前田敦子がAKB48を卒業!そこでAKB48とソーシャルメディアについて考えてみた

みなさん ありがとうございます☆ 特にメンバーには感謝(>_<) 私の背中を押してくれました♡ これからも私は変わりません、

AKB48を「卒業」することになった前田敦子のツイートである。AKB48は言わずと知れた国民的人気アイドル集団であり、前田はそのオープニングメンバーであり、メンバーのなかでも人気ナンバーワンの存在であることは、AKB48選抜総選挙で過去三回のうち二度も一位に輝いていることからもわかる。そんな「あっちゃん」が、3月25日にさいたまスーパーアリーナで行われた三夜連続のコンサートの最終日に「卒業」を宣言したのだ。要するにAKB48から独立して、ピンで仕事をすると。前田は大粒の涙を流しながら、ファンに報告したそうだ。

14の時にAKBのオーディションを受けました。人生で初めての大きな決断でした。そして、きょうここで、2回目の大きな決断をさせてください。私、前田敦子はAKB48を卒業します。

オフィシャルブログでも、次のように綴っている。

いろいろなチャンスをいただいた私がまず/一歩踏み出さないと/皆が後に続けないと思いました

さいたまアリーナの会場は異様な雰囲気に包まれながらも、「あっちゃん」コールが巻き起こったとスポーツ新聞は伝えている。前田の「卒業」をオジさんたちは好意的に伝えたわけだ。全国紙も報じたくらいだから、まあ、大事件なのだろう。
前田が先頭を切ってAKB48を離脱したことで、今後、次々に前田の後に続くメンバーが現れることになるのだろう。前田自身、そのパイオニアたらんとしているわけだ。当面、そうした前田の人生に前向きな姿勢はファンにも評価されることになろう。しかし、これまでの女子のアイドルグループの歴史が物語るようにメンバーが次々に独立を始めると、そのアイドルグループは衰退期に入り、やがて消滅してしまう頃には、独り立ちしたタレントも急速に輝きを失う。AKB48もまたそのような歴史を繰り返すのかもしれない。
いずれにしても、ここいらで私なりにAKB48を総括しておくことにしよう。私が以前からAKB48に着目していたのは、ソーシャルメディアの時代に相応しいアイドルグループであったからだ。これまでのアイドルグループは誰をセンターで歌わせるかを決定するのは、恐らくプロデューサーやディレクターといったプロフェッシャナルによって決定されていた。AKB48で言うならば秋元康が決定するということになるのだろうが、秋元はそうしなかった。ファン自身に決定させるイベントを企画させたのである。それが過去三回にわたって実施されたAKB48選抜総選挙であった。
誰もがメディアを持てるようになり、誰もが言いたいことを自由に発信し、かつ自在につながることができるようになったのが、ソーシャルメディアの時代にほかならない。水平軸の力学が双方向で機能するところにソーシャルメディアが実現するコミュニケーションの特質がある。そうシェアという言葉に象徴されるように情報を共有し、共有することによって裾野を広げてゆくコミュニケーションである。従来のマスメディアが実現してきたコミュニケーションは少数のプロフェッショナルから圧倒的多数の大衆に情報が一方的に伝達されるという、コミュニケーションとしてはいびつなものであった。啓蒙的、前衛的なコミュニケーションと言っても良いだろう。
そういう意味でプロフェッショナルによって何から何までが決定され、その結果のみが大衆に提供される従来のアイドルグループは間違いなくマスメディア的であった。AKB48以前のおニャン子クラブモーニング娘。がマスメディア的なのはテレビ資本が深く関与していたからではなく、垂直軸の力学に徹頭徹尾、依拠していたからにほかならない。これに対して、AKB48は誰がセンターで歌うのかという最終的な局面に限ってのことではあるが、水平軸の力学に依拠して、ファンの投票によって決定する。アイドルのプロデュース過程にユーザーの、素人の判断を介在させたことがソーシャルメディア的なのである。AKB48はファン(アイドルのユーザーである)に開かれた初めてのアイドルなのだ。アイドルとしての価値がファンに開かれているということは、その価値創造にファンが関与できるという仕組みが担保されているということである。そうした仕組みは確かにプロフェッショナルによってお膳立てされているにしても、AKB48はファンにとって自分たちの意志がアイドルとしての価値に反映されているということにおいて、まさに「等身大」の存在なのである。しかし、逆にいえば、AKB48はアイドルとしての神話性やら聖性が解体されてしまった場所に立たざるを得ないということだ。アイドルとしの神話性は垂直軸の力学に依拠した啓蒙的、前衛的なコミュニケーションなしには成立し得ないからだ。アイドルの価値がファンの知らない秘密の場所で創造され、その価値が一方的に発信されることによって、ファンは「聖」をマゾヒスティックに妄想する。AKB48とファンの間には、もはやそうしたエロティックな関係は成立しないのである。こうした事態をアイドルとしての頽廃と考えるのか、あるいは進化と考えるのか。そこは結局、ユーザー自身の「好み」の問題にほかなるまい。大衆はソーシャルメディアとマスメディアを自在に使い分けるということである。