断片の昭和史(10) 少年誘拐殺人・肉片ホルマリン漬事件

1957年(昭和32)4月4日午後2時過ぎ、中野に住む主婦のもとに落合長崎局の消印の押された一通の葉書が届く。そこには「子どもを戻してもらいたかったら、午後4時までに東上線鶴ヶ島駅へ115万持って来い」と書かれていた。
4月2日夜、近くの銭湯に出かけたまま行方不明になっていた12歳になる中学一年生の息子は誘拐されてしまっていたのだ。
2日夜の時点で警察に通報しなかったのは、離婚しているとはいえ、子どもの父親が当時の有名なプロレスラー清美川であり、スキャンダルになるのを恐れたためである。
清美川は大横綱双葉山を外掛けで倒したこともある角界出身のプロレスラーであった。力士としての最高位は最高位は東前頭筆頭であった。1946年11月場所を最後に廃業し、1953年にプロレスの世界に入った。力道山による日本プロレスの1954年2月の旗揚げシリーズに参加、1955年からは木村政彦国際プロレス団に移籍、翌1956年5月15日に木村とのコンビでラウル・ロメロ&ヤキ・ローチャを破り、中南米タッグ王座を獲得。団体消滅後は世界各地を転戦していたが、その最中に起きた事件であった。
脅迫状を受け取った母親は東京都中野区の野方警察署に駆け込んだ。
捜査本部は多くの誘拐事件がそうであるように犯人の指示通りに動くことにした。母親は15万円を抱えて鶴ヶ島駅に向かう。もちろん捜査陣が張り込んで周囲を固めていた。だが、犯人は現れなかった。その後、脅迫状も送られて来なかった。捜査は行き詰まり、事件は長期化されると思われていた矢先、一本の電話がかかってくる。電話の声の主は南多摩郡多摩村(現在の多摩市)にある都立桜ヶ丘保養院の精神科医であった。事件は急展開を遂げる。
中野区桜山町(現・東中野三丁目附近)に住む日本棋院七段名人の長男・林邦太郎(当時26歳)は精神を病み、桜ヶ丘保養院に約5年間入院していたが、現在は退院し、自宅で療養していた。ところが4月4日ごろから精神状態が不安定になり、6日に再入院する。そして林は医師の診断を受けている最中に異常な言動を繰り広げる。不審に思った医師は4月9日午前10時ごろ自宅を訪問。家族とともに林の四畳半の部屋に踏み込む。すると、そこには…。
血痕が畳いっぱいに散らばっていた。その畳をあげて床下を調べてみると、少年のバラバラ死体が二つの大型金魚鉢と二つの熱帯魚用水槽に収められていた。具体的に言うのであれば、金魚鉢には頭部と両足が、水槽には胴体と両腕が、ホルマリンに漬けられていた。それぞれ蓋はパテで密封されていた。警察は現場へ急行。そのバラバラ死体は行方不明となっていた12歳の少年であることが判明し、林は直ちに逮捕される。
その後の捜査により、殺された少年が銭湯で一緒になった同級生に「さっき僕の背中を流してくれたあの人に僕は殺されるかもしれない」と誘拐事件の数日前に吐露していたことが判明する。また林は飼っていた12匹の猫を皆殺しにして、しかも半分ほど食べてしまったことも判明する。林は犯行前に異常な精神状態となっていた。
林邦太郎は4月1日から再入院するまで、その日常の心の動きを克明に大学ノートに鉛筆で綴っていた。その最初のページには、こう書き記されていた。

ついに捜し求めていた理想の少年を見つけた。住所・氏名を聞いた。必ず連れ出そう。必ず。

林はその言葉通りに実践する。「12歳の花の盛りの少年は素晴らしい」(『少年のミューズ』)のだ。
12歳の少年は林が自分にとって危険な存在であることは承知していた。だから同級生に先のように告げたのだろう。しかし、少年は明日会おうという約束を林と交わしてしまう。少年は林と会うばかりか、彼の家にまでついていってしまう。夜9時、林は風呂に行けと両親を追い出す。「ふたりだけの世界」を獲得する。林は少年を裸にすべく服を脱がそうとした。少年は嫌がり、抵抗した。林は少年を殴った。少年は鼻血を出して倒れた。立ち上がろうとする少年を玄関に叩きつける。林は猫を殺めるように少年を死に至らしめた。
林は小さな死体を2日がかりで解体する。身代金要求の脅迫文はその合間に書いた。ちょっとしたイタズラのつもりであったという。林のノートにはこうある。

4月3日。ちょっとイタズラしたくなった。昼過ぎ、こどもが欲しければ15万持って鶴ヶ島駅へ来いと書いた葉書をポストに入れた。それから渋谷に行き熱帯魚を売っている店でガラス容器を四つ買った。今夜も徹哉で死体の処理をしたが、父や母は気づかなかったようだ。

林にとってナタやノコギリで切り刻んだホルマリン漬の少年は生きている時よりもかわいかった。大学ノートの最後のページには、こう「プラトニックラブの告白」が記されている。

金魚鉢に入ったあの子は、見ても見ても見飽きるということがない。ホルマリン漬けになったあの子は生きているときより、いっそうかわいい。親父たちがいるから、もったいないけれど昼間は床下に隠す。でも隠す前には必ずサヨナラを言うんだ。でも、別れのタビに、つらい…

ホルマリン漬にされた12歳の少年の頭部はまるで夢を見ているかのように安らかであったと言われている。
この年、浪曲の衰勢に見切りをつけた三波春夫が6月に『チャンチキおけさ』をリリースし、大ヒットさせ人気スターの仲間入りを果たす。

月がわびしい 路地裏の/屋台の酒の ほろ苦さ/知らぬ同士が 小皿叩いて/チャンチキおけさ/おけさ切なや やるせなや

事件を忘れるかのように街のいたるところで三波春夫の「明るい声」が鳴り響いた。
茨城県東海村の日本原子力研究所の原子炉が臨海に達し、日本で初めて「核の火」が灯ったのも、この年の8月27日のことであった。