていた。「戈」という武器を隠し持った名前を捨て、「政道」(=政治)の「政」に変えた。
翌朝、イノダコーヒー本店で「男が食べるサンドウィッチ」(池波正太郎)で腹ごしらえをがっちりと済ませた私たちは相国寺を訪ねることにした。相国寺創立者足利義満である。南北朝を統一し、天下統一を果たした義満が京都のど真ん中に建てた寺である。「花の御所」の東側に隣接し、内裏の目と鼻の先に位置した相国寺は、その名称からして政治と親和的である。相国は中国においては宰相を意味する。相国寺は義政の時代には敷地はもっと広大で建物はもっと巨大であったというが、今でも敷地は充分広く、建物はどこか偉そうであり、金閣寺銀閣寺も相国寺の山外塔頭である。応仁の乱は周知のように細川勝元率いる東軍と山名持豊率いる西軍の激突だが、相国寺は東軍の陣地となった。応仁元年、西軍によって相国寺は焼き払われてしまう。応仁の乱足利義政の目と鼻の先で戦われた市街戦だったのである。東軍の兵力十六万千五百騎、西軍の兵力十一万六千騎。だが、義政は動じない。戦火による凄まじい荒廃を尻目に酒宴を催し、文化に埋没する。なぜ、そうすることができたのか。それが義政の政治だったからだ。
義政にとって政治は文化であるより他なかった。幕府を生き延びさせるためには、戦争による政治と一線を画し、自らを文化によって根拠づけられた「権威」として確立する必要があったのである。それまで、この国の文化は天皇が牽引してきたと言って良いだろう。あわよくば天皇に取って代わろうとした足利義満金閣寺にも王朝文化の痕跡が認められる。実は、義満でさえ天皇から自立できなかったということだ。天皇が政治的危機に幾度となく瀕しながらも生き延びてきたのは、三島由紀夫に倣えば天皇制とは文化概念に他ならなかったからである。足利義政天皇とは別の次元を基盤にして―そのことが民衆を東山文化に巻き込むことになる―権力を正統づける権威の源泉となる文化を発見し、文化を創造し、これに徹底的に埋没する。そこに妥協はない。そうすることによってしか軍事力を背景にする権力から自立し、それと拮抗した関係を紡ぎだすことはできなかったのである。このような義政の政治は天皇との間に緊張関係を孕むことになる。天皇からすれば足利義満よりも足利政義の方が遥かに危険な存在であったと言うべきであろう。寛政二年(一六六一)、大飢饉に際して後花園天皇が善阿弥を起用しての庭園づくりに熱中している義政に一篇の詩を送って、善政の政治を批判しているが、こうした逸話の背景には権力を正統づける権威をめぐっての天皇と義政の緊張関係を反映していると考えることもできるはずだ。確かに応仁の乱だけを見れば、革命意識のない革命ということになるが、この十年戦争の期間を包み込む東山文化の時代を俯瞰すれば足利義政の革命意識=イデオロギーは存在していたのである。足利政義は紛れもなく文化の革命を担ったのである。その主力部隊を担ったのが同朋衆である。水墨画の相阿弥、芸阿弥、能阿弥、連歌の能阿弥、木阿弥、量阿弥、立花の立阿弥、台阿弥、そして、作庭の善阿弥。民衆に阿弥号を持たせ―僧形の時宗の徒にして、身分を超えさせることで義政は民衆を自らの側近にしたのである。このようにして民衆を巻き込んだことは、この文化革命を生活文化の革命にまで昇華し、現在の私たちの生活にも影響を与えることになったのである。義政が山名持豊ではなく、細川勝元に加担することになったのは、勝元が義政の文化の理解者であったからだ。池波正太郎によれば┉┉。
「(勝元は)造園にも心得があって、宝徳二年には、洛北に竜安寺を創立し、〓僧義天玄承を請じて開山とした折に、その庭園の構想をひとりで練ったほどである。⁄それよりも尚、義政の感情をとらえたのは……。⁄勝元が北小路の館の、宏大な庭園の池や樹林に、明国から渡来した奇魚・奇鳥を放って、これを洛中洛外の人びとに、貴賎を問わず開放したことであった」
「義政は、たまに会うこともある持豊の、自分を全く小児あつかいにして、冷笑を浮かべている逞しく戦塵に灼けた面貌と、傲然たる肥〓を嫌悪していた」
細川勝元によって龍安寺が創建されたのは宝徳二年(一四五〇)のことである。境内の北側に本堂たる方丈があり、龍安寺の石庭として世界的にも有名な砂庭式枯山水庭園である方丈庭園がある。具体的に言えば土塀で囲まれた幅二・五メートル、奥行一〇メートルの四角い敷地に白砂を敷き、箒目で模様をつけ、十五個の石を五ヶ所に分けただけの、それゆえに抽象的かつ神秘的な庭園である。しかし、作者、作庭年代ともども表現意図に関しては様々な説があり、定かではない。それだけに私たちはそこに様々な意味を読み込むことができるというわけだ。観光シーズンから外れていたため、この日、私たちはじっくりと、この石庭を鑑賞した。十五に及ぶ石は、どの場所から庭を眺めても必ず一個は他の石に隠れて見えないようにつくられていることも、自分たちの目で確認した。見る位置を変えてこそ楽しめる庭なのだと思った。方丈庭園もまた、人びとに移動を喚起する庭なのである。そして、伊藤ていじが『枯山水』のなかで主張するように小太郎、彦二郎という二人の河原者が作者なのではないだろうか。
池波正太郎の小説『応仁の乱』の最大の山場は「文明四年春、足利義政は善阿弥とともに、消亡してから丸三年目の西芳寺を訪れた」件であろう。
「……一歩、この寺の庭園に踏み入ったとき、⁄「あ……」⁄義政は拳を胸のあたりに浮かせたまま、立ち竦んだ。⁄「み、見よ、善阿弥……」⁄不審そうに塀をまわって来た善阿弥も、義政の指すところに目をやると、すぐに、⁄「おう、おう!!」⁄すつかり曲った腰を振り立てるようにして、五、六歩駆け出したと思うと、ぺたりと草の上に座り込み、⁄「生きておりました!!生きておりました」⁄と、絶叫した。⁄岩は、石は生きていた」
戦火に燃えた西芳寺にあって、庭園の石だけは生き残っていたことに池波の描く義政は感動している。この感動が東山山荘(銀閣寺)造営に繋がるのである。当然、そのように読めるし、そのように積極的に読み込むべきである。むろん、言うまでもなく私たちにとって「石」は政義の「政治」のメタファーである。しかし、池波正太郎の小説『応仁の乱』は東山山荘の造営は敢えて描かず、隠されたモチーフとして潜在させる。
私たちは嵐山に向かった。大堰川の中州にある料亭「錦」で昼食をとるためである。池波正太郎は、この料亭の名物「桜宿膳」を評して「京の町家で使う箱膳を使い、念の入った、美しくて、うまい料理を食べさせる」と書いている。料亭と言っても、昼の桜宿膳は私たちでも手の出る範囲の値段である。私たちの眼前に運ばれてきた二段重ねの桜宿膳は池波の評価が間違いでないことをまず視覚に訴えてくる。本当に繊細で美しいのだ。上段には金箔の施された丹波黒豆甘煮、寒鮒甘露煮、姫くわい旨煮、鯛梅型寿し、鰻八幡巻きなどが並び、下段には海老黄金衣旨煮、湯葉含ませ煮など炊合わせが盛られている。昨夜の松鮨でも思ったことなのだが、味わいもまた繊細で美しい。うまさを美しいなどといえないはずなのだが、どうしても、そのように表現したくなってしまうのだ。困ったことに昼から日本酒が進む。いつもながらの癖なのだが、日本酒の酔いにまかせて想像する。池波は何故に『応仁の乱』を書いたのかと。
池波正太郎は東京を焦土と化した関東大震災のおこった大正十二年に生まれている。関東大震災は池波の記憶には残っていようもないだろうが、自らの生年月日が関東大震災のおこった年であることを意識しないわけはあるまい。そして、太平洋戦争を十八歳から二十二歳という最も多感な年代において経験する。池波は、この戦争期をどのように過ごしていたのか。池波正太郎が急逝した直後に刊行された『オール読物』の臨時増刊号「池波正太郎の世界」に掲載された永野敬吾による年譜の昭和十八年の項目には次のように書かれている。
「『婦人画報』の〈朗読文学〉欄に作品を投稿。五月号に『休日』が選外佳作、七月号に『兄の帰還』が入選、十一月号に『駆足』が佳作入選、十二月号に『雪』が選外佳作」
東京大空襲によって、東京は灰燼に帰してしまうわけだが、年譜の昭和二十年の項目にはこうある。
「三月十日の空襲で永住町の家焼ける。五月に米子の美保航空基地に転出、死ぬときのことばかり考えながら、〈そのころの私は、めったやたらに短歌や俳句のようなものをつくっていた〉。同基地で敗戦をむかえる」
池波正太郎の文学的な原点は、この戦争期にあったのである。死に直面しながらも、「短歌や俳句のようなもの」をつくることに没入していた池波正太郎のイメージは間違いなく足利義政に重なる。だとすれば、『応仁の乱』は池波正太郎にとっての戦後文学に他なるまい。
酔いを醒ますために嵐山界隈を散策することにした。中ノ島にかかる太鼓橋は、池波正太郎の時代小説の雰囲気そのものであった。池波にとっての銀閣寺が『鬼平犯科帖』であり、『剣客商売』であり、『仕掛人・藤枝梅安』などの時代小説なのかもしれない。そんな風に考えてしまったのは、日本酒の酔いがまだ残っていたからなのかもしれない。